2006年11月21日

報告:『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2006』 西田親子
(第128回(06‐11)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  「失明の体験と現在の私」 
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
  「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」 
    西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
 場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 

「失明の体験と現在の私」
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
【講演要旨】
 ベ-チェット病発病して、来年で50年になる。当時はインフォームド・コンセントなどという概念の無かった時代だった。私は25才でベーチェット病を発病。入退院を繰り返しいろいろな治療を行ったが、28才のときには視力は右0.01、左眼は失明。大学病院に入院中の夜、見えていない左眼が急激に痛み、頭痛がした。翌日主治医の先生から、「続発性緑内障を起こしています。この目を抜きなさい」と言われた。最初は、何を言われたのか理解できなかった、、、。左眼の眼球摘出後4ヶ月して右眼に炎症が再燃。絶望のどん底に落ちて悶々とした生活を送っていた時、母が言った「目はどげんねぇー」。私「どうもだめらしい」。母「私の目を一つあげてもいい」、、、、。

 しばらく沈黙の後、母はこう言った「失明は誰でも経験できるわけではない。貴重な体験と受けとめてはどうか。それを生かした仕事をして、例え小さくてもいいから社会的に貢献しなさい」。

  この言葉に刺激され、その後盲学校や中途失明者更生施設の教員となり、後進の指導にあたるようになった。

 現在はシルクロード沿いのベーチェット病患者とも集いを通して交流を深めている。国が違っても病気は同じ。でも国が違うと受けられる医療は異なる。貧しい国では病気の治療どころか、痛さにも対処できない。こうした思いがあり、医薬品の海外送付等の援助など、小さいながら支援を続けている。その支援組織が「NPO法人眼炎症スタディーグループ」であり現在会員数も76名となっている。活動の3本柱は、情報発信、医薬品の海外送付、研究助成である。私たち法人の活動を理解してくださる団体や個人も徐々に増え、少しずつ活動内容も整ってきているのが現状である。

 参考-NPO『眼炎症スタディーグループ』
  http://hw001.gate01.com/ganen/index.html

【講師略歴:西田稔氏】 
 西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
 1932年 福岡県生まれ
 1956年 大分大学経済学部卒業 同年福岡県小倉市役所(現、北九州市)就職
 1957年 ベーチェット病発症 その後入退院を繰り返し失明
 1961年 国立東京光明寮入寮
 1963年 日本社会事業学校専修科入学
 1964年 光明寮と専修科同時卒業 同年大分県立盲学校教諭
 1972年 国立福岡視力障害センター教官
 1984年 同センター教務課長
 1992年 同センター退職
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハセンター理療教育部講師
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会副会長
 2001年 NPO(特定非営利活動)法人眼炎症スタディーグループ理事長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  「寒紅」遺句集 ダブリュネット社
  「小春日和」川柳、俳句、短歌集 いのちのことば社
  映画「解夏」取材協力

 

「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
   西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
【講演抄録】
 ベーチェット病は、私にとって一番身近な存在だった。物心ついたときからベーチェット病で視力を奪われた父が目の前にいた。幼少時から、ベーチェット病という言葉は私の頭の中でしっかりとインプットされた。それと同時に、ベーチェット病は私にとって敵になった。この敵に立ち向かうには、医者になるしかないと思った。小学校の頃から、母は病気がちになり、時には炊事洗濯も姉妹二人の仕事になった。幸か不幸かそのまま医学部に進学した。医学部の最終学年時、たまたま友人に当時横浜市立大学に赴任されていた大野重昭教授(現、北海道大学大学院教授)がベーチェット病を専門とする眼科の教授だということを教えてもらい、大野教授の教室の大学院生になることが決まった。大野教授には、ベーチェット病の研究から米国留学、さらには第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いの事務局長まで大変貴重な機会を次々と与えていただいた。

 現在、私は大学を離れ、聖隷横浜病院という横浜市内の病院で勤務を始めて2年目になる。新しい場所で、ロービジョン外来の充実化にコメディカルのメンバーと一緒に取り組んでいる。ロービジョン外来には、ベーチェット病のみならず、糖尿病網膜症、網膜色素変性症、加齢黄斑変性症など、さまざまな病気が原因で低視力となった患者さんが対象となる。この仕事には、幼い時から父を通じて私自身が体験してきた視覚障害者との触れ合いが大変役に立っている。また、国際患者の集いを通じて、国際的にベーチェット病の研究者や、患者組織との交流を持つことができている。

