2008年5月14日

報告:第147回(08‐5月)済生会新潟第二病院眼科勉強会  栗原 隆
 演題:『自らの身体への自己決定と身体の公共性』
 講師:栗原 隆(新潟大学人文学部教授)
  日時:平成20年5月14日(水) 16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】 
1)臓器売買の自由はあるか?
 自由主義とは、以下のように定義される。a)判断能力のある大人なら、b)自分の生命、身体、財産に関して、c)他人に危害を及ぼさない限り、d)たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、e)自己決定の権限を持つ(加藤尚武『現代倫理学入門』)。
 では、臓器売買について自己決定はできるのか? 

2)法律で決まっているからとはいえ、どうして臓器を売買することはいけないのか?
 臓器が少ない現状では、人助けとなる自発的な自己犠牲とも言える臓器売買は許されていいのではないか?とも考えられる。
 以下に資料を示す。 

 日本における臓器移植希望者数(2008年4月末現在)と2006年の移植数
         待機患者数      脳死移植数   生体移植数

  心臓          100            10           0

  心肺同時         4              0           0

  肺            115             3           4

  肝臓          201              5        505

  腎臓     11,802    16+死体181      939
 

 2006年に行なわれた実際の移植数(国際比較)
          心臓      腎臓     肝臓

  日本      10   1,136    510

  アメリカ 2,224  17,091  6,650

  イギリス   162   2,130    659

  フランス   380   2,731  1,037
 

3)どのように売買が禁止されているのか?(法的根拠)
 「何人も、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくは提供したことの対価として財産上の利益の供与を受け、又はその要求若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条1項)。
 「何人も、移植術に使用されるための臓器の提供を受けること若しくは受けたことの対価として財産上の利益の供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条2項)。
 さらに、「前各項の規定のいずれかに違反する行為に係るものであることを知って」臓器の摘出、使用を行なうことが、5項で禁じられている。 

4)世界でも売買は禁止されている
 しかしながら、臓器売買の禁止は、個人の自己決定によって、自らの臓器を売買して利益を手にしたいと考える人の自己決定権を侵害しているとも言えるし、また臓器の提供数の増加を阻害しているとも考えることができる。 

5)なぜ臓器売買が禁止されているのか
 「富者による『搾取』から貧者を『守る』必要がある」という議論が前提になっている。 

―反論―
 ラドクリフ・リチャーズ:十分な情報が提供され、支払いも確実になされるようにするためには、政府による適切な規制のもとで臓器売買がなされるようにするほうが望ましい。
 安部圭介・米倉滋人:個々の病院が臓器売買を恐れて一方的にルールを定め、そのために移植の必要な患者の親族に心理的圧迫が加えられたり、逆に臓器提供者が見つかっているにもかかわらず、親族ではないために移植がなされず、患者の生命が救われなかったりする状況は、経済的弱者の『保護』を言いつつ、別の弱者を抑圧する結果を招いていると言わざるを得ない。
 結局、臓器売買は、コントロールされた条件下、状況において許される!!という主張である。 

6)これを聞いて釈然としない気持ちはどこから来るのか?
 人体は売り物ではないという思想がある。売春、援助交際は、違法であり、倫理に反する。それは身体を売ることだからいけない、とされている。
 人間の尊厳は、道具を使うところにあるのだ。道具とは自らの外部の自然物を対象化して自らの目的遂行のための手段とすることである。自らの身体そのものを道具・手段にするのでは、動物と同じで、それでは人間の尊厳は失われる。 

小括
(脳死からの)臓器移植は、
1)「技術をもってできることなら」という〈技術信奉〉の流れのなかで、
2)生命を維持するためには、他人の臓器を買ってでもなんだって治そう、いや治すことができるという〈生命至上主義〉を大前提として、
3)他人の臓器であろうと、病気の臓器であろうと、とりあえず役に立つものは何だって使って、とりあえず、病状の改善という結果が出るなら、それは良いことだと見る〈功利主義〉に、
4)自らの身体に関しては、各々が「自由な自己決定権」を持っているので、自分の身体を文字通り売ってでも金銭を得たいという、〈自己決定〉も尊重されるべきという自由主義が後ろ盾をしている思想基盤の上で、
5)現実に臓器が不足している、というストーリーが進行するところに正当化されることになる。

 加えてしかも、脳死からの臓器移植がご遺体の損壊に繋がりかねず、また他人の死を待つ医療であるという後ろめたさを斟酌するならなおのこと、自発的な臓器売買は〈倫理的に許される〉、ということになるかもしれない。
 この結論で皆さんは満足するだろうか? なにやらグロテスクな話しになりかねない。 

 医療行為は、健康を回復するためのものである。ところがその提供者にあっては、健康を回復するどころかリスクが残る。したがって、健康な提供者から、金銭授受を目的として臓器を摘出することは、医療の目的からして許されることではない。 

7)人間の尊厳
 仮に、〈技術信奉〉〈生命至上主義〉〈功利主義〉〈自己決定〉のいずれを強調するにしても、臓器売買は、健康な体から臓器を摘出するものである以上、医療の目的に反する。人間は自ら「目的」なのであって、〈手段〉に堕すなら、人間の尊厳に悖る。
 「君自身の人格ならびに他のすべての人格に例外なく存するところの人間性を、いつまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段としてのみ使用してはならない」(カント『道徳形而上学原論』)。 

8)しかし、これで落ち着くであろうか?
 〈したい〉ことの実現を目指すのが〈自己決定〉であって、「するべきこと」実現を目指す「自律」とはまったく違う。従って、自らの身体への自己決定権が持ち出される限り、倫理性に反することさえ追求されることになる。
 臓器移植は、そうした自己決定権が認められるべきだという虚構の倫理性の上に成り立っている。その極端な形が臓器売買ということになろう。 

9)身体の公共性
 身体は個人の持ちものではない。身体=私である以上、自由な処分対象にはならない。
 「他人の身になる」―「身を持ち崩す」―「身から出た錆び」―「医療に身を入れる」―「身の程を知らない」―「身を立てる」
 そもそも、身体は、誰の所有物でもない。だからこそ自由に処分されえない、人格の尊厳の証なのである。 

10)人権観念の違い
 アメリカ式の考え方:人権とは個人の自由と権利であって、それ以上でも以下でもない。自分の体の一部をどう使おうとそれは本人の自由であるとして、広範な処分権をその人個人人認めるのが基本となる。
 人体要素の売買も一概には禁止されない。移植目的で提供された臓器や組織の売買は法で禁じられているが、提供された組織を保存・仮構して売買することは認められ、広くビジネスとして行なわれている(橳島次郎『先端医療のルール』)。
 フランスの民法では、「法は人身の至上性を保障し、その尊厳へのあらゆる侵害を禁じ、人をその生命の始まりから尊重することを保障する」 (民法典第16条)。
 「各人は自らの体を尊重される権利を持つ」として、「人体の尊重」を人権として認める(同16条の1)。
 そのうえで、「人身の尊厳」の具体的な中身として、「人の体は不可侵である。人の体、その要素およびその産物は、財産権の対象にできない」(第16の1条)。――不可侵の原則
 「治療が必要な場合に人体への侵襲を行なうには、それに先立って本人の同意を取らなければならない」(第16条の3)。――同意原則
 「人体とその要素および産物に財産上の価値を与える効果を持つ取り決めは、無効である」(第16の5条)、「自分自身に対する実験研究や、自分の体の要素の摘出もしくは産物の採取に同意した者には、いかなる報酬も与えてはならない」(第16の6条)――無償原則 

 フランス国務院の報告書 『同意はすべての場合に不可欠であるが、すべてをカバーすることはできない。人は、部分であろうと全体であろうと自らの体についていたいと思うことを絶対にする自由を持つものではない。人格はその人自身からも守られなければいけないというのが、公共の秩序による要請である(橳島次郎『先端医療のルール』)。 

 自己決定が有効な範囲と身体の公共性への認識を深めることが必要である。 

 

【栗原隆氏 略歴】
 1951年11月 新潟県生まれ 小学校三年まで新潟市
 1970年3月 新潟県立長岡高等学校 卒業
 1974年3月 新潟大学人文学部哲学科 卒業
 1976年4月 名古屋大学大学院文学研究科(修士課程) 入学
 1977年3月 同 中退
 1979年3月 東北大学大学院文学研究科(修士課程)終了
 1984年3月 神戸大学大学院文化学研究科(博士課程)修了 学術博士の学位取得
 1984年8月 神戸大学大学院文化学研究科 助手
 1987年4月 神戸女子薬科大学 非常勤講師
 1991年4月 新潟大学教養部 助教授
 1994年4月 新潟大学人文学部 助教授
 1995年2月 新潟大学人文学部 教授  
  専門は、生命倫理学、環境倫理学、近世哲学(ドイツ観念論)

 

 

【後 記】
 臓器売買の自由はあるか?という今回の話題、かなり刺激的でした。人は誰でも長く、そして健やかに生きたいと願います。時には人の臓器を提供して頂いてでも、万能細胞の力を借りてでも、、、、、。 諸外国に比べ、日本における臓器移植の少ないという事実。今や臓器移植を望むなら、インドやフィリピンにでも行かなければならない時代です。 

 現代は、核家族化が進み、おじいさん・おばあさんと一緒に住むことが少なくなりました。身近な人の「死」を経験することがなくなりました。そして「死」を受け入れること、「死」について考える機会が少なくなってきました。臓器移植ばかりでなく、万能細胞や再生医療の話題が毎日のように流れて来ます。そもそも医学とは人間を死なないようにする学問だったのでしょうか? 
 しかし、誰も死ななくなったらどうなるのでしょうか?限りある資源環境である地球に住む人類、人口が増え続ることは不可能です。「死」を受け入れる覚悟も必要かもしれません。 

 それにしても今回のお話は、臓器売買の危うさを論理的に解釈することの大事さを示してくれました。生命倫理において、論理的思考は重要です。そして人間の生きるべき道筋を深く洞察する哲学が深く関わることも理解できました。一方、これは変だなと直観的に感じることのできる皮膚感覚を磨くことも大切だと感じました。
 毎回、興味深い話題を提供して下さる栗原隆先生に感謝致します。

2008年2月23日

報告:済生会新潟第二病院眼科 公開講座2008『細井順 講演会』
(第144回(08‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
 演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
 講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
   期日:平成20年2月23日(土) 午後4時~5時半
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
 

【講演要旨】
 4年前の2月、スキーから帰ってきて血尿がでた。疲れたせいかなと軽く考えていたが、その後も一週間に一度くらいの割で血尿は続いた。痛みのない血尿は、外科医として常識的には癌を考える。しかも、すでに血尿が出ているということから早期の癌ではないと考えた。一方、ホスピス医としての経験から、手術や化学療法をめいっぱいにやった患者さんより、治療らしい治療をしないでがんと共存して過ごしてきた人の方が楽に死ねる。このような二つの経験から、私は慌てないで様子をみようと考えた。 

 3月も後半になり(血尿が出てから1ヶ月半経過)、排尿の度毎に汚く濃い色の血尿がでるようになった。満足に排尿することができず、これでは仕事にならない状態となった。仕方なくCT検査を受けた。その結果、右腎臓に直径8cm大の腫瘍が写っていた。最初に思ったことは、手術をしたら簡単に取れそうだということだった。がんではないかもしれないと直感的に思ったが、泌尿器科医の友人に相談してこれはがんだと納得した。患者さんのフィルムならがんと診断したはずなのに、自分のことになると悪いことは否認することに気づき、これが、がん患者の気持だと理解できた。 

 家族にがんが見つかり、手術を受けることを打ち明けた時、当時高校3年の息子は、「ワァー、でかいな。素人でも判るわ」。妻は「お葬式はどうする?」という反応であり、私としては楽になった。ある意味、スーッとした。 

 これまで、がんは患者さんの問題であったが自分の問題となって気づいたことがあった。ホスピスに入れるのでホッとした(癌でなければホスピスには入れない)。また本(今度は闘病記)が書ける。やっぱり家族の支えが一番。そして手術がこんなにも大変だという経験を出来たこと。医療者の一言の有難さ、怖さを経験できたこと。特に「がん」があってもなくても同じことという気持になれたことが大きかった。 

 手術前に「患者の気持ち」という一文をしたため、主治医に渡すことにした。何故なら命を左右するような手術にはしたくなかった。外科医はとかく無理をしたがる。ついついやりすぎてしまうことがある。私は今やっている仕事を続けたい。手術して仕事が出来る状態(血尿を止める)にして欲しいことを主治医に告げた。こんなことをして嫌われたらとも思い、多少の勇気は必要だったが、、、。通常取り交わしている手術の同意書は、主治医からの一方的な押し付けであることが多い。自分の存在を大切にして、こういう手術を受けたいと患者サイドから申し出することは大事なことだと思っていた。 