 卒業試験・医師国家試験を終えたころ、出口のない苦しみの中にいた。そんな時、三浦綾子の本に出会った。何気なくみた最初のページに聖書の言葉があった『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネによる福音書第9章3節) それまでは父が病気になって目が見えなくなって悔しいと思ったり、父のことを友人に隠そうと思ったことがあったが、父は別に悪い事をしたわけではない。先祖が悪い事をしたわけでない。これもひとつの宿命、運命なんだ。そう考えると、気持ちが楽になった。 

 私の敵であるベーチェット病は、むしろ私に贈り物をたくさん授けてくれているのではないか?と、今では思えるようになった。 

【講師略歴:西田朋美先生】
 西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 1966年 大分県生まれ
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科(眼科学)修了
 1996年 米国ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所リサーチフェロー
 1999年 済生会横浜市南部病院眼科医員
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会事務局長
 2001年 横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター眼科助手
 2002年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2004年 横須賀共済病院眼科医師
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  映画「解夏」、「ベルナのしっぽ」医事監修 

 参考-:著書
  「お父さんの失明は私が治してあげる
    ~娘の顔も知らないお父さん、だから私は眼科医になりました」
   著者:西田朋美・西田 稔・大野重昭
   発行:主婦の友社
   定価:本体1700円(税別)
 ベーチェット病で30歳で失明された西田稔氏。父を支える母のため、父の目に再び光をと眼科医を志した娘、西田朋美氏。ご家族の絆と、ベーチェット病への思い、障害を持って生きる意味についてつづられています。また、ベーチェット病の研究をされている北海道大学大学院研究科視覚器病学分野教授の大野氏が病気の謎を追って世界中をまわられた過程から、ベーチェット病をわかりやすく解説してくれています。ベーチェット病の人もそうでない人も、生きると言う意味を考えている人に、是非読んでいただきたい一冊です。 尚、この本の売上の一部は眼疾患患者の為のNPO法人設立の為に寄付されます。
 

【後記】
 県内外から120名を超える聴衆が集りました。西田稔氏の講演では、治療法のない場合の、医師と患者さんの対応について考えさせられました。西田氏の一言、残りました「困った時ほど、相手の事がよく見える。頼りにしていた人が案外だったり、その逆もあったり」。 

 講演終了後、会場から様々な質問がありました。「お母さんのことについて教えて下さい」という問いに西田朋美先生は、「失明していた父と結婚した母は、障害を持つ人を決して差別しない人でした。そしていつも偉くなってもえらぶる事のないよう、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』が大事だよと語る人でした」と答えたのが印象的でした。 

 講演の後で、西田稔氏の「小春日和」を読ませて頂くと、幾つもこころに残るものがあります。「娘二人盲(めしい)しわれを導くを 何のてらいも無きが幸せ」「留学の娘の電話受くるたび 『食べているか』とまずは尋ぬる」「医師も人間 看護婦も人間 ベットのわれもまさに人間」「真中に枝豆おいて乾杯す 妻の遺影もここに加えて」「失明を幸に変えよと母は言い 臨終の日にも我に念押す」 

 「お父さんの失明は私が治してあげる」の中に、以下の一節があります・・・医者であり、患者の家族という私のような立場の人間を他に知りません。そうした意味では祖母が父に言って聞かせた言葉にあるように、私に与えられた貴重な体験を生かして、社会に貢献できることがまだまだあるはずです。貴重な体験を生かさなければ神様に申し訳ないという感じがします。この先どこまでできるかわかりませんが、ベーチェット病を核として、うまれたときからベーチェット病を見てきた私の貴重な体験を生かして、世の中に還元できる道を模索していきたいと思っています。父が視覚障害者だったからこそ、医師になれたのですから(西田朋美)・・・   

 素晴らしい親子愛を育み、それにとどまらず、世界中の患者さんに貢献している素敵な親子に巡り合えたと感動しました。西田親子の今後益々の御活躍と御発展を、期待しかつ祈念致します。

 

【後日、西田朋美先生からのメール】
 私は、いつも思うのですが、生まれたときから目の前にいたのがすでに全盲の親だったので視力を失っていく過程を見ていません。それをみていたのが、祖母だったのだと思いますが、当人以外で一番大変だったのは、祖母だったのかなと思います。

 私の記憶に残っている祖母は、ただならぬ人だったと思います。いつも明るく気丈で、かといって猛々しい所がない人でした。わが祖母ながら、とても真似できないですね。明治生まれの女性は、やはり強いのかもしれません。

2006年11月11日

報告:第128回(2006‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会   西田稔/西田朋美
  『済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2006』
     「失明の体験と現在の私」 
       西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
     「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
       西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
  日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 