 ホスピスの仕事を一人の患者さんの事例を紹介して、お話しする。76歳男性。前立腺癌、腰椎に転移があり腰痛があった。初診時は、苦痛に顔をしかめ、「ワニに食いつかれて、振り回されているように痛む」と訴えた。鎮痛剤を処方した。翌日、回診時「戒名」についてお話を伺った。(普通ならまだそんな話は早いと言うところかもしれない)私は「ほう、私にも教えてくれますか?、なるほどいい戒名ですね」。翌々日、痛みについてお尋ねすると、「すっかりよくなりました。この病院に来てキリストに出会ったようです」。この患者さんからホスピスの治療とはどういうものか教わった。がん患者の痛みは、身体的苦痛のみでなく、社会的苦痛(仕事や家庭)、精神的苦痛(不安や苛立ち)のみでなく、スピリチュアルペイン(人生の意味や死の恐怖等々)も 関係する。がん患者の痛みには鎮痛剤ばかりではなく、傾聴も重要な治療手段である。このおじいさんはホスピスで「キリストに出会う」という象徴的な言葉で生きかえったことを表現した。 

 ホスピスで生きかえることができる理由を「ホスピスの秘密」と名付けて紹介したい。
1)『You are OK.』 これまで患者さんが経験してきた治療や生き方を受け止めることである。一般的には病院というのは悪いところを見つけるために行くところである。ホスピスではそうではなく、 You are OK (あなたは、それで大丈夫)と言うことも 必要である。今ここで出会えたのも、あなたがこれまで頑張ってきたから、、、。
2)外科的に治すという事は、癌を小さくすることであるが、ホスピスでは一緒に患者さんの重荷を担いで上げることである。患者さんとの一体感。自分のパフォーマンスをするのではなくて、自分を殺して患者を浮かばせる。生きているということは、誰かに支えられているということを実感する。
3)『お互いさま』のこころ。今日という時間を共有している。死にゆくという点では、患者さんも医療者もない。時期が少しずれているだけである。そう思うとケアをすることは、結局将来の自分のためだと思われてくる。
4)『死を創る』。その人が亡くなると、私の中にその人のいのちが受け継がれている。そういう意味では、ホスピスはいのちのたすきリレーの場所でもある。 

 死にゆく人を支えるには、誠実・感性・忍耐・謙遜・祈りが必要。「今日はご飯が食べられません」という患者に、「おかゆにしましょう」では感性がない。その言葉の奥に秘められた患者さんの気持を聴き取ることが大切である。食べられないほど弱ってしまったという不安や孤独な思いを聴き取ることが必要である。まずはよく患者の悩みを聴くことである。 

 2007年の世相を表す言葉として「偽」が選ばれた。そんな世相の中でホスピスはオアシスの役割を担っている。ホスピスを動かしている力は先程の言葉(誠実・感性・忍耐・謙遜・祈り)である。この世の名声、金銭、栄誉で動いているのではない。死を前にしたとき、この世の価値観では戦えない。オアシスだからこそ、先程紹介した患者さんのように生きかえる。 

 ホスピスは死にゆくところと理解している人たちが多いと思うが、死にゆくことは、本人にも、家族にもケアにあたるスタッフにも決して容易いことではない。ホスピスの役割は、最期まで「よい生」を続けられる環境を整えることである。その中で患者さん・家族が主役となって「よい生」が叶えられて「よい死」が創られると感じる。 

 「豊かな生き方、納得した終わり方」を考えた時に浮かぶキーワードがある。『症状のコントロール』、『人生の満足感』、『死生観の確立』、『家族の支え』の4つである。このうち、ホスピスでできることは、最初に挙げた症状のコントロールだけである。ホスピスまでの人生が、ホスピスでの過ごし方を決めている。近頃の問題として、家族関係の希薄さがホスピスケアにも影響を及ぼしている。最後に大阿闍梨(だいあじゃり)の言葉を紹介しよう。「仏さまは、ぼくの人生を見通しているのかもしれないね」という一節を見つけた。修行の極みに達した生き仏と言われる人物の一言である。何ともホッとして、気持が落ち着く言葉だろう。我々を包んで、運んでいる大きな翼があることを覚えたい。


【質疑応答】
質問:死にたくない、悔しい、苦しいと思う死は、「望ましくない死」なのだろうか? 「望ましくない死」を避けがたく迎える方、その家族にも満足感、敬意を抱いて頂きたいと思うし、現に何とか抱いて頂いているとも思うが・・・。
—————————————–
答え:本人にとって納得できる死を迎えられるような環境を整えることしかホスピスではできません。本人が納得できなければ、その納得できないことに付き合うのです。決して納得できるように説得するわけではありません。人は生きてきたように死ぬと言いますから、普段の生き方がポイントでしょう。ホスピスでは、9回裏ツーアウト満塁での逆転サヨナラ満塁ホームランをねらっているわけではないのです。 

質問:がんになって、突然、生の意味が語られることになる違和感は? 終末期以前で、病前期で、どうやって「豊かな生き方」を得ていくべきか?
——————————————
答え:「豊かな生き方、納得した終わり方」を考えた時、4つのポイント『症状のコントロール』、『人生の満足感』、『死生観の確立』、『家族の支え』があります。そのうち、ホスピスでできることは『症状のコントロール』(痛みからの解放)だけで、他の3点はホスピスまでに考えるテーマです。普段から終わりを意識した生き方を続けないとホスピスだけでは手遅れという場合も多々あります。昔からメメント・モリ(死を想え)という言葉があります。50才になったら人生の棚卸しをすることが薦められます。不用になったものを捨て、これから必要なものだけを残すことです。
 ホスピスは not doing, but being と言われる世界ですから、ホスピスに入りさえすれば「よい死」が待っていると短絡的に考えていると、失望します。そもそも死にゆくことは自分の問題で、医療の問題ではないからです。 

質問:「豊かな生き方、納得した終わり方」には多くの手助け、コストが必須ではないのか?
——————————————
答え:日本ホスピス緩和ケア協会の資料から、豊かな経営をしているホスピスはありません。赤字を出さないように四苦八苦しているのが現状です。しかし、ホスピスの数は増加傾向にあり、経営的理由で閉鎖するところは数カ所だったでしょうか。
 ホスピスを動かす力は、誠実、謙遜、感謝、信頼、祈りなどですから、常識的な経営感覚では説明できない何かがあるのでしょう。私どものホスピスでも決して安泰ではありませんし、ホスピス賛助会を設けて寄付を募っています。ボランティアの働きももちろん大切です。これは誤解しないでください。ホスピスの労働力としてボランティアを使っているという意味ではありません。ボランティアとして活動する方にとってプラスになることが、ホスピスにとってプラスになるのですから。
 

質問:細井先生のホスピスはボランティアを入れていますか? もし入っていたらどんなボランティアですか?
——————————————
答え:ボランティアの方が活躍しています。しかし、まだ少ない人数なので、ティーサービスを担当してもらってます。また、季節の行事の準備(この季節なら雛人形の飾り付けや後かたづけ)などです。今後、人数も増えて、もっともっと充実した活動を行っていただきたいと願っています。ボランティアはホスピスに潤いを与えてくれます。
 

質問:ホスピスは見学できるのでしょうか?
—————————————–
答え:見学はできます。しかし、見学者のためのプログラムを作っているわけではありません。建物の見学が中心です。地域に開かれたホスピスのためには、これも今後の課題の一つです。 

質問:ホスピスでの一日の流れなど詳しい生活が知りたい。
—————————————–
答え:ホスピスは痛みなどを少なくして、患者さんと家族に悔いのない1日を過ごして貰うための環境を整えることが役割です。家族にも参加してもらい、家庭での1日をホスピスで実現して貰います。従って所謂介護施設のように食事の時間、お風呂の時間、レクレーションの時間などのプログラムが用意されているわけではありません。
 

【細井順氏 略歴】
 1951年 岩手県生まれ。
  78年 大阪医科大学卒業。
    自治医科大学講師(消化器一般外科学)を経て、
  93年4月 淀川キリスト教病院外科医長。
  95年4月 父を胃がんのために、同院ホスピスで看取る。
       患者家族として経験したホスピスケアに眼からうろこが落ち、ホスピス医になることを決意。
        同院ホスピスで、ホスピス・緩和ケアについて研修。
  98年4月 愛知国際病院でホスピス開設(愛知県初)に携わる。
 2002年4月 財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長。
  04年4月 腎臓がんで右腎摘出術を受ける。
  06年10月 自らの闘病経験をふまえ患者目線の院内独立型ホスピスが完成。
      現在ホスピス長として患者の死に寄り添いながら、ホスピスケアの普及と充実のための啓発活動にも取り組んでいる。 

 現在、日本死の臨床研究会世話人
 著書:『ターミナルケアマニュアル第3版』(最新医学社、共著1997年)
     『私たちのホスピスをつくった 愛知国際病院の場合』(日本評論社、共著1998年)
     『死をみとる1週間』(医学書院、共著2002年)
     『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)
     『死をおそれないで生きる~がんになったホスピス医の人生論ノート』(いのちのことば社、2007年)
 財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院のHP
 http://www.vories.or.jp/ 


【後記】
 90名を超す大勢の方々に参加して頂きました。
 難い演題でしたが、細井先生は柔和な表情で、時に関西弁を交え、にこやかに語ってくれました。患者の心持は、繊細である。医療者の一言が心に響く。「患」という字は、串ざしの心とも読める。手術の同意書は医師からの押し付けになってはいないか?終わりを意識した生き方が大事、、、。講演もよかったのですが、最後の質疑応答も実のあるものでした。 
 著書『死をおそれないで生きる~がんになったホスピス医の人生論ノート』に以下のくだりがあります。患者さんや家族の持つ悩みは、ホスピスで過ごすわずかの間に解決できるはずがない。解決に至らなくても、共に悩みを分かち合うことは出来る。分かち合うことが解決の糸口になる。
 今回語られたのは「ホスピス」でしたが、心のケアという点では一般の医療の中に取り入れるべきものも多いと感じました。そしてこれまでの自分の生き様を考えるいい機会になりました。

2008年1月9日

 演題:『歩行訓練士は何を教えるのかー
            自分の歩行訓練プログラムを考えるために』
 講師:清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)
  日時:平成20年1月9日(水) 16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
 はじめに今回は中途視覚障害者を対象とした話です、と前置きがあった.
 「見えない人が安全に街を歩けるのか?」という命題から話し始めた.現実には、車輛交通の増加、スピードや移動形態の異なる歩行者の混在、低い縁石など、街がますます歩きにくくなっている.加えて、歩行者(視覚障害者)の高齢化、実働する歩行訓練士の地域格差(都市部には多いが、地方は少ない)という状況がある.これらの問題の突破口をどこに求めるのか?何よりも視覚障害者自身が「歩行訓練」が何かを、理解して批判できるようにならなくてはならない. 

 「歩行訓練」は「街を歩く訓練」である.「街を歩く」ことは、 単純化すると以下のようになる.1)単路(街区の辺)を歩く、2)角を見つける、3)角を曲がる、4)道路を渡る、5)方向を定位する(単路と「平行」、横断する道路と「垂直」)、6)杖の技術(物と身体の接触、段の踏み外しを寸前で阻止しする) これらが歩行訓練で習得する基本技能である. 

 目的地へ行き着くためには、「ランドマーク」を辿る.ランドマークを知る方法としては、現地調査、人に聞く、地図などがある.よく視覚障害者は「メンタルマップ」を持つべきと言われるが、観念的すぎる場合がある.実際には、メンタルマップを意識するよりも、具体的なランドマークを記憶する方がわかりやすいのではないか?ランドマークは人により様々に異なる.自分に合ったランドマークの選別も歩行訓練の重要な課題である. 

 「歩行訓練士が少ない」「訓練施設が遠い」場合は、自分の生活圏で街歩きの基本技能を練習すると良い.しかし屋外の歩行の場合、転倒、物との衝突、車輛との接触の危険があるので、家族・友人・ガイドヘルパー・ホームヘルパーといった身近な人に練習の見守りを依頼する.練習を始めるにあたっては、歩行訓練士と、練習の課題・場所・頻度・想定される危険等を話し合い、その後定期的(週一回あるいは月一回程度)に観察評価を頼む.この形態であれば、歩行訓練士が少ない地域でも歩行訓練は可能である. 

 毎日の生活に、一人歩きの練習時間が組み込めないかを考える.例えば、家族やガイドヘルパーとの買い物あるいは散歩ルートの中に、10メートルでも一人で歩ける所がないかを検討する.一足飛びに都心の雑踏を歩くことを考えず、まず、自分の生活圏で「歩く場所」を作り、一人歩きの楽しさを感じ、自分の歩行能力を確認してほしい. 