「失明の体験と現在の私」
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
【講演要旨】
 ベ-チェット病発病して、来年で50年になる。当時はインフォームド・コンセントなどという概念の無かった時代だった。私は25才でベーチェット病を発病。入退院を繰り返しいろいろな治療を行ったが、28才のときには視力は右0.01、左眼は失明。大学病院に入院中の夜、見えていない左眼が急激に痛み、頭痛がした。翌日主治医の先生から、「続発性緑内障を起こしています。この目を抜きなさい」と言われた。最初は、何を言われたのか理解できなかった、、、。左眼の眼球摘出後4ヶ月して右眼に炎症が再燃。絶望のどん底に落ちて悶々とした生活を送っていた時、母が言った「目はどげんねぇー」。私「どうもだめらしい」。母「私の目を一つあげてもいい」、、、、。しばらく沈黙の後、母はこう言った「失明は誰でも経験できるわけではない。貴重な体験と受けとめてはどうか。それを生かした仕事をして、例え小さくてもいいから社会的に貢献しなさい」。 

  この言葉に刺激され、その後盲学校や中途失明者更生施設の教員となり、後進の指導にあたるようになった。

 現在はシルクロード沿いのベーチェット病患者とも集いを通して交流を深めている。国が違っても病気は同じ。でも国が違うと受けられる医療は異なる。貧しい国では病気の治療どころか、痛さにも対処できない。こうした思いがあり、医薬品の海外送付等の援助など、小さいながら支援を続けている。その支援組織が「NPO法人眼炎症スタディーグループ」であり現在会員数も76名となっている。活動の3本柱は、情報発信、医薬品の海外送付、研究助成である。私たち法人の活動を理解してくださる団体や個人も徐々に増え、少しずつ活動内容も整ってきているのが現状である。 

 参考-NPO『眼炎症スタディーグループ』
  http://hw001.gate01.com/ganen/index.html 

【講師略歴:西田稔氏】
 西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
 1932年 福岡県生まれ
 1956年 大分大学経済学部卒業 同年福岡県小倉市役所(現、北九州市)就職
 1957年 ベーチェット病発症 その後入退院を繰り返し失明
 1961年 国立東京光明寮入寮
 1963年 日本社会事業学校専修科入学
 1964年 光明寮と専修科同時卒業 同年大分県立盲学校教諭
 1972年 国立福岡視力障害センター教官
 1984年 同センター教務課長
 1992年 同センター退職
 1994年から1998年まで 国立身体障害者リハセンター理療教育部講師
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会副会長
 2001年 NPO(特定非営利活動)法人眼炎症スタディーグループ理事長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  「寒紅」遺句集 ダブリュネット社
  「小春日和」川柳、俳句、短歌集 いのちのことば社
  映画「解夏」取材協力 

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「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
   西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
【講演抄録】
 ベーチェット病は、私にとって一番身近な存在だった。物心ついたときからベーチェット病で視力を奪われた父が目の前にいた。幼少時から、ベーチェット病という言葉は私の頭の中でしっかりとインプットされた。それと同時に、ベーチェット病は私にとって敵になった。この敵に立ち向かうには、医者になるしかないと思った。小学校の頃から、母は病気がちになり、時には炊事洗濯も姉妹二人の仕事になった。幸か不幸かそのまま医学部に進学した。医学部の最終学年時、たまたま友人に当時横浜市立大学に赴任されていた大野重昭教授(現、北海道大学大学院教授)がベーチェット病を専門とする眼科の教授だということを教えてもらい、大野教授の教室の大学院生になることが決まった。大野教授には、ベーチェット病の研究から米国留学、さらには第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いの事務局長まで大変貴重な機会を次々と与えていただいた。 

 現在、私は大学を離れ、聖隷横浜病院という横浜市内の病院で勤務を始めて2年目になる。新しい場所で、ロービジョン外来の充実化にコメディカルのメンバーと一緒に取り組んでいる。ロービジョン外来には、ベーチェット病のみならず、糖尿病網膜症、網膜色素変性症、加齢黄斑変性症など、さまざまな病気が原因で低視力となった患者さんが対象となる。この仕事には、幼い時から父を通じて私自身が体験してきた視覚障害者との触れ合いが大変役に立っている。また、国際患者の集いを通じて、国際的にベーチェット病の研究者や、患者組織との交流を持つことができている。 

 卒業試験・医師国家試験を終えたころ、出口のない苦しみの中にいた。そんな時、三浦綾子の本に出会った。何気なくみた最初のページに聖書の言葉があった『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネによる福音書第9章3節) それまでは父が病気になって目が見えなくなって悔しいと思ったり、父のことを友人に隠そうと思ったことがあったが、父は別に悪い事をしたわけではない。先祖が悪い事をしたわけでない。これもひとつの宿命、運命なんだ。そう考えると、気持ちが楽になった。 

 私の敵であるベーチェット病は、むしろ私に贈り物をたくさん授けてくれているのではないか?と、今では思えるようになった。 

【講師略歴:西田朋美先生】 
 西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
 1966年 大分県生まれ
 1991年 愛媛大学医学部卒業
 1995年 横浜市立大学大学院医学研究科(眼科学)修了
 1996年 米国ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所リサーチフェロー
 1999年 済生会横浜市南部病院眼科医員
 2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
       組織委員会事務局長
 2001年 横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター眼科助手
 2002年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
 2004年 横須賀共済病院眼科医師
 2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
 その他
  「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社
  映画「解夏」、「ベルナのしっぽ」医事監修 

 参考-:著書
  「お父さんの失明は私が治してあげる
    ~娘の顔も知らないお父さん、だから私は眼科医になりました」
   著者:西田朋美・西田 稔・大野重昭
   発行:主婦の友社
   定価:本体1700円(税別)
 ベーチェット病で30歳で失明された西田稔氏。父を支える母のため、父の目に再び光をと眼科医を志した娘、西田朋美氏。ご家族の絆と、ベーチェット病への思い、障害を持って生きる意味についてつづられています。また、ベーチェット病の研究をされている北海道大学大学院研究科視覚器病学分野教授の大野氏が病気の謎を追って世界中をまわられた過程から、ベーチェット病をわかりやすく解説してくれています。ベーチェット病の人もそうでない人も、生きると言う意味を考えている人に、是非読んでいただきたい一冊です。
 尚、この本の売上の一部は眼疾患患者の為のNPO法人設立の為に寄付されます。 

 

【後 記】
 県内外から120名を超える聴衆が集りました。西田稔氏の講演では、治療法のない場合の、医師と患者さんの対応について考えさせられました。西田氏の一言、残りました「困った時ほど、相手の事がよく見える。頼りにしていた人が案外だったり、その逆もあったり」。
 講演終了後、会場から様々な質問がありました。「お母さんのことについて教えて下さい」という問いに西田朋美先生は、「失明していた父と結婚した母は、障害を持つ人を決して差別しない人でした。そしていつも偉くなってもえらぶる事のないよう、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』が大事だよと語る人でした」と答えたのが印象的でした。
 講演の後で、西田稔氏の「小春日和」を読ませて頂くと、幾つもこころに残るものがあります。「娘二人盲(めしい)しわれを導くを 何のてらいも無きが幸せ」「留学の娘の電話受くるたび 『食べているか』とまずは尋ぬる」「医師も人間看護婦も人間 ベットのわれもまさに人間」「真中に枝豆おいて乾杯す 妻の遺影もここに加えて」「失明を幸に変えよと母は言い 臨終の日にも我に念押す」
 「お父さんの失明は私が治してあげる」の中に、以下の一節があります・・・医者であり、患者の家族という私のような立場の人間を他に知りません。そうした意味では祖母が父に言って聞かせた言葉にあるように、私に与えられた貴重な体験を生かして、社会に貢献できることがまだまだあるはずです。貴重な体験を生かさなければ神様に申し訳ないという感じがします。この先どこまでできるかわかりませんが、ベーチェット病を核として、うまれたときからベーチェット病を見てきた私の貴重な体験を生かして、世の中に還元できる道を模索していきたいと思っています。父が視覚障害者だったからこそ、医師になれたのですから(西田朋美)・・・  
 素晴らしい親子愛を育み、それにとどまらず、世界中の患者さんに貢献している素敵な親子に巡り合えたと感動しました。西田親子の今後益々の御活躍と御発展を、期待しかつ祈念致します。
 

【後日、西田朋美先生からのメール】
 私は、いつも思うのですが、生まれたときから目の前にいたのがすでに全盲の親だったので視力を失っていく過程を見ていません。それをみていたのが、祖母だったのだと思いますが、当人以外で一番大変だったのは、祖母だったのかなと思います。
 私の記憶に残っている祖母は、ただならぬ人だったと思います。いつも明るく気丈で、かといって猛々しい所がない人でした。わが祖母ながら、とても真似できないですね。明治生まれの女性は、やはり強いのかもしれません。

 