【略 歴】
 歩行訓練士として、
  1979年~2002年 視覚障害者更生訓練施設に勤務、
      その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。
  1988年~新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて
      視覚障害リハビリテーション外来担当。
  2003年~「耳原老松診療所」視覚障害外来担当。
  2004年~特定非営利活動法人 Tokyo Lighthouse  理事
      視覚障害リハビリテーション協会 理事
  http://www.ne.jp/asahi/michiko/visionrehab/profile.htm 

【後 記】 
 清水さんがお話される時は、いつも多くの方が参加されます。今回は、なんと遠く鹿児島、長崎、仙台からの参加者があり、最初から寒さも吹き飛ばすような熱気の中で始まりました。

 講演のあとの、参加者が皆で感想を語り合います。異口同音に「『歩く』ことを、こんなに深く洞察した話を聞くのは初めて」と述べていました。今回の清水さんのお話を聞いていると、「歩くこと」とは「生きること」と同じように聞こえてきました。いつも清水さんは「当事者の声が大事です。何か困ったことがあったら声を出して下さい」とよく言います。主体性を大事にします。

 歩行訓練士は、ただ歩く技術を教えるのではなく、如何にして思い通りに歩くことが出来るか、当事者自身に考えさせることが大切と説きます。結局「教える」ということは、「考えさせる」ことと思い知らされます。これは学校の先生も、医者も同じかなと感じました。 いつものように、いや、いつも以上に考えさせられた一時間半でした。

2007年11月22日

『済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2007』
 シンポジウム 「患者として思う、患者さんを想う」
  稲垣吉彦(患者;有限会社アットイーズ 取締役社長、千葉県)
  荒川和子(看護師;医療法人社団済安堂 井上眼科病院、東京)
  三輪まり枝(視能訓練士;国立身体障害者リハセンター病院)
 コメンテーター
  櫻井真彦(眼科医;埼玉医科大学総合医療センター教授)
日時:平成19年11月11日(日) 10時~12時半
場所:済生会新潟第二病院 10階会議室



 今年の市民公開講座は、稲垣吉彦さんという一人の患者さんが著した「見えなくなってはじめに読む本」の内容に即して構成しました。稲垣さんは、大学卒業後銀行に就職しますが、ぶどう膜炎を患い、緑内障のため視力を失います。仕事を辞め、離婚、、、。でも今は取締役社長として活躍中です。どうしてこの困難を克服できたのでしょうか? 今回、稲垣さん、眼科主治医、看護師、視能訓練士にお話を伺いました。
 「見えなくなってはじめに読む本」紹介URL
  http://www.kigaruni-net.com/k01-2.html

 「死刑宣告」の章に、執刀医として櫻井真彦先生(眼科医;現在、埼玉医科大学総合医療センター眼科教授)が登場します。『たっぷりと時間をかけて私の目の現状や手術の方法、治療計画や回復の見込みなど、知識がない私にも理解できるように理路整然と説明した』。「眼科医に望むこと」の章の一文を紹介します。『医師の患者に対する中途半端な気配りや優しさはいらない。ある意味冷酷であったとしてもその病気が治る病気なのか、それとも治らない病気なのか、初期段階できちんと宣告されたほうが、結果として患者を救うことになるのではないだろうか』。

 看護師として登場するのが、荒川和子氏(井上眼科病院 看護部長)です。「私が看護師に望むこと」の章に以下の記載があります。『当事者のケア以上に家族のケアは看護師の重要な役割かもしれない。眼科の看護師が苦悩する当事者を間近で見守るという役割は、まさに家族と対等である。家族の苦悩を開放するためのカウンセリングこそ眼科看護師の重要な役割の一つではないだろうか』。

 三輪まり枝氏(視能訓練士;国立身体障害者リハセンター病院)は、「見えることと読めること」の章に、同世代の明るい感じの視能訓練士として登場します。左目の中心に針の穴ほどの視野しか残っていないため、それまで新聞の文字など読めるはずもないと思っていた稲垣さんに、読めるようになるコツを優しく伝授してくれます。眼鏡の装用、書見台の利用、照明を明るくすること、残された視野が横長であることから縦書きの文字を横書きにして読むこと、拡大読書器の使用、、、。文字を読めた時の感動が紹介されています。『執刀医から見えるようにならないことを宣告されて以来、二度と読めないと思い込んでいた新聞を、予想外に読めることを知った私は、まるで旧友と再会できたかのように、この後しばらくの間時間を忘れその新聞を読みふけっていた』。

各演者の話の詳細を紹介します(長文です)。
【講演要旨】
「患者として思う」
   稲垣 吉彦(患者:有限会社アットイーズ 取締役社長)
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 私がぶどう膜炎「原田病」という病気を発症して、15年になります。この病気を発症する以前は、ほとんど病気には縁のない生活を送っていた私は、発症当時、自分自身が視覚障害者になることなど微塵も考えることはありませんでした。炎症が強いときには、自分でもちょっと見づらさを感じるものの、炎症が少し治まれば見え方は発症前と何ら変わらず、仕事を含め日常生活に何の影響もなく、当然完治するものと思いこんでいました。その後緑内障を併発し、発症から3年ほどで視覚障害者手帳を取得することになりました。

 こんな私が、今一人の患者として思うことは、まず自分の健康にもっと関心を持つべきだということです。もっと早く行動を起こしていたら、これほどまで見えなくならずに済んだかも知れません。また、見えなくなった今でも、定期的に受診を続けることで、自分の目の状態を常に把握することができています。長年、ぶどう膜炎という病気とつきあっている中で、どのようなときに、もしくはどんなことをしたら炎症が強まり、見えづらくなるのか、自分なりにわかるようになりました。わかったからと言って、見えるようになるわけではありませんが、自分なりに理由付けができるだけでも、余計な不安は軽減されます。

 第2には、何よりも情報が欲しいということです。自分の目の状態が医学的に見てどのような状態なのか、どうしたら少しでも見えやすくなるのか、見づらさを補う方法、利用できる福祉サービスの情報など、様々な情報をタイムリーに与えてもらえたら、生きていく希望も沸いてくる気がします。もっと身近なことでいえば、町中を歩いていて、そこに段差があるとか、車が停まっているなどという情報も、我々視覚障害者にとっては大切な情報です。

 見えなくなったということは、悲しいことですが、私はそういう結果になってしまったことを、誰のせいでもなく、自己責任であると思っています。そうなってしまった自分が、生きていることに感謝しつつ、残された人生を楽しむためにも、家族や医療スタッフをはじめ、回りのみなさまから様々な情報を与えていただければと思っています。

 

「患者を想う」
   荒川和子(看護師:井上眼科病院/東京)
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 看護とは、人が本来持っているその力を引き出し、その人らしく生きることを支援することです。
 看護師として以下のことを実践しています 1)目的意識を持って患者さんの話を傾聴する 2)情報提供:社会福祉制度の知識 3)視覚にかわる手がかりの活用:見えなくてもできるという成功体験 4)歩行訓練の基本を指導 5)家族への支援:家族の戸惑いを受け止める。

 看護師が、見えないシュミレーション体験はケアを行なう上で有効です。そしてロービジョンの知識を持ち、患者さんに何が必要かを判断できることも大事です。
 以下、実際の症例を紹介します。
 Aさんは50歳代の女性で清掃業の仕事をしていました。家族は娘さんと二人暮らしでしたが現在は一人暮。独身の弟さんがキーパーソンです。以前から緑内障と言われていましたが、放置していました。入院する2か月前急に視力低下を自覚。知人の勧めでやっと受診し、医師から緊急入院を勧められても経済的理由から入院しませんでした。3日後に再診を約束して帰りましたが再診日に来ないため、担当医が自宅に電話をしました。やっと再来した時は、視力はさらに悪化し、両眼ともに視力は(0.01)でした。

 看護師はまず、入院してきたAさんとのコミュニケーションを築く努力をしました。「入院できてよかった!不安だったでしょう?」と声をかけ、病気のこと、入院中の生活のこと、これからの生活のことも看護師が一緒に考えていくことをはっきり伝えました。

 Aさんの反応を観察しながら、少しづつ入院中のリハビリテーションを始めます。食事が一人でもこぼさずに食べる事ができる、トイレに行く、薬を飲む、着替えをするなど一人でもできることを体験しておくことが必要でした。

 医師の診断は「視力回復なし」でした。弟さんに本人への説明をどうしたらよいかを相談しました。弟さんは自分は面倒見ることが出来ないので本人にはっきり言ってほしいと希望しました。看護師は弟さんの希望を伝え、告知の場には看護師も同席し告知後のメンタルケアをさせて欲しいと医師に申し入れをしました。

 医師は、「これからもっと良くなって、また自転車に乗ったりするように回復することは難しいです。これからの事は看護師さんも力になってくれるのでよく相談していきましょう。身体障害者手帳の申請もしましょう」と説明。

 看護師は、「まず、地域の福祉課に相談しましょう」と提案し、地域のケースワーカーに連絡。ケースワーカーがAさんと面談し、生活保護の申請、家に帰らないで病院から生活訓練所に入れるように手続きをしました。そして、訓練後は生活保護規定のアパートを借りる用意があることまでの説明をして患者さんを励ましてくれました。連携が大切です。

 

「患者さんを想う」    
   三輪まり枝(視能訓練士:国立身体障害者リハセンター病院/所沢)    
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 「もし、私や家族が患者さんだったら、どうしてほしいだろう?」私は、ロービジョンケアにおいて患者さんと接する時に、このように自分の身に置き換えながら対応することを心がけています。

 国立身体障害者リハビリテーションセンターのロービジョンクリニック:眼科医師、視能訓練士、生活訓練専門職、ケースワーカーの4職種がチームを組んで、ロービジョン患者さんの相談に応じています。

ロービジョンケアの手順:
 1)「どのような見え方をしているか」という残存視機能を把握することが大切です。視力や視野の程度、斜視や眼球運動障害の有無、羞明の程度など、患者さんの目の状況を正確に知ることが基本となります。

 2)「どんなことで困っているか」というニーズの聞き取り:その際にコーチング手法などの「聴く技術」です。ニーズを聞きだしながら、患者さんと一緒に問題点の整理をし、必要なケア内容を検討します。もし、患者さんが黄班変性症などにより、物を見ようとするちょうど中心が見えない場合は、視線を動かして見やすい場所で見る「偏心視」を獲得しているかどうかの確認を優先します。獲得していない場合、必要に応じて偏心視獲得の訓練を行います。

 3)聞き取ったニーズに合わせた補助具の選定:補助具を2週間ほど貸し出し、その結果、日常生活に役立つものであれば処方され、合わなければ再選定を行います。見えにくさを補う補助具~文字や遠方が見えにくい場合は、拡大効果を得るための拡大鏡等。まぶしさがある場合は、羞明を軽減させる遮光眼鏡や帽子等。視野が狭い場合は、文字を読む際の行換えをスムーズにさせるタイポスコープ等。二重に見える場合は、プリズムや遮蔽するためのオクルーダーなど。各々の補助具の特徴を理解して選定することが重要です。

 ロービジョンケアでは、こちら側からの一方的なサービスの提供だけではなく、患者さんからお教えいただくことも多々あります。これからも患者さんとの出会いを大切にしながら、少しでも見やすい環境を整えるお手伝いをして参りたいと思っております。

 

【後記】 
 110名収容できる会場が、東京・埼玉・千葉・神奈川・茨城・長野・山形等、新潟県内外からの参加者で満員になりました。患者さんの話を聞く講演会、医師による講演会はよくありますが、患者さんとその治療に関わった医師・看護師・視能訓練士が一堂に介する企画、好評でした。

 稲垣さんは、はじめに肉声で自己紹介をしました。吃驚しました。マイクを通すと視力が不自由な方はスピーカーの方向に演者がいると錯覚するためだそうです。なるほどと、のっけから感心しました。講演では情報が欲しいと強調されました。情報には、医学的情報のみでなく、ロービジョン的知識・社会福祉制度等さまざまな情報と、障害者への気配りも含まれていたように感じました。

 荒川さんには、眼科看護師としての立場から患者ケアを語って頂きました。医学の中で眼科学はすごく発展していますが、一方、看護学の中で眼科看護という分野は未開拓であるように思います。今後ますますこの領域の発展に期待したいと思いました。

 医者は治療の専門家ですが、その後のフォロー(治療から社会復帰への道のりへの手助け)が『ロービジョンケア』という分野です。三輪さんは、視能訓練士の立場からロービジョンケアの実際について、具体的にお話してくれました。

 非常に困難な状況から稲垣さんが見事に立ち直った要因として、第1に患者さん自身が諦めなかった「患者の思い」、第2に治療に携わった医師が「責任を持って治療」に当たったこと、第3に看護師・視能訓練士が「患者さんの不自由さに想いを馳せてケアしたこと」(すなわちロービジョンケアなのですが)が挙げられると感じました。

 質疑応答の中で、櫻井先生の「『患者さんが最大の師である』ということを再認識した」というコメントが印象的でした。

2007年9月12日

報告:第139回(2007‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会   宮坂道夫
  演題:『かつてハンセン病患者であった人たちとともに』
  講師:宮坂道夫(新潟大学医学部准教授)
    日時:平成19年9月12日(水) 16:30 ~ 18:00
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
 ハンセン病は、病気というものが悲しい差別に結びつくことを、痛切に教えてくれる最たる例である。この病気が遺伝病ではなく感染症であることがわかったのが19世紀の末、日本国憲法に基本的人権がうたわれたのが1946年、ハンセン病の効果的な化学療法が開発されたのが1950年前後、世界ライ学会や世界保健機関(WHO)が隔離政策の廃止・通院診療が望ましいと公式な見解を出したのが1960年前後である。しかし、隔離政策を根拠づけた「らい予防法」が廃止されたのは、1996年のことであった。およそ一世紀にもわたる不合理な絶対隔離政策による患者の人権侵害が、かくも長く続いた原因はどこにあるのだろうか? 