2006年9月13日

報告:第126回(2006‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会  岩崎深雪
    演題:『盲導犬と歩いて広がった友達の輪』
    講師:岩崎深雪(新潟市岩室温泉)
     日時:平成18年9月13(水)16:30 ~ 18:00
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
【講演要旨】
 私は新潟県中魚沼郡岩沢(現在は小千谷市)に、6人兄弟の末っ子として生まれました。生後5日目に役場に務めていた父が病死。村長が名付け親になってくれました。その年は電線をまたいで歩くほどの大雪で、「深雪」という名前を付けてもらいました。母一人で6人の子供を抱え、貧乏でした。私は生まれつき視力が不良(網膜色素変性)で、兄も同じ病気でした。村の小学校に入学。良くは見えませんでした。1・2年生の頃は、担任の先生がよく気を付けてくれて、明るい窓際の最前列に席があり、黒板の文字も見えましたので、何とか勉強についていく事が出来ました。3・4年生の頃は、廊下側の席で暗くてよく見えませんでした。 

 「あきめくら」と、よく虐められました。今でも忘れられない3つの事件があります。小学校2年の頃、「弁当事件」がありました。男の子2人と女の子2人が私の机を囲んで、「この弁当を食べろ」というのです。今まで食べたこともない美味しい焼き魚に卵焼き、、、絶対に家の弁当でないと判っていたので、食べないと言い張ったのですが、友達は許してくれませんでした。いやいや食べ終わると、職員室に呼ばれまし た。弁当を作ったおばさんは、担任の先生とおろおろしている私に、「オレは、お前のことは怒らない。お前に食べさせたあの子達を叱ってやる。先生もこのこのことは叱らないでくれ。」と言ってくれました。 

 「松ヤニ事件」もありました。当時松ヤニをガムの代わりによく噛んでいました。友達はおしっこをかけた松ヤニを「食べろ」と迫ってきました。必死に拒みました。耳を澄ますと人の気配がしました。わざと大きな声で泣いてみせました。すると村の人が現れて、「またお前達が虐めているな!」と怒ってくれました。村の人たちはいつも自分を守ってくれました。 

 どんなに虐められても、母には言いませんでした。でも靴を川に捨てられた時は、さすがに裸足で帰った私をみて、母は事情を問い質しました。友達に靴を川に捨てられたと告げると、母はその子の家に行き、その子とその子の両親と一緒に、川に行き靴を探しました。暗くて冷たい川でした。とうとう靴は見つかりませんでしたが、とっても母が強く、そして頼もしく感じました。 

 小学校4年の時、新潟盲学校への転校を勧められ福祉事務所の人と、母が見学に行きました。小学校五年の時に転校しました。そのころ村は小千谷市と合併し、転校に必要な物は全て市が揃えてくれました。盲学校では、一人で掃除や洗濯など身の回りのことは出来るようになりました。 

 あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、17歳で盲学校を卒業、長野県野沢温泉に就職しました。あんまり若かったので20歳といいなさいと言われたのを覚えています。20歳の時に新潟県の弥彦村に転居、22歳であんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡に渡りました。佐渡では、「かまど」を使っていましたが、私はガス釜と電気洗濯機を買って使いましたが、「洗い」は洗濯機、川で「すすぎ」、そして「干す」という毎日でした。23歳で長女を産み25歳の時、長男が生まれました。風呂は銭湯でした。なるだけ一番湯を心掛けていました。ある時混んでいる時に銭湯に行き、よその子の手を引いて出てきた事がありました。 

 子どもを一人生むたびに視力が下がり、長男を産んだ後に一気に下がったときのショックは今も忘れません。朝起きて曇っているものだとばかり思って外に出たら、お日様が照っていると聞かされました!!視力が下がったことを知ると同時に日中も白杖をつかなくてはならないのかな?と思うようになりました。夜は何の抵抗もなしに白杖をついていましたが、日中はどうしても白杖がつけませんでした。理由の一つに子どもたちへのいじめがあったら・・・ということが頭にこびりついていたからです。27歳の時、佐渡から新潟の岩室に引っ越しました。転居がきっかけで転居と同時に白杖をつきまた。案の定、岩室では私と子どもたちが土地の子どもにからかわれてずいぶん悔しい思いをしました。我が家の子どもたちが小さかったこともあり、からかわれている意味が分からず負けずに言い返していたことが私たち夫婦には救われました。 

 かつて弥彦に住んでいましたのでて土地カンはありました。岩室で仕事を探すため、夜子供が寝てから夫婦二人で探検に出かけ、旅館を一軒一軒回りながら場所を覚えました。28歳の時、長男が交通事故で入院し、40日間付添、以来専業主婦になりました。3人の子どもが就職するまで専業主婦。 