第1章 無知から始まる旅
 2001年5月11日、何気なくテレビを見ていた。TV番組「ニュース・ステーション」で、熊本地裁判決(隔離政策に対する訴訟;原告側勝訴)のことを報じていた。谺(こだま)雄二さんが出演していた。1960年代生まれの私は、この時ハンセン病の「患者だった人」が語る姿をはじめて見た。谺さんは長い時間をかけて、カメラに向かって思いのたけを理路整然と訴えていた。彼は、病気が治って後遺症を抱える「患者だった人」である。病気が治っているのに、何故療養所で暮らさなければならないのか?そもそも感染力が強くもないハンセン病の患者が、何故故郷を捨てて人里離れた療養所に隔離されなければならなかったのか?このようなことが多くの国民に知らされていなかったのはマスコミにも責任があるのではないか? 

 新潟大学の全学講義(前年の全学講義は、ノーベル賞を受賞した白川英樹博士)に谺さんをお招きして、お話を伺うことにした。講義の打ち合わせで2002年3月25日、群馬県草津町の国立ハンセン病療養所の栗生(くりゅう)楽泉園に谺さんを訪問した。そこで幾多のことを教わった。園内だけでしか通用しない紙幣の存在、かつては外部との手紙も検閲されていたこと、亡くなっても御骨を故郷に埋葬できないため園内に建立された納骨堂、断種手術に使われた手術台、中絶した胎児のホルマリン漬けの標本、しかもそのような理不尽なことをかつて日本が台湾や韓国・中国でも行ってきたこと、園に入園した親を持つ子供は学校にも行けなかったこと、手でペンを持てないために口でペンをくわえて文字を書いていた人もいたこと、居住地のはずれに重監房と呼ばれる跡地。「孤独地獄、闇地獄」「日本のアウシュビッツ」、、、これは許されないことだと感じた。 

第2章 医学の物語
 2002年5月20日、新潟大学全学講義で谺さんに講演してもらった。演題は「人間として生きたい」であった。会場は満員となり、地元の新聞にも大きく取り上げられた。谺さんの「語り」は迫力があった。自分自身の体験を語るという当事者ならではの「小さな物語」と、日本国のハンセン病政策の歴史という「大きな物語」を同時に巧妙に織り交ぜて語って頂いた。 

 ハンセン病は「らい菌」が鼻粘膜や気道から侵入し感染すると考えられているが、感染の仕組みは今も解明されていない。「らい菌」を培養することが出来ていないため、細菌の生物学的性質が調べられていない。ただし確実に判っているのは、たとえ体内に感染したとしても防御免疫機能が働く場合は、感染が成立することは非常に少ないということである。 

 ハンセン病が進行すると「変形」と「身体障害」がもたらされる。らい菌が皮膚で増殖すると腫れ物や潰瘍を生じたり、皮膚を肥厚させる。末梢神経の障害により、手足の指が硬くなり屈曲したり、感覚がなくなり外傷や火傷を負っても気が付かないこともある。感染症対策で問題となるのは、感染を防ぐための隔離という手段の是非である。倫理学という視点からから考えると、二つの倫理原則について検討すれば、事足りる。すなわち、自律尊重原則(患者の自己決定権が尊重されるべきという原則)と、無危害原則(患者もしくは第三者にとって危害となるようなことはするべきでないという原則)である。この二つの原則から隔離を検討すると以下のようになる。病気そのものがもたらす危害が重篤で、他の手段で防げない時に限って、隔離という手段が検討される。次に隔離の医学的必要性を患者に十分に説明して、患者本人が自らの意思で隔離に応じるように促す。それが困難である場合に限って、強制隔離が検討される。 

第3章 烙印の物語
 ハンセン病は、古い時代から世界の多くの地域で強い差別の対象だった。特に顔貌の変化、手足の変形、潰瘍や膿、臭いなどに人々は反応した。このようなハンセン病を疎ましいと考える「烙印」、価値観は世代を超えて、そして地域を越えて世界中に存在した。仏教に、「天刑病」という言葉があり、よい行為をしなければハンセン病のようになってしまうという警告の役割をしていた。仏教に限らずキリスト教やユダヤ教をはじめ多くの宗教にこうした例を見ることが出来る。 

 19世紀にはヨーロッパの列強が植民地を拡大したが、そこにはまだハンセン病が蔓延していた。ノルウェーのハンセンが患者の組織から「らい菌」を発見し、感染症であることを1873年に報告し、次第に認められるようになってきた。ハンセン病がすでに過去の病気になった「文明国」は、まだ流行している「非文明国」からのハンセン病流入を防ぐため、植民地で強制隔離が行われるようになった。 

 オーストラリアでは、アポリジニーからのハンセン病感染を防ぐため、「らい線」と呼ばれる南緯20度に境界線(大陸に引かれた隔離の線)を引いた。南アフリカの療養所では、逃亡を防ぐため有刺鉄線がはりめぐされた。数ある収容所の中でもロベン島は最悪の場所だった。反体制の政治家、犯罪者、精神病者、そしてハンセン病患者がこの島に送られた。 

 わが国では、1900年当時の内務省は、(非文明国の病気であると考えられていた)ハンセン病患者の第一回全国調査を施行し、日本全国に3万人いることを報告した。このことは列強の仲間入りを目指していた日本にとって「国辱」であったと思われる。こうした事情からか、日本における強制隔離は、世界各国のものよりも群を抜いて強力なものであった。本人の意思に拠らない「強制隔離」であり、「生涯隔離」であり、たとえ完治しても隔離を解かない「絶対隔離」であった。 

第4章 世界最悪のパターナリズム
 光田健輔は、「救らいの父」と評価され、1951年文化勲章を受章した。ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在であり、病型分類に貢献した「光田反応」は有名。一方で1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れたこと、優生学に基づく患者に関する強制断種(ワゼクトミー)の実施など、ハンセン病患者の強制隔離・断種を推進し、ハンセン病患者に対する差別を助長する元凶を作った人物とも評されてる。 

 「強制隔離」「強制労働」「断種」「懲罰」は、患者を弾圧する、人道に反するものである。何故このようなことを思いつき、実行したのだろうか?実際は、「善行」として、良かれと思って、行なわれたふしがある。ある意味での「パターナリズム」という解釈である。「パター」とは父親という意味であり、父親と子供という当事者同士に力の不均衡があり、「強者」が「弱者」に対して恩恵を施すという価値観である。 

 「医は仁術」と言われる。「仁」の概念は、日本の近代医学で流通しているものと、中国の倫理思想でだいぶ異なる。「仁」は孔子によって提唱された倫理観である。「孝」が子供が親を尊ぶべきものという原則であるのに対して、「仁」はもっと広い対象への思いやりを意味する。他人に対しても親と同じような思いやりを持ち、自分を抑制するべきであるという倫理原則である。「対等もしくは同等の者が、目の上の者に対する関係」を前提としている。 

 日本における「医は仁術」は、専門知識を持ち、社会的地位が高い医師が、患者にかける憐れみの情を含んでいるように思われる。「救らい」という言葉で語られたハンセン病政策は、それに関わる医師、看護師、宗教家、社会事業家、学者、文化人等々が、皆「恩恵」を患者に与えようとしている。本人が意識しているか否かに拘らず、「目の上の者から、目下の者へ」というパターナリズムに近い構図のもとで成り立つ倫理観である。 

 「救らいの父」と称せられた光田健輔は、日本のハンセン病政策をデザインした当事者であった。弱い立場にあったハンセン病患者を「庇護」しようと、時に手弁当で働き、政府に働きかけ、ユートピアというべき療養所の建設を目指す姿はまさに「父親」のイメージであった。こうした努力により、国立ハンセン病療養所長島愛生園が完成した。その園長に就任した光田は「大家族主義」という方針を打ち出した。「患者も職員も家族であり、私が家長となり、親兄弟のように暮らしていきたい」。そして家長は罰する権限を持つとも述べている。家族主義の中には、「罰する親」という側面も有している。 

第5章 重監房であった出来事
 「大家族主義」の美名の下で行われた、強力な隔離、強制労働、断種と堕胎に対して、患者が不満を持たないはずはなかった。こうした不満に対して当時の日本政府は力で抑え込もうとした。1907年に制定された「らい予防法」は、9年後1916年療養所の所長に対して懲戒検束権を付与するように改められた。さらに15年後の1931年罰則規定が定められた。罰則の内容は、謹慎、減食、監禁、謹慎と減食、監禁と減食等の段階である。期間は30日以内とされたが、最大2ヶ月まで延長を認めた。科刑の場所として、各療養所に監禁所が設けられた。監禁所で「獄死」する患者が相次いだ。 

 私は「生命倫理学」を専門にしているが、ハンセン病問題を知るほどに、複雑な思いを抱かされた。米国から「患者の権利」「インフォームド・コンセント」といった概念が日本に紹介されたのは1970年代だが、ハンセン病の患者さんたちが人権擁護の運動を起こしたのは、それよりずっと前の1950年前後のことである。しかし、生命倫理学のテーマとして、ハンセン病問題が取りあげられたことはほとんどなかった。日本の医学史に「患者の権利の確立」という項目があるとすれば、ハンセン病問題抜きに語ることはできないであろう。この巨大な「事件」を生命倫理学という観点から見つめ直すこと- それは研究者としての自分自身への問いでもあった。 

 昨年(2006年)刊行した『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書)をベースに、お話をさせて頂いた。

 

【宮坂道夫先生:略歴】
 http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/hansen/jukambonokiroku.html
 昭和63年 3月 早稲田大学教育学部理学科卒業
 平成 2年 3月 大阪大学大学院医学研究科修士課程修了(医科学修士)
 平成 6年 9月 東京大学大学院医学系研究科博士課程単位取得退学
 平成 7年 9月 東京大学医学部助手
 平成10年 9月  博士(医学)取得(東京大学)
 平成11年10月 新潟大学医学部講師
 平成15年 1月 新潟大学医学部助教授
 平成19年 4月 新潟大学医学部准教授

 主著『医療倫理学の方法』(医学書院)
   『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書)
 http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/hansen/jukambonokiroku.html
 

【後記】
 ハンセン病、こんなに苛酷な実態だったとは、、、。知ってしまった、今後見過ごすことは出来ないというのが実感でした。

 改めて、ウィキペディアで「光田健輔」、検索してみました。「救らいの父」と評価され、文化勲章を受章した光田健輔氏。ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在であり、病型分類に貢献した「光田反応」は有名です。一方で1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れたこと、優生学に基づく患者に関する強制断種(ワゼクトミー)の実施など、ハンセン病患者の強制隔離・断種を推進し、ハンセン病患者に対する差別を助長する元凶を作った人物とも評されています。 

 お話している時の宮坂先生は、静かに怒っているように見えました。光田氏「個人」に対する批判を避け、生命倫理学者の立場から「世界最悪のパターナリズム」と結論されました。 

 お聞きしているうちに今回はかなり重いテーマの勉強会と感じていましたが、宮坂先生は最後に、「私は怒りに満ちて闘争している訳ではありません。谺(こだま)雄二さんや、国立ハンセン病療養所栗生(くりゅう)楽泉園の皆さんの人柄に触れて、交わりを楽しみ、今後もお付き合いしていきたいという思いがつよいのです。」と語ってくれました。それを聞いて何故か少しホッとしました。 

 亡くなっても御骨を故郷に埋葬できないため園内に建立された納骨堂のお話を聞いてた時、新潟県の視覚障がい者で構成する男性合唱団「どんぐり」(*)が、「粟生楽泉園」で行ったコンサートのことを思い興していました。最後に歌った曲は「故郷」。「兎追いしかの山~こぶな釣りしかの川~~~」。帰りたくても帰れない故郷を思いながら、全員で涙して歌ったと聞いています。

 ハンセン病、もう少し勉強してみたいと思いました。

 

(*)男性合唱団「どんぐり」
 http://www.ginzado.ne.jp/~tetuya/donguri/ayumi.htm

 

 

2007年9月5日

特別講演 2 
 「ロービジョンケアを考える」
    山田信也(生活支援員、歩行訓練士;国立函館視力障害センター)

【講演要旨】
《はじめに》
 新潟は思い出のある所です。かつて第一回盲聾疑似体験セミナーを当時、国立特殊教育研究所におられた中野泰志先生(現、慶応大学)方が企画され、高橋広先生(現、柳川リハ)、安藤伸朗先生(現、済生会新潟第二病院)らが参加され、高橋先生はそこでロービジョンケア、特に盲聾の方々のケアに目覚められたことを思い出します。 

1)「みる」ということ
 私たちがものを「みる」ということはどういうことなのでしょうか? ヒトが、花を見てから「それは花です」と答えるまで、以下のプロセスがあります。
 眼で、つまり網膜の視細胞で感じた刺激を、視神経、視交叉を介して脳の視覚中枢にて認識され、それを脳の運動野に伝えて声帯を動かして「それは花です」と言葉を発することになります。つまり、見るという当たり前のような行為の中に、様々なレベルで、障害がないということが前提になります。
 私たちが、「みる」と一言で言っても、様々な見方がありますし、当然見るレベルの差というものも考える必要があります。生理的な機能を十分に活用してみるのが、「見る」です。細かく見ていくのが「視る」というようにです。ロービジョン者自体がものを「みる」と言った場合、生理的な機能として見ることは能わないとしても、例えば分析したり、統合したり、認知したりといった点では、「みる」工夫をすることが大切であると思います。