 40歳の頃、友人の上林洋子さんに、関良介さんのパソコン説明会に誘われていったのがきっかけで、パソコンというものと漢点字を知り、仲間と一緒に夢中で勉強しました。DOSからWINDOWSにと、どうにかこなせるようになりました。 

 50歳の時に、長男が結婚して同居するようになりました。その後夫が体調を崩して仕を辞めてしまい、それを期に夫の贔屓だったお客さんを中心に仕事を再開しました。仕事を始めるようになり、外出する機会が増えました。このころに私の視力もほとんどなくなりました。 

 上林さんが盲導犬を連れているのを知り、私も欲しくなりました。57歳の時に遂に夫を説得して、盲導犬を申し込みました。平成15年11月、4週間訓練所に泊まりこみして盲導犬 ファビーを手に入れることが出来ました。夫は仕事を辞めてから、家に引きこもりがちでしたが、ファビーが来てからは生活が一変しました。毎朝ファビーと一緒に夫婦で3キロ弱の部落を一回り30分くらいで、会話をしながら散歩します。外での活動も増えました。盲導犬ユーザーの会、ハーネスの会の行事への参加、お茶の間サロン、指編み、、、。一昨年に障害者週間記念イベント「みんな違って、みんないい~西蒲地域助け合い・支えあい・共生フォーラム」の実行委員として参加させていただき、500名が集いました。昨年も成功し、今年も続けてやろうということになり、現在はその準備で忙しくしています(下記*参照下さい)。 

 ファビーと歩きながら、いろんな人たちとのふれあいを楽しんだり、パソコン教室に通いながら情報交換をしたり、ウォーキングで汗を流したり、編み物やカラオケと思う存分楽しんでいます。
 

*『’06第3回たすけあい・ささえあい・共生フォーラムinにしかわ』
  目的&スローガン
   “しょうがい”の有無、“しょうがい”の種別、年齢の違いを乗り越えて、誰もが暮らしやすい“まち”を作る為に、みんなで話し合おう!
  日時:2006年12月9日(土)12:30~16:30
  場所:新潟市西川多目的ホール・西川学習館
  連絡先:障害者生活相談室「わぁ~らく」竹田一光 

【岩崎深雪さん略歴】
 生まれつきの弱視(網膜色素変性)。村の小学校に入学し、その後小学5年生で新潟盲学校に転校。昭和37年に、あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、長野県の野沢温泉に就職、その後弥彦に転職。昭和42年に、あんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡へ。昭和47年に現在地に移住。3人の子どもが就職するまで専業主婦。平成6年頃に主人が体調を崩し仕事を引退。その後、私が仕事に復帰して平成15年に盲導犬ファビーと出会い、私の不注意から右手首を骨折し、それを期に引退。
 新潟県視覚障害者福祉協会、新潟県盲導犬ユーザーの会、新潟・盲導犬ハーネスの会、新潟県視覚障害者友好協議会にそれぞれ所属。

2006年7月19日

報告 第124回(2006‐07月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会
     日時:平成18年7月19(水)16:30 ~ 18:00 
     場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
    『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 2006』
1)「将来の夢」    中学部2年 神田 将
2)「周りを見つめて」 高等部普通科1年 京 円香
3)「先生からの金メダル」 高等部本科保健理療科1年 杉山 利明 

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1)「将来の夢」    中学部2年 神田 将
【講演要旨】
 私は小学校の頃は、消防士になりたいと思っていました。恰好がいいし、人の役に立ちたいと思っていたからです。今は盲学校の先生になりたいと思っています。夢を持てる仕事ですし、生徒の成長を感じることが出来るからです。そう思った理由は自分のことを真剣に考えてくれる先生に出会ったからです。割り算を根気よく教えてくれました。その優しさに応えたいと思いました。英語か、理科の先生になりたいです。
 私には理想の教師像があります。一つは、実際に触ったりして判り易く教える。二つ目は、優しく教えるです。盲学校の先生になるためには、高校・大学に進学し、教員採用試験を通らなければなれません。そのためには毎日しっかり勉強すること、点字を覚えることが必要です。夢の実現に向けて精一杯努力します。
【盲学校の先生から】
 指導者から聞くところによると昨年からテーマをしたためていたとのこと。また、あのまとまりのある長い文章もほとんど指導の手が入らずにまとめ上げたとのこと。それほどの強い思いがあって、聞き手に思いがよく伝わったのだなと感じました。周囲にとても気配りをし、何事にも熱心に取り組む人柄がよく表れていました。とても控えめでおとなしい性格ですが、堂々とした発表態度にとても感心しました。いい先生になることまちがいなしです。
【追 記】
 熱心に教えてくれる先生に憧れ、将来は学校の先生になりたい、、、、純真な気持ち、素直に表現出来ることに心打たれました。未熟児網膜症でかつて、私が大学で治療したということを、後でお母さんからお聞きしました。10数年ぶりの嬉しい再会でした。 