2)ロービジョンサービスとロービジョンケア
 「ロービジョンサービス」と「ロービジョンケア」について、私見を述べたいと思います。言葉の意味の整理をしておきたいと思います(このことは今後、議論されていく課題だと思いますが)。
 「ロービジョンサービス」とは、保有している視機能を活用し、QOL(生活の質)の向上を目指す、どちらかと言えば、技術的にある一定のレベルのサービスを行うことだと考えます。従って、どの地方に行っても、ロービジョンサービスの質は一定であることを前提にしています。
 一方、「ロービジョンケア」とは、保有している視機能を最大限に活用し、その人の本心を大切にし、QOL(生活の質)の向上を目指すサービスであると言えます。そこには、ケアの側に重心があると思うのです。技術的な支援はもちろんですが、本人のその人らしさに着目して、問題解決をしていくと言うことが、大切になると思うのです。 

3)ロービジョンケアの基本姿勢
 ロービジョンケアを行う際の「基本姿勢」として、何が大切なのでしょうか。以下の点を心構えとして持つことが大事であると考えます。
 視覚障害はひとつの条件であって、総てではありません。ロービジョンケアを行ううえでは、その人らしさを大切にすることが大事なのです。つまり、目の前に現れたロービジョン児・者の生活者としての顔は様々です。だからこそ、その人の思いに寄り添い支援する。そして、目標が達せられた時の「人としての輝き」を共有する。ネガティブシンキング、ポジティブシンキングでもなく、背景を理解し、その人の想いを大切に受けとめ、同伴する。自己選択、自己決定を大切にすることが肝要です。 

4)障害を受けたときの本心
 「このままいったらどうなるんだろう・・・」、「仕事は大丈夫だろうか?・・・」。不安が不安を助長し、現実に取り組まず逡巡、諦めそうになったり、失望したり、落胆したりします。「自分の置かれている現状を見るのはちょっと・・・」、「あるがままに見たい、でも・・・」、「足りないものを認めたくない・・・」などなど。 

5)アクションプログラムーNOをYESにするアイテムー
 過去は過去、現在は現在です。できれば、NOと言われる現実をYESに転換したいわけです。
 そのためには、「アクションプログラム」を考える。その時の要点は今までの経験則から言えば以下の四点に集約されると考えています。
  ⅰ)協力者はいるのか?
  ⅱ)原則はあるのか?
  ⅲ)具体的な行動指針はあるのか? 
  ⅳ)行動期間を決めているか? 

6)自分の眼を諦めないー保有視覚活用を意識
 主体的に対処する(主人公になる)ためには何が必要か?まず、「自分の眼」を諦めてはいけない。「これだけしか見えない」と思うよりも「こんなにも見えているのか」ということに気づく。再び「見る」ことの楽しさを感じる。小さな一歩を大切にする。諦めないことで工夫が生まれるのです。
 自分の眼を諦めない上で大切なのが、保有視覚活用を意識することで、ロービジョンケアを進めていく上で大事な点です。
 「視力」とは何か?「視野」とは何だろう?視野の意味を本当に知っているのだろうか?生活視力や視野を考えたことがあるのか?コントラストのつけかたも・・・・。
 つまり、見えないことを気にするよりも、どのように見えているのかを知ることが大切で、見えにくさをどのように人に伝えているか?具体的に表現できるか?ができると、様々な工夫を生み出す余地が出てきます。 

《おわりに》
 『QOL(Quality of Life)』という言葉があります。「生命の質」と考えるのが、医学。「生活の質」と考えるのは、ロービジョンケア。「人生の質」と考えるのが、包括的リハビリテーションとしてのロービジョンケアであると思います。 医療のみでは、視覚障害者の悩みは問題解決はできません。包括的なリハビリテーションとしてのロービジョンケアを大切に育んでいく、そのためには多くの職種がその人らしさを大切に専門知識をもってサービスすることが大事です。NOをYESに転換するには、意識化が重要です。そして具体的なアクションプログラムを作成することが、ケアの根幹だと感じています。

 

【山田信也氏:略 歴】
    1961年10月31日 京都市生まれ
 (学歴)
    1987年 3月 日本社会事業大学社会福祉学部社会事業学科Ⅲ類卒業
    1996年 3月 九州芸術工科大学芸術工学研究科生活環境専攻中退
 (職歴)
    1987年 4月 国立福岡視力障害センター採用
    1999年 4月 国立函館視力障害センター配置転換
          福岡市地下鉄デザイン検討委員会委員(~2006年)
    2000年 4月 弘前大学医学部講師(~2005年 ロービジョン外来)
          日本ロービジョン学会理事就任 
    2002年 4月 福岡大学医学部公衆衛生学講座講師(実習担当)
    2004年 4月 東北大学医学部講師(~2006年 ロービジョン外来) 

【後記】
 6年前(2001年7月27日)、弘前大学に山田信也先生のロービジョン外来を見学に行ったことがあります。衝撃でした。机は丸机。同伴者も一緒に座る。一人に30分から60分掛けて一生懸命、患者さんの悩みを聞き出す。一緒に悩み、考える。解決出来ないことは次回までの宿題にする。遮光眼鏡の処方では、一緒にTVを観る。一緒に外を見る。一緒に廊下を歩く。。。。患者さんに「今日来て良かった」と思えることを、ひとつは感じてもらえるよう努力する。それまでの自分の外来が恥ずかしくなりました。
 そんな山田信也先生を一度、当院にお招きしたいと思っていました。この度初めて実現しました。講演は期待以上のものでした。単にロービジョンケアの技術論ではなく、心のケアなどというものでもなく、、、如何に患者さんに寄り添うかということの大切さを教わりました。医者になった時に意識していたことを、改めて教わりました。 

 

『山田信也先生の言葉から』(ネットで検索)
【医の原点】
 障害を持った人が病院にたどり着くまでに,どんな思いをするか。ひとりで来られる人もいますが,誰かにお願いしなければいけないこともある。そうした人を前にして「わあ,どうしよう?」ではなく,「いろんな思いをして来ているんだろうな」と,全部受け止めて癒していく。それが医の原点みたいな部分だと感じます。 

【コミュニケーションスキル】
 短い診療時間の中でも,本音を引き出す言葉というのがあります。そういうものをつかめたら,医療を志す人にとって大きなプラスになるし,患者さんも幸せです。 

【ロービジョンケアの可能性】
 黄斑変性や視神経萎縮の方で,中心暗点があっても周辺の視野が残っているような場合,本を読んだり,細かいものを見るのは苦手です。でも日常生活の中での歩行移動や作業はほとんど可能です。ところが,本人が「きちんと見てみよう」と思った時には中心に暗点がきて,そこだけ視野からスポンと抜けてしまい戸惑うわけです。そうした場合,訓練をすれば少し暗点をずらすような目の使い方ができるようになり,さほど不自由なくものを見ることができるようになってきます。
 光の明暗もわからないという方は,視覚的な情報よりも音の情報を使って,「交差点では自分と同じ方向の車の音がしたら横断しましょう」とか,「自分の進む側の音響信号が鳴ったと同時に出ましょう」という訓練をします。触覚を使ってものを判断したり,伝い歩きが可能なことを知ってもらい,杖を使って前の不安を取り除いて歩く訓練もします。
 タイプに応じた多様な訓練が可能です。仕事をしたいという人のために,技術訓練も可能です。コンピュータの画面を少し大きくすれば見えることがあり,拡大することで対応できます。それでも作業効率が落ちるということであれば音声を利用する方法もあります。パソコンの基本的な操作ができさえすれば,仕事を続けることも可能です。

 

*「自分でできるロービジョンケアWORKBOOK」
 自分の見え方や目の使い方を知ることで、ロービジョンの人の生活はもっと豊かになる! 自分でも簡単にできる眼球運動訓練の方法や、見やすい文房具、拡大鏡・単眼鏡、拡大 読書器の活用法なども解説。
 著者・発行元:山田信也(国立函館視力障害センター)
 大活字文庫 定価2940円

 

 

 

【新潟ロービジョン研究会2007】その1
  2007(平成19)年9月1日(土) 15時00分~18時45分
  済生会新潟第二病院 10階会議室    会費:1000円 

  特別講演~ 座長:張替涼子(新潟大学) 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
  「視覚障害リハビリテーション
         -ボランティア・パワーを集結した医療をめざしてー」 
     山田幸男(内科医 信楽園病院 視覚障害リハビリテーション外来)
  「ロービジョンケアを考える」
     山田信也(生活支援員、歩行訓練士;国立函館視力障害センター)

   討論会「眼科に期待すること、眼科が出来ること」
    司会 小野沢裕子(フリーアナウンサー) 安藤伸朗(眼科医)
    討論参加者  山田幸男(内科医) 山田信也(歩行訓練士)
          張替涼子(眼科医) 佐藤美恵子(視能訓練士)
          患者さん 会場全員

  機器展示 東海光学、ナイツ、タイムズコーポレーション、大活字、
       
おんでこ、新潟眼鏡院 

 2001年から毎年『新潟ロービジョン研究会』を開催しています。今年も9月に素晴らしい講演者に恵まれ、患者さん・家族・ボランティア・眼科医・視能訓練士・看護師・大学教員・盲学校教師・等、新潟県内外から100名を超える参加者で、8回目の研究会を盛大に行いました。報告『新潟ロービジョン研究会2007』(その1)山田幸男先生(信楽園病院)の特別講演の講演要約を紹介致します。
 

特別講演 1
「視覚障害リハビリテーション
       -ボランティア・パワーを集結した医療をめざしてー」 
   山田幸男(内科医 信楽園病院 視覚障害リハビリテーション外来)

【講演要約】
1.視覚障害者の自立のために、視覚障害リハビリテーション外来を開設
 内科医である私が、視覚障害者のリハビリに関わりを持つようになったのは、糖尿病で失明した35歳の患者さんの自殺を経験したことがきっかけだった。
 糖尿病で失明した患者さんは、眼科での治療は終了しても、内科の治療は終わらないことが少なくない。失明した患者さんへの対応は内科側でも必要となる。脳卒中の患者のように、視覚障害者にもリハビリテーションが行われなければならないと思ったが、糖尿病学会で埼玉の清水先生の講演を聞くまでリハビリテーションのあることを知らなかった。すぐに熊谷を訪ね、一週間泊めていただいた。その後、さらに全国の視覚障害リハビリを行っている施設を訪ね、一冊の本にまとめた。
 患者さんにアンケート調査してみると、家を離れることの不安、家族とともに暮らしたい等々、障害をもつ人こそ地域で暮らしながらリハビリテーションを受けたいと願っていることが判った。
 そこで、信楽園病院にリハビリテーション外来を開設することを検討した。開設には、リハビリテーションの必要性が知られていないことや、何からやるべきか見当がつかないこと、スタッフやリハビリの専門家が少ないこと、医療報酬がもらえないこと、事故を起こしたときの責任など様々な壁があった。しかし当時信楽園病院の院長だった平沢先生の「これは必要です」という応援もあり、1994年5月にようやく 視覚障害リハビリテーション外来が誕生した。
 外来日は毎月2回(12:30~17:00)、担当は、眼科医 2名、歩行・生活訓練士 1名、糖尿病内科医 1名、視能訓練士 1名。指導内容は、歩行訓練、ロービジョンケア、点字や音声パソコン指導、 こころのケア(グループセラピーも含む)、日常生活用具や 更生施設・援助制度の紹介、転倒予防教室、調理教室、化粧教室、拡大読書器・携帯電話の使用法の指導など。主な受診目的は、視覚的補助具の紹介・処方、白杖による歩行訓練、日常生活訓練、職業相談、音声パソコンなどであった。 

2.ボランティア・パワーを集結して、より良い診療に
 診療報酬がもらえない現在の医療体制の中で、視覚障害リハビリテーションをさらに発展させることは困難であった。そこで「ボランティア・パワー」に期待することにした。
 「ボランティア」について勉強した。そこで得られた結論は、「魅力のある、やりがいのあることを、まね事ではなく、オリジナルを含めて企画し、実行する。できないことは、全国にネットワークを広げ、全国の先生方のお力を借りる」こととした。 
 ボランティア・パワーのとくに関与の大きなものを次に紹介する。
 1)音声パソコン教室
 信楽園病院内に、「音声パソコン教室」を開設して12年が経った。当初は10名のコアメンバーを中心に始めた。週2回(水・土曜日)行い、毎回30~40人の参加者がある。楽しく、友達作りや心のケア、情報交換、ボランティア活動の場として利用してもらっている。昼食会も楽しいと好評。
 新たな発見があった。はじめは晴眼のボランティアが視覚障害者に教えていた。やがて視覚障害者同士で教えあい、そして視覚障害者が晴眼の肢体不自由者や高齢者に教えるようになった。先生も、生徒も、障害者。教わった人は、教える。障害を持たない人にはなかなか出来ないような忍耐強い教え方が障害を持つ人には出来る。何よりも「人の役に立つ」ということが、障害を持つ人のモチベーションとなった。これは、視覚障害を理解してもらう絶好の機会となった。
 視覚障害者のパソコン教室参加の目的は、パソコンを習うだけでなく、友達作り、情報交換、心のケアなど様々であった。特にパソコン教室が心のケアに役立っているか、アンケートしてみたところ、98%のひとが役立っていると回答してくれた。 
 「音声パソコン教室」の変遷 
  第1期(1995年6月~)ボランティアが視覚障害者に指導し、視覚障害者も視覚障害患者に指導。
  第2期(2000年10月~)視覚障害者が晴眼の肢体不自由者や高齢者に指導。
  第3期(2001年8月~)パソコン指導のほかに、「こころを病んでいる人」のこころを和らげ、癒す教室に。
  第4期(2006年1月~)エクセルも指導内容に含める。
  第5期(2007年6月~)調理・化粧教室、転倒予防教室も併設。 

 2)白杖・誘導歩行講習会
 白杖を使用している人のなかで、杖の使い方を教わった人は、わずかに42%しかいなかったため、講習会を始めた。
 講習会は、初めにお茶タイム、次いで講師によるレクチャー、そして歩行訓練、最後に意見交換という構成である。白杖歩行では一人の先生が一度に10人ほどの指導に当たるので、アシスタントが一つ一つの指示を伝達し、確認する。歩行訓練は、その後も、くり返し、指導し訓練しなければならないため、パソコン教室でも復習している。 

 3)立ち直りのきっかけ
 こころのケアは、何回も何回も相談にのり、勇気づけが必要。人手や時間のかかることなので、ボランティア・パワーに依存している。
 立ち直りのきっかけについて、アンケート調査した。様々な信楽園病院の関連行事(パソコン教室・視覚障害リハ外来・歩行講習会・グループセラピー・メーリングリスト・目の電話相談など)よりも「病院職員の一女性の対応」が一番大きな立ち直りのきっかけになった。彼女(小島さん)は当院の職員(売店)で、いつでも障害者と顔を合わすことができる立場にあることや、いつでも電話を受け取ることができる立場にあり、またすべての行事に参加しているので全員を把握しているうえ、「いのちの電話」でトレーニングを受けたことがあるため、親身になって相談にのり、すべての人から信頼されている。
 目のことで自殺を考えたことのある人は、失明した人で60%、ロービジョンの人で45%。ロービジョンの人で失明の不安を感じている人は、87%である。これまで自殺した人は3名であるが、視覚障害リハビリを開始してからは、皆無になった。  

3.さらに、新しい分野の開拓を
 眼が不自由になって運動量の減った人が70%であった。身長と体重から体型を評価するボディマス指数《BMI[体重(kg)/身長(m)二乗]》から算出すると、視覚障害者全体では、3割が肥満・3割が痩せであったが、男女で違いがあり、男性の場合は肥満が4割・痩せが1割弱、女性では肥満が2割・痩せが5割強であった。 視覚障害者は、運動不足・外出少ない(光に当たる機会少ない)・痩せ(女性)という点で、骨粗鬆症になる危険性が指摘される。さらに転倒しやすい、栄養の片寄りという因子が加わると、容易に骨折を来たすことが懸念される。こうしたことを背景に骨折の予防策として、運動療法・バランス体操(棒体操)→「骨粗しょう症・転倒予防教室」、栄養の片寄り→「栄養教室」を開始した。「メーキャップ教室」も大盛況である。

 最後に:ここまでやってこれたのは、県内外の先生方や全国の更生施設・障害者支援グループ(タートルの会など)の先生方のお力によるものです。あらためて感謝申し上げます。

【山田幸男氏:略 歴】
  1967年 新潟大学医学部卒業
  1968年 新潟大学医学部第一内科 内分泌・代謝班に所属
  1979年  信楽園病院に赴任 糖尿病の診療に従事
  2005年  新潟県保健衛生センター
         現在に至る

 

《山田先生「視覚障害リハビリテーション」の歩み》 (ネットから検索)
・1989年 7月 視覚障害者のリハビリテーション用テキスト出版「視覚障害者のリハビリテーション、特に中途視覚障害者の日常生活のために」
・1993年12月 新潟県中途視覚障害者のリハビリテーションを推進する会結成
・1994年 5月 中途視覚障害者のリハビリテーション外来開設
・1994年 9月 第1回中途視覚障害者のリハビリテーション講演会開催(年1回)
・1995年 3月 音声パソコン教室を信楽園病院に開設
・1995年11月 西川町に音声パソコン教室開設
・1996年 3月 小千谷市(点とう虫の会)、6月柏崎市、10月新発田市(フィンゲルの会)に音声パソコン教室開設
・1996年 5月 誘導歩行の講習会開始(月1回)
・1996年 9月 視覚障害者にたずさわるボランティアのための講習会開催(年4回)
・1997年 6月 誘導歩行学習用ビデオ作成「目の不自由な人の“目”となってください」
・1997年 8月 第1回学生のためのサマースクール開催“もっと目の不自由な人を知ってもらうために”(第1回)
・1997年12月 県内全小・中・高校に誘導歩行学習用ビデオ配布完了
・1998年 4月 上越市に音声パソコン教室開設
・1998年 5月 視覚障害者パソコンワークセンターの指定を受ける。(県身体障害者団体連合会)
・1998年 7月 誘導歩行の訪問指導開始
・1998年 9月 長岡市にパソコン教室開設(現在アットホームの会)
         誘導歩行学習用冊子「目の不自由な人の“目”となってください」作成
・1998年10月 第1回音声パソコンとコミュニケーション講習会開催(年1回)
         誘導歩行のポスターとしおり作成
・1999年 9月 白杖歩行の講習会開始(月1回)
・2000年 2月 目の電話相談室開設
・2000年 3月 電子メール(メーリングリスト)による交流開始
・2000年 4月 第1回視覚障害「こころのケア」セミナー(年1回)
         情報ダイアルサービス開始
         グループセラピー開始(月1回)
・2000年10月 視覚障害リハビリテーション外来にカウンセリング・コーナーを併設
         視覚障害者による脳卒中患者および高齢者のパソコン教室開設
         ホームページ開設
・2001年 9月 巻町に音声パソコン教室開設(現在すずらんの会)
・2001年10月 十日町市に音声パソコン教室開設(現在にこにこアットマークの会)
・2002年 6月 加茂市に音声パソコン教室開設(現在パソコンらくらく)
・2002年10月 第1回拡大読書器などの光学的補助具と音声パソコンの進歩開催
・2002年11月 拡大読書器教室開設
・2004年 2月 長野県安曇野三郷村に音声パソコン教室開設(現在にこにこ)
・2004年 5月 携帯電話講習会開催 携帯電話教室開設
・2005年 2月 誘導歩行講習会プログラムを作成、規定技術の習得者に【修了証書】を発行
・2005年 9月「視覚障害者の初めてのパソコン教室」出版
・2006年 5月「視覚障害リハビリテーション外来」「パソコン教室」を、信楽園病院から有明児童センター2Fに移転
・2006年 9月「特定非営利活動法人障害者自立支援センターオアシス」を設立
・2006年11月「白杖・誘導歩行講習会」にコミュニケーションの場「喫茶オアシス」を提供 

 もっと知りたい方は、下記を参照下さい。
 1)夢かける…目の不自由な人のための情報局
 http://www.fsinet.or.jp/~aisuisin/index.html
 「新潟県中途視覚障害者のリハビリテーションを推進する会」
 「障害者自立支援センターオアシス」 

 2)リハビリテーション – 自立は心のケアから
 ユニバーサルネット・コミュニティー(ゆうゆうゆう)2005年7月26日掲載
 http://www.u-x3.jp/modules/xfsection/article.php?articleid=43 

 

【後記】
 

 尊敬している山田幸男先生に講演して頂きました。期待通りの、いや期待以上の素晴らしい講演でした。
 20年前、受け持ちの失明した糖尿病患者さんの自殺から、目のリハビリテーションを目指します。しかし当時は目のリハビリは一般的でなく、手探りでの模索から創めます。そこで全国のいろいろな所に見学に行かれたとのことでした。「新潟でやらなくても、こちらへ患者さんを紹介してくれればいいんですよ」という施設も多かったそうです。でも患者さんは地元でリハビリを受けたいんだということ(そして悔しさ)を胸に、必死で自分の病院に内科医の山田先生が「目のリハビリ外来」を創設されましたと伺ったことがあります。
 それだけでも素晴らしい業績ですが、先生はそれに止まらず新潟県内そして県外にも「視覚障害者のためのパソコン教室」を各地に作り、長年に渡り「白杖&誘導歩行訓練教室」を開催し、一般の子供と視覚障害者の触れ合いを目的とした「サマースクール」を毎年夏に開催等々、事業を拡大してきました。その功績の一部は、山田先生「視覚障害リハビリテーション」の歩みにまとめました(上記)。
 講演の最中に「新潟は遅れている、新潟はまだまだなので、」と何度も繰り返されました。「まだ遅れていると思う」ことが先生のエネルギー源です。確かに患者さんからすれば、まだまだ満足できない状況ではあります。でも今の新潟の「目のリハビリテーション」のレベルは(山田先生のお陰で)、全国でも有数な先進県ではないかと私は思います(この点が山田先生の凄さと、私の至らないところの差だと思います)。あくまでも「患者さんの視点に立つ」ことを学びました。
 現実には報酬の対象となりにくいロービジョン外来を創設・維持することは大変な困難を伴います。それをボランティアの方々の協力を得ることで解決してきた道のりに感服です。常々、どうして山田先生の周りには人が集まるのか不思議でしたが、その秘訣を初めて伺うことが出来ました。「魅力のある、やりがいのあることを、まね事ではなく、オリジナルを含めて企画し、実行する」。なるほどと合点がいきました。やはり山田先生は「ただもの」ではありませんでした。
 内科医であることから、以前から独特の視点で取り組みを展開されていました。本来体内時計は25時間にセットされているといいます。起床時に視覚的に明るい光が入ることにより、体内時計が24時間に調整されます。でも視覚障害者はこれがうまくいかないことが多く、夜更かし勝ちになり不眠を訴える方が多いことを専門の内分泌の知識から松果体との関連で研究されました。今回は骨折との関係を運動量とBMIを用いて研究され、運動療法・バランス体操(棒体操)→「骨粗しょう症・転倒予防教室」、栄養の片寄り→「栄養教室」を開始し、さらに「メーキャップ教室」まで手を伸ばしておられます。凄いです。次はどんな展開になるのでしょう。
 山田幸男先生のパワーと迫力に圧倒された50分でした。

2007年7月18日

報告:第137回(2007‐07月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』 
 日時:平成19年7月18日(水) 16:30 ~ 18:00
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

1)「住みやすい社会」 
  石黒知頼(いしぐろ ともより)中学部2年生
【講演要旨】
 僕は困っています。そこで社会に対して二つのお願いがあります。「電化製品の音声化」と「歩きやすい社会」ということです。
 一つめの「電化製品の音声化」についてです。DVDを購入したのですが、画面が判りませんので、「メニュー」からの操作が出来ません。自分では何もできず、ボタンを押す回数で操作を覚えました。「音声があるといいのになあ」といつも思います。
 二つめは「歩きやすい社会」についてです。歩いていると電柱にぶつかったり、道ばたには蓋のついていない排水溝があったり、点字ブロック上には車がとめてあったりと、視覚障害者にとっては不便な状況がかなりあります。電柱をなくす(地下に設置する)、マンホールの蓋は閉める、点字ブロック上には物を置かないなど留意してもらうと私たちでも歩ける社会になります。
 こんな工夫をしてもらうだけで、人の手を借りなくても自分でやれるようになります。こうしたことをこれからも、声を出して訴えていきたいと思います。  

【自己紹介】
 将棋が大好きです。そんなに強くありませんが、将棋の番組も好きです。学校で好きな教科は英語です。今年の体育祭では実行委員として、「競技上の注意」を発表しました。緊張しましたが間違いなくしっかりと言えました。 

【先生から】
 6月22日に行われた関東甲信越地区盲学校弁論大会(*)に、学校代表として参加しました。英語、パソコンが得意です。学校では毎日英語を使って会話しています。 

【全国盲学校弁論大会】
 1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更。
 大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。
 新潟盲学校は地区予選を「関東甲信越地区」の枠で行う。

*関東甲信越地区盲学校弁論大会
 平成19年6月22日(金)、「かながわ労働プラザ」、横浜訓盲学院主管 持ち時間7分間、原稿なし、マイクなしの条件の下、12校13名の弁士がそれぞれの体験や思いをこめて熱弁を繰り広げた。
 