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2)「周りを見つめて」 高等部普通科1年 京 円香
【講演要旨】 
 最近、道を歩いていると、地べたに座る人々、点字ブロックの上の駐輪・駐車などに出くわします。こうした状況を改善していくために自分自身ができることは「アピールすること」です。
 私達視覚障害者にとって「音声信号」は大事ですが、近隣の方々の安眠妨害になっているという苦情があるということを聞きました。問題の根本的解決のためには、社会全体が「互いに思いやる心」を持つことが大切だと思います。
【盲学校の先生から】
 実体験のなかで自分を見つめ、社会への投げ掛けをしていました。彼女は視野が狭いのですが、それ故知らない人からは一見よく見えていそうにも誤解されがちです。見えにくさと見えることが共存する視点から、社会と向き合っていることが感じられました。京さんもまた控えめでおとなしい性格ですが、とても周囲に気配りをする優しい心の持ち主です。そんな彼女の投げ掛けに、逆に響く力を感じました。
【追 記】
 とても素直で優しい方でした。自分の主張をするだけでなく、相手の事も気遣いながら、社会的な問題に、自分との係わり合いを模索しようとする姿勢を感じました。

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3)「先生からの金メダル」 高等部本科保健理療科1年 杉山 利明
【講演要旨】
 この春からの2度目の高校生活を始めるに当たっての決意表明。20年前高校1年で中退しました。当時、柔道部に入っていましたが、タバコを吸っていました。顧問の先生と柔道の稽古で寝技をしていた時、タバコの臭いが判ったのでしょう、ゲンコツをもらいました。色々な事があり、高校を辞めて仕事をみつけて働きました。2年後、当時の同級が卒業の日、柔道部の同級生が「金メダル」を携えて仕事場に来てくれました。3年間柔道部を頑張ったものだけに、顧問自身が作成して与えてくれるメダルでした。その時初めて高校を辞めたことを後悔し、顧問の先生に感謝しました。
 顧問の思いに報いるために、懸命に勉学に励み、資格をとって社会に貢献したいと思います。
【盲学校の先生から】
 7月7日(金)の関東地区大会で杉山利明さんが13名中3位になりました。普段の姿が弁論そのものという感じで、とても前向きでさわやかで明るい人柄です。何やら複雑な経歴の持ち主のようですが、きっとそんな経験が今を豊かにしているのかなとも思いました。抱える病気としっかり向き合いつつ、明るくも芯のぶれない意志の強さが感じられる弁論でした。原稿も見ずにあれほどすらすら言えるものなのでしょうか。陰の努力を惜しまない方です。
【追記】
 高校中退、糖尿病網膜症で失明と幾度となく挫折を味わいながら、明るくいきいきとしている姿が眩しく見えまた。 
 3人とも、とても一生懸命に弁論してくれました。私たちが忘れかけていた純な気持ちを思い起こしてくれた熱いメッセージを聴き、活力を頂きました。

 

2006年7月4日

 

【新潟ロービジョン研究会2006】
  2006(平成18)年7月29日(土)16時~19時10分
  済生会新潟第二病院 10階会議室
  講演
   「一般外来でのロービジョンケア-QOL向上のための初めの一歩」
     佐藤美恵子 (視能訓練士 新潟県立新発田病院)
   「視覚障害者の就労継続と連携」
     工藤正一 (中途視覚障害者の復職を考える会『タートルの会』)
   「中途視覚障害者の家族としての支援、家族への支援」
     工藤良子 (千葉県医療技術大学校看護学科)
   「失明してしまった手術のこと」 
     荻野誠周 (眼科医 新城眼科)
  便利グッズ紹介 県内の皆さんからの紹介コーナー
  シンポジウム「皆で考えるロービジョンケア」
    座長 張替涼子(新潟大学) 安藤伸朗(済生会新潟第二病院)
    佐藤美恵子 (視能訓練士 新潟県立新発田病院)
    工藤正一 (中途視覚障害者の復職を考える会『タートルの会』)
    工藤良子 (千葉県医療技術大学校看護学科)
    荻野誠周 (眼科医 新城眼科)  

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「失明してしまった手術のこと」
     荻野誠周 (眼科医 新城眼科)     