2)「本当の便利さとは」
  近山朱里(ちかやま あかり) 中学部2年生
【講演要旨】
 視覚障害者にも使いやすい商品は確かに開発されてきています。シャンプー(ギザギザがついている)とリンスの区別、携帯電話のナビゲーション機能などはとても便利です。でも、まだまだ使いにくいものが多いです。画面でのタッチパネルや、ボタンが小さいことなど・・・。公共のトイレも場所によってボタン式だったり、レバーだったりです。
 3年前我が家で、新しい車を購入しました。でもこの車のラジオ等の操作は、タッチパネルなので使えませんでした。自分で出来なければ、誰かに頼まなければなりません。運転中に言われたら困るだろうなと思います。 修学旅行に行った時、トイレに入りましたが操作が出来ませんでした。
 どんどん便利になっているとはよく聞きますが、「本当の意味での便利さ」とはどういうことなのでしょう。今の商品はデザインが優先されています。もちろんお洒落なものは作って欲しいです。でも私たちにも使えるものを作って欲しいのです。
 これからも、こうすればよくなる、こうすれば使えるようになるということを、提案していきたいと思います。 

【自己紹介】
 6月23日に行われた県音楽コンクールピアノ部門に、2年ぶりに出場しました。 現在は毎日弥彦から通っています。よく見る番組は「どんど晴れ」です。 

【先生から】
 いつもにこにこしている子です。中学部では紅一点の存在ですが、がんばっています。昨年はヘレンケラー記念音楽コンクール(*)において大人も混じった中で、ピアノ部門1位を獲得しました。 

*ヘレン・ケラー記念音楽コンクール
 東日本及び西日本ヘレン・ケラー財団を統括する日本ヘレン・ケラー協会などの主催で1949年(昭和24年)12月13日、全国盲学生音楽コンクールとして、始まりました。盲学校音楽教育の実態を知ってもらい音楽家を志す盲学生の登竜門にするのが目的です。第6回(1954年)から東京ヘレン・ケラー協会のみの主催となって、「全日本盲学生音楽コンクール」と改称、第51回(2001年)から普通校で学ぶ弱視児まで参加枠を拡大し、現在の名称に改めました。
 この間、第6回に小学4年でデビューしたバイオリンの和波孝さん、第17回に同じ小学4年で絶賛されたチェンバロなど鍵盤楽器演奏家の武久源造(たけひさ・げんぞう)さんら、国際的に活躍する音楽家を輩出しています。また、このコンクールで得た自信を、その後の道に生かして音楽とは別な分野で優れた業績を挙げた人も少なくありません。

「第56回ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」
(主催;東京ヘレン・ケラー協会、共催:JT、後援;文部科学省、毎日新聞社など) 
 平成18年11月25日 JTホールアフィニス(東京都港区)
 【ピアノ中高大学の部】
  1位 近山朱里(新潟県立新潟盲・中1)
  2位 勝島佑太(武蔵野音大4年)
  3位 小島怜(筑波大付属盲・専2)
 

3)「障害者生活10年を考える」 
  櫻井孝志(さくらい たかし)高等部普通科3年生
【講演要旨】
 視覚障害者になってから、今年でちょうど10年となります。この間に感じたこと、考えたことなどをお話します。いろいろと感じてくださるとうれしいです。
 生来難聴です。幼稚園の時左眼に怪我、小学校1年の時に右眼に怪我をして、以来私は両目両耳に障害を持ってしまいました。小学校2年から5年まで学校に行けずに家で過ごしていました。5年生から毎日2時間だけ登校しました。「本当にこの授業を受けていいのだろうか」「私のために授業が遅れてしまわないだろうか」。周囲の人は、とても私に気を遣ってくれました。でもそれが苦痛でした。特別扱いをしないで欲しいと思いました。 会津若松への移動授業の時、私の手を繋いでくれていた同級生が「誰か櫻井君の手を引いてよ」と言った一言を、今でもよく覚えています。
 中学から盲学校に通っています。小学校時代に感じていたような罪悪感はなくなりましたが、井の中の蛙にならないか、盲学校にいることは社会への逃避にならないかという思いがあります。健常者の行っているイベントによく参加します。こうした交流は必要不可欠と思っています。
 自分と同じような障害を持つ環境にいることは住みやすいのですが、傷つくことを覚悟で健常者の世界に飛び出していきたいと思っています。 

【自己紹介】
 好きな教科は歴史と古典です。3年前にも済生会病院で「ヘレンケラーを目指して」というものを紹介させていただいたことがあります。
 今年の体育祭では、紅組の団長を務めました。例年になく緊張して本番を迎えました。今年の紅組のテーマは「風林火山」でした。その心意気のもと、団員全員の心を一つにして闘い、応援と競技でダブル優勝を果たすことが出来ました。 

【先生から】
 歴史に関する感心と知識はかなりのものです。高校3年生ということでさまざまな場面で活躍しています。今年度の体育祭では紅組の団長を務め、すばらしいリーダーシップを発揮して競技、応援とも優勝を勝ち取りました。  

 

【後 記】
 2001年から毎年、当院にて新潟盲学校の生徒による弁論大会を開催し、今回で7回目になります。人の役に立つことをしたい、人の手を借りずにやっていけるような社会に変えていきたいという真摯な訴えに、毎回感動しています。
 石黒知頼君は背筋をしっかり伸ばして、大きな声で発表してくれました。流暢な英語の発音にびっくりでした。近山朱里さんは、明るくチャーミングな性格が印象的でした。櫻井孝志君は、3年前に続いて2回目の登場でした。成長した姿を見せてくれました。
 今年は新潟盲学校創立100周年にあたります。これまでの道のりは決して平坦ではなかったと思いますが、まっすぐに成長している生徒の姿を拝見し、素晴らしい教育がなされていることを実感しています。ますますの発展を期待します。 

2007年6月13日

 演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 
                  黄斑症患者としての11年』
 講師:関 恒子(患者;松本市)
  日時:平成19年6月13日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来   

【講演要旨】
ⅰ)はじめに
 病歴:1996年1月左眼の視野の中心に小さな歪みが出現し、強度近視による血管新生黄斑症と診断された。同年11月には右眼にも同様な症状が出現し、左眼は強膜短縮黄斑移動術(1997年)、左眼は360度網膜切開黄斑転移術(1999年)を施行。結局両眼合わせて入院を5回、手術を9回経験した。その後香港で光線力学的療法(PDT)を受け、更にその後ステロイド治療も受けた。現在は、左眼矯正視力は現在0.5であるが、中心部にはドーナツ型の暗点があり、その中心は歪んで見える。有効視野は狭く生活には不自由である。右眼は矯正視力0.4で、暗順応、色覚が悪く,羞明等問題はあるが、生活には役立っている。現在右眼の視野狭窄の進行が不安である。
 発病からの11年を振り返ると、医療体験の中からそして家族から得てきたもの、あるいは視力障害を持ったために得た新たな感動等が思い起こされ、私には失ったものより得たものの方が多いように思われる。 

ⅱ)医療体験の中から
 私が気付いた最初の異変は左眼の小さな歪みだったが、黄斑変性症について何の知識もなかったため、歪みが大きくなり新聞の文字が読み難くなってから、コンタクトレンズのことでお世話になっていた開業医のN先生を訪れた。そこで視力が0.1以下に低下するかもしれないと聞いた時は信じられなかった。そして紹介された地元の大学病院で更に検査したが、確立した治療法がなく、視力低下を回復することができないと聞き、落胆した。 

 経過観察する中、いよいよ視力が0.3程に低下した時点で新生血管抜去の手術が提案されたが、その病院では当時まだ3例しか経験がなく、視力の改善も望めないという説明から私は手術を受けることを躊躇した。N先生は初診の日から行く度に「心配なことがあったらいつでも相談に来て下さい」と言ってくれていたので、私はN先生を訪れ、手術について相談した。N先生は私の話を聞いて、新たに大阪の大学病院で診てもらう手配を整えてくれ、私はそこで手術について相談することになった。 

 ところが、大阪の大学では新生血管抜去の手術ではなく、新しい手術を勧められた。視力改善が望める新しい手術と聞き、私はその手術に期待して即座に承諾して地元に帰った。早速N先生に報告すると、それはどんな手術かと尋ねられたが、その時になって私は「視力改善が望める新しい手術」としか聞いて来なかったことに気付いた。網膜の新しい手術についてはN 先生も情報がなく、とにかく情報を集めようということになり、間もなく米国の雑誌に網膜移動術の報告を見つけたのだが、その手術の結果は私の期待とはかけ離れたものだった。「受けようとしている手術がどんな手術か確かめてから受けるように」というN先生のアドバイスを受けて、私は大阪の病院に説明を求めた。 

 結局私は視力回復を願い、手術を受ける決心をした。私と同様に説明を受けたN先生は、私のために他の先生方の意見も集めてくれ、心配しながらも私の決心に同意してくれた。 

 新しい手術には危険が大きいけれど、視力改善の可能性に賭けることを私は決断した。それは何の治療も受けずにいることの方が私には遥かに辛かったからである。視機能の低下を自覚しながら、何の治療も受けられずに経過観察だけを行っていた1年間は、発症から現在までの11年間で私が最も辛かった時期であった。 

 手術を決意するまでの過程で、惜しみなくN先生が私を援助してくれたことから、私は精神的にも支えられ、現在に至ったことを私は大変感謝している。N先生からは「患者は、治療について説明を充分聞くこと、それを理解する努力をすること、そして最後の決定は自分自身ですべきであること」を学んだように思う。 

 医学にも限界がある。患者は自分の問題を全て医学に負わせるのではなく、自分の人生に係わる重大な問題の決定には、自ら参加しなくてはならないと思う。自分で決定したことには自分にも責任が生ずる。「決定に対する自己の責任」の認識が、例え結果が悪くてもそれを受け入れ、その後の人生を前向きに生きることができることに繋がり、又医療者側と患者が良好な関係を保つことにも繋がると思う。 

 私の手術の結果は全てが期待通りだったとは言えない。けれども、治療の存在が私に希望を与え、治療が受けられたことで当時の私が救われたことは確かであった。私は自分の決断を後悔したことはない。 

ⅲ)家族と共に
 両眼に発症したことが分かり、将来へ大きな不安を感じた頃のことである。「命がなくなるわけではないから、いいじゃないか」と言う夫の言葉はいかにも気軽で、「自分の眼は命より大切なものだ」と信じていた私には意外だった。しかし夫の書斎に目の病気に関する本が沢山積み重なっているのを見て夫の心の内が察せられた。 

 私には成人した子供、一男一女がいる。電話で私の窮状を訴えると、2人からも「目は悪くなっても死にはしないから大丈夫」と夫と同じような言葉が返ってきて驚いた。更に長男から「全盲の人でも立派に市民生活をしているよ」と言われた時、私はようやく気付いた。 

 それまでの私は「見えなくなるかもしれない」という不安に支配され、暗い将来ばかりに目を向けていたが、「自分はまだ見えている」という明るい側面に目を向けることができるようになったのは、その時からだった。これを契機にポジティブな考え方ができるようになり、眼が悪くなったために「できなくなったこと」を数えるより、「まだできること」を楽しみ、新たな喜びと感動を味わうことができるようになったのである。私の家族がしてくれた最大のサポートがこのように私にターニングポイントを与えてくれたことであったと思う。 

 私の眼の病気は、家族にとってもショッキングなことであったに違いないが、家族が動揺を見せず、常に私を支える側でいてくれたことは有り難いことだった。家族が病気を理解し、状態を敏感に察知して何気なくサポートしてくれたことにも感謝している。 

ⅳ)「見たいものが見えない」「見ようとしなければ見えない」
 私のように障害認定を受けるほどの障害を持たない者には、外からの援助は少ないので、患者自身が積極的に自分の問題を解決し、QOLの向上を図る必要がある。黄斑変性症になると、環境によって見え方が左右されるので、自分の見え方をよくするためにどんな環境が最適であるかを考え、可能な限り環境を整えることが大切である。 

 黄斑変性症患者にとって「見ようとする意識」と「見るための努力」が大切な要素となる。病気のために中心視野が見え難くなると、周辺のどうでもいい物は見えても見たい物が見え難くなる。今まで何の意識もなく見えていたのに、見ようと意識して視線をずらさないと見たい物が見えてこない。見たいという意識なしには物は見えてこないのである。そして、足りない視力を補うために面倒がらずに道具を使い、それを上手に使いこなすための工夫・努力も必要である。 こうした努力をして眼に見えてくる映像は、以前より鮮明に輝きを増し、多くの感動を与えてくれる。 

ⅴ)終わりに
 私の右眼は手術後近見視力がかなり改善した。しかし又悪くなるかもしれないという不安がある。今見えるうちにこの視力を最大限に活用しようと、5年前から地元の大学でドイツ文学を学んでいる。手術してくれた先生に感謝しながら、文字を読めることの喜びを噛み締めている。 これも、私が視力障害を持ったからこそ味わう喜びであり、新たに知った世界と新たな感動の一つである。 

 最後にドイツ文学の中からゲーテ(1749~1832)の詩劇『ファウスト』を簡単に紹介したい。
 学問を究め尽くした結果知り得たことは、「何も知ることができない」ということだけだったと、失望した老博士ファウストのところに、悪魔メフィストフェレスが現れ、魂を賭けた契約をする。それは、悪魔の助けによってこの世のあらゆる歓楽を味わわせてもらう代わり、満足の余り「時よ、とまれ。お前は実に美しい!」と言ったら、死んで魂を悪魔に渡すというもであった。 