 私の眼科手術者としての基本認識は以下の二つである。一つは、医療は病気の自然経過に介入して、より良い結果を得ようとする行為であるということ。したがって失明してしまったという表現は間違いで、失明させた、あるいは潰したと表現するべきである。治したという表現も間違いで、治った、良くなったのであって、医者が治したのではない。二つ目は、「医者」は「患者」を食い物にして生きている卑賤な職業である。卑下することはないが、このことは厳然たる事実である。

 基本姿勢が二つある。一つ、技能を含めた「知識」が絶対に必要である。最良の結果を得るには知識こそが全てであるといっていい。二つ、ヒポクラテスの誓いにあるとり、患者に不利益をもたらすことは行わない。しかし、いわゆる医師の倫理として要求される、高潔、誠意、熱意、謙虚などは実は無意味である。治らなければ無意味であり、治ることに必須なのは知識だけである。実際、私が失明させた症例はすべて憶えているが、そのすべてが知識のなさに原因している。

 たとえ手術を含めた治療が適切で、いい結果だと考えられても、視力が不良のままであることは多くある。私はロービジョン患者を多数生み出している。私が専門とする網膜硝子体手術では術後視力は術前視力に強く相関する。手術がノーミスで終了することはありえない。また、なにが起きるかわからないので、良い視力を悪くする可能性はある。しかし、視力の最低線を失明の防止に置くのでは、どうにもならない。基本方針として最低線を運転免許が取得できる視力に置いている。 

【略歴】
 1971(昭和46)京都大学医学部医学科卒業
 1978(昭和53)京都大学大学院医学研究科修了
 1978(昭和53)京都大学医学部眼科助手
 1981(昭和56)天理よろず相談所病院眼科副部長
 1984(昭和59)京都大学医学部眼科講師
 1987(昭和62)愛知医科大学眼科助教授
 1994(平成6)フリー眼科医
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 新潟ロービジョン研究会2006(第7回に相当)は、7月29日(土)午後、済生会新潟第二病院10階会議室にて行われ、当日参加も含め133名(眼科医20名・視能訓練士60名・その他、患者さんと家族・看護師・医療関係者・眼鏡店関係者・盲学校教師・工学部関係者・学生等; 新潟県内から111名県外から22名)の参加者があり、これまでになく活発な意見が交わされまた。研究会の翌日(30日)に、新潟の梅雨明け宣言が発せられ、我々の熱気で一気に夏に突入した感があります。

 今回は、研究会前半は医師、視能訓練士の講演、就労・家族についての講演があり、研究会後半のシンポジウムでは、4人の講師を中心に様々なテーマで論議が交わされました。ロービジョンケアはだれがやるべきことなのか?看護師はもっと優しい声掛けが必要では、視能訓練士など若手の医療関係者はお年寄りとのコミニケーションをとることが不得手ではないか?等々、、、の意見のほか、医師に対する注文もありました。今回の研究会では結論は出ませんでしたが、医者も患者も視能訓練士・看護師も、何でも言える環境でのディスカッションは、明日に繋がると思います。 

 

 

 

2006年5月10日

 演題:『カタカナ語で見る視覚障害者のリハビリテーション』 
 講師:清水美知子(歩行訓練士) 
  日時:平成18年5月10(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
   
【講演要旨】
 「『リハビリ』と『リハビリテーション』は同じですか?違いますか?」と清水さんは語り始めた.勉強会に参加した多くの人は、同じと答えたが、中に『リハビリ』は身体的な機能訓練をいい、『リハビリテーション』はもっと広く人間の尊厳まで意味すると答える人がいた.そこで「『リハビリテーション』の意味するところは?」と、清水さんは語り出した. 

 1965年当時は、リハビリテーションは運動障害の機能回復訓練を意味していた(注1:厚生白書《昭和40年・1965年》).1981年頃になると、運動障害の機能回復訓練のみでなく、人間らしく生きる事が出来るようにするための技術及び社会的・政策的対応の総合的体系と捉えるようになってきた(注2:厚生白書《昭和56年・1981年》).しかし、平成16年1月の「高齢者リハビリテーションのあるべき方向」の冒頭で「リハビリテーションは単なる機能回復訓練ではなく、..」と述べていることからも分かるように、わが国ではリハビリテーションといえばリハビリ=機能回復訓練との認識が一般的であったといえる(注3:高齢者リハビリテーション研究会《2004年》). 

 我が国の「目のリハビリテーション」は、独自の発展をしてきた.他の身体障害には、「リハビリ=機能回復訓