 早速博士は若返らせてもらい、美しい若い娘と恋をする。しかし、その恋に安住できず娘を捨て、あらゆる享楽と冒険の遍歴を重ねる。そして人のために生きたいと願うようになた時、灰色の女「憂愁」に息を吹きかけられ、失明してしまう。だが失明した博士の心の中の火は燃え上がり、輝きを増して、理想の国家建設の意欲に燃える。 

 メフィストは博士の墓穴を掘らせていた。目が見えない博士はその工事の音を聞いて、理想の美しい国ができ上がることを想像して思わず、「時よ、とまれ。……!」と言いつつ倒れる。しかしその魂は悪魔に渡ることなく、天国へと導かれる。 

 失明後の博士は、人のために生きる意欲に燃え、それまでこの世のどんな歓楽にも満足することがなかったのに、見えないために墓穴工事の音を聞いて自分の希求の完結を心の中に見て、最高の時を味わうことができたのである。 

 私は、「心の目」が、きっと幸せをつかんでくれることを信じている。
 

【略 歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の新生血管黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』(監約:田野保雄、約:関恒子;文光堂)
 松本市在住。

 

【後 記】
 難治な疾患の治療に立ち向かった自らの経験を振り返り、医師との関係の持ち方、患者の自己責任、家族の支え、ゲーテのファウスト等々についてお話されました。静かなそして誠実な性格そのままの話し振りで、集った人々は皆、関さんの世界に引き込まれました。
 以下は、関さんからお聞きし印象に残っているので紹介致します。
 「『見たい物しか見えない』これが今の私の見え方を最も端的に表す言葉です。しかし、充分な視力があって、あらゆる物が見えていても、心に残る物はどれだけあるでしょうか?どんな人も見ようとする心と、心のあり方によって見えてくる物や、その姿形も違ってくると思います。人にとって大切なものは心であり、心のあり方だと思います。」

2007年1月14日

  演題:『眼科医・大森隆碩の偉業』
  講師:小西明(新潟県立新潟盲学校長)
   日時:平成19年1月10日(水)16:30 ~ 18:00 
   場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

  

【講演要約】
1) 新潟県立高田盲学校(盲学校として日本で3番目に創立)の閉校
 盲学校は、全国に72校、在籍者は約3700名である。全国の盲学校の生徒は昭和45年から50年がピークで、毎年70名以上減少している。ここ2~3年の減少は著しく、特に大人の生徒数が減少している。 

 障害のある子どもの教育について、障害の種類や程度に応じ特別の場で指導を行う「特殊教育」から、通常の学級に在籍するLD・ADHD・高機能自閉症の児童生徒も含め、障害のある児童生徒に対してその一人一人の教育的ニーズを把握し適切な教育的支援を行う「特別支援教育」への転換が提言された(平成17年12月8日中央教育審議会)。障害のある子どもの教育にとって、戦後60年を節目とする大きな転換である。 

  盲学校として日本で3番目に創立された新潟県立高田盲学校は、生徒数の減少の影響もあり、平成18年3月に118年の歴史を閉じた。 高田盲学校を創始し、視覚障がい者教育に生涯を捧げた先覚者、眼科医・大森隆碩の偉業を紹介し、その功績を思い起こしてみたい。 

2) 明治時代の視覚障害者
 明治11年(1978年)明治天皇は巡幸で新潟県を訪れた際、新潟に盲人が多いと申され、御下賜金千円を賜った。さらに翌明治12年(1879年)、恩賜衛生資金として一万円を賜れた、新潟県では無料で眼科検診が行われた。明治18年(1885年)内務省通達11号による各府県の鍼灸取締規則など医療制度の近代化に対応して、明治23年(1890年)ごろ鍼按講習会・盲人教育界が出現した。 

 新潟県では、明治18年(1885年)新潟で関口寿昌が「盲人教育会」(後の新潟盲学校)、明治20年(1887年)高田で大森隆碩が「盲人矯風研技会」、明治38年(1905年)長岡で金子徳十郎は「長岡盲唖学校」を設立。 

3) 隆碩の生い立ちと略歴
 弘化3年(1846年)大森隆碩は、高田藩眼科医、大森隆庵の長男として生まれる。藩政立て直し策をめぐって藩主の怒りを買い、十代半ばで脱藩。明治維新前後の激動期、隆碩は江戸や横浜で時代の風を存分に浴びた。ヘボン式ローマ字つづりで知られる医師ヘボンに医学を学び、和英辞典の編さんに携わる。元治元年(1864年)18歳で高田で眼科医開業。戊辰戦争で杉本直形(2代目校長)と治療に当たる。明治11年(1878年)医事会、明治16年(1883年)高田衛生会を設立する。明治18年(1885年) 39歳のとき視覚障害者となる。

 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。明治24年(1891年)日本で3番目となる訓矇学校設立。当初、丸山謹静ら盲人の方々が設立しようとしていたのは、按摩などの技術を高めることで、いまで言えばテクノスクール。しかし、隆碩は技術習得だけではだめ、人間を育てなければならない。盲人も同じ人間である。人間らしい教養をつんで教育しなければならないと主張。技術学校ではなく、本格的な学校設立を目指した。 

 「心事末ダ必ズシモ盲セズ」~「視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり何もわからない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」という隆碩の信条である。学校経営は厳しかった。私財を投じた盲学校の運営は綱渡りの連続。『炭を買う金がない』と学校から連絡があると、妻が着物を手に質屋に走る、、。

 明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。病気の隆碩に代わり次女ミツ(当時18歳)が祝辞を述べた。ミツは後に東京盲学校の教師となる。隆碩は、社会事業(女子教育、地域医療)にも活躍した。

 明治36年(1903年)療養先の東京で没。 

4) 隆碩の盲学校創設と新潟県立高田盲学校
 *明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
 *明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)。
 *明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
 明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。 組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。
 明治24年(1891年)校名変更 「私立訓矇学校」。
 明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。
 大正4年(1915年)校名変更 「私立高田盲学校」
 大正11年(1922年) 県内4校の再編・県立移管。
 昭和24年(1949年) 「県立高田盲学校」
 平成18年(2006年)3月 「県立高田盲学校」閉校。 

 1887年に創設され、1949年県に移管された高田盲学校の歴史は、人間味にあふれている。118年受け継がれてきた建学の理念は、郷土の貴重な遺産である。

5) 隆碩の残したもの
【訓矇学校】
 当時の多くの盲亜学校が手に職を与える職業教育にとどまっていたが、一般教養を培うことの大切さを強調した。盲は肉体の盲、矇は心の盲。まず心の矇を啓いて後に教育するべきと考え、校名を訓矇学校とした。
【単独校】
 日本での初期の盲学校は盲亜学校として誕生した。しかし隆碩は心理学的に、人格形成の上で両者は同一でないと考え、聾唖者の入学を断り、盲人のみを対象とした学校とした。
【研究機関】
 鍼灸按摩以外の職業分野の研究を重ねた。また指導法についても熱心に取り組んだ。早期から点字教育を行った。

 

【小西明氏 略歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校
 1995年 新潟県立高田盲学校
 1997年 新潟県立教育センター
 2002年 新潟県立高田盲学校 校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校 校長 

【参考】
1)小西 明:上越教育大学障害児教育実践センター紀要.第12巻.57-59.平成18年3月
2)石田誠夫(眼科医、新潟県上越市)
  http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/Isida.htm
 祖父も父も、この高田盲学校をこよなく愛しておりました。、、(途中略)、、、、(祖父は)眼科医である隆碩先生の「視覚障害者を社会に復帰させよう」という心意気を子供の頃より感じ取り、この地に戻ることにより、盲学校の校医として、その伝統を引き継ぐことになったのではないでしょうか。
3)市川信夫(高田盲学校、元教員)
  http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/itikawa-kouen.htm
4)新潟日報:平成18年3月18日(土)日報抄
 全国で三番目に古い歴史を持つ上越市の高田盲学校が最後の卒業式を行った。寂しい。学校は新潟盲学校に統合される。明治憲法よりも早く、雪深い地方で先人が掲げた盲人教育への熱い思いは、しっかりと受け継いでいきたい(後略)。
****************************** 

【後記】
 雪深い新潟の高田に、どうして全国で三番目に古い盲学校が設立できたのか長い間疑問でした。今回のお話で大森隆碩の足跡を知るにつけ、郷土の先人の偉業に感嘆し、先見の明に心打たれます。
 偶然にも、神戸盲学校(現在の兵庫県立盲学校)創設者である「左近允孝之進(さこんじょう こうのしん)」の伝記を読む機会を得ました(注)。
 大森隆碩と左近允孝之進 同じ頃に自らも視覚障害者であった二人に交流が無かったようです。しかし視覚障がい者教育に理解の無い周囲の反対に遭いながらも、盲学校を職業訓練学校としてではなく人間教育の場と考え、貧乏しながらも設立まで成し遂げる姿はそっくりでした。第一回の卒業式に、健康の理由で参加出来ないところまで一緒でした。
 多くの盲学校がこのような歴史を持ちながら今日に至ったことを、改めて噛締めています。今日、私たちが忘れてならないのは、大森先生の残した「心事未ダ盲セズ」という障害者に対する深い思いやりの心、暖かい気持ちかもしれません。福祉制度の充実も大事ですが、この精神を考える機会を今後も持ち続けたいと思います。 

 注:「見はてぬ夢を」視覚障害者の新時代を築いた左近允孝之進の生涯 
    山本優子著(2005年6月20日発行 燦葉出版社)
 

【附:日本&世界の視覚障がい者関連年表】
 *1784年、バランタン・アユイが、パリに青年訓盲院設立(世界最初の盲学校)。浮出文字(凸字)の印刷本を作る。
 *1808年、フランスのバルビエ(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767~1841)が12点式点字等を考案。
 *1870年、ドイツの眼科医A.グレーフェ(1828~1870年)没。虹彩切除による緑内障の治療、レンズ除去による白内障の治療など、近代眼科学の基礎を確立。
 *明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
  *明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)
 *明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
 明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
 明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。
 *1887年3月、サリバン(Anne Mansfield Sullivan: 1866~1936年)がパーキンス盲学校を卒業してヘレン・ケラーの家庭教師となる。
 *明治34年(1901年)石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
 *1903年、ヘレン・ケラー『The Story of my Life』
 *明治38年(1905年)左近允孝之進、神戸に六光社を設立、わが国最初の点字新聞「あけぼの」を創刊。
 *明治43年(1910年)東京盲唖学校が、東京聾学校と東京盲学校に分離される。
 *1915年、ピアソンが、ロンドンに「セント・ダンスタンス」(St. Dunstan’s)を設立、戦傷失明者の生活・職業リハビリテーションを開始。
 *大正5年(1916年)石原忍(1879~1963年。東大医学部眼科学教授)、石原式色覚検査表を徴兵検査用に開発。
 *大正9年(1920年) 新潟県盲人協会が、柏崎市に点字巡回文庫開設(現在の新潟県点字図書館の前身)。
 *同年5月、大阪毎日新聞社が「点字大阪毎日」(1943年~「点字毎日」)を創刊。
 大正12年(1923年) 「盲学校及聾唖学校令」公布(盲と聾唖が分離)
 *昭和10年(1935年)10月 岩橋武夫が、大阪でライトハウス(世界で13番目。現・日本ライトハウス)開設。
 *1937年、トルコの皮膚科医H.ベーチェット(1889~1948年)が、再発性前眼房蓄膿性虹彩炎ないしブドウ膜炎、アフタ性口内炎、外陰潰瘍、皮疹を主徴とする症候群を報告。
 *1939年、世界最初のアイバンクが、サンフランシスコに設立
 *1942年、アメリカのテリー(T. L. Terry)が、後に「未熟児網膜症」と呼ばれるようになる症例を報告。
 *昭和33年(1958年) 「角膜移植に関する法律」公布、合法的に屍体角膜を移植に使えるようになる。
 *昭和38年(1963年)6月 厚生省から「眼球あっせん業許可基準」が公示、同年10月に慶大眼球銀行と順天堂アイバンク、同年12月には大阪アイバンクの三か所がそれぞれ認可される。
 *
1968年、米国「建築物障壁除去法」(Architectural Barriers ActABA)成立。
 *昭和45年(1970年)6月 市橋正晴(1946~1997.先天弱視;1996年株式会社大活字創立)らが中心になり、「視覚障害者読書権保障協議会」(「視読協」)発足。
 *昭和51年(1976年)9月 社会福祉法人日本盲人職能開発センター開設
 *昭和54年(1979年) 7月、所沢市に、国立身体障害者リハビリテーションセンター開設。
 *昭和58年(1983年) 高知システム開発が、6点漢字入力方式による「AOKワープロ」発売。
 *平成4年(1992年)5月 「中途視覚障害者の復職を考える会」(タートルの会)活動を開始(正式発足、1994年11月)
 *平成12年(2000年)4月 日本ロービジョン学会創設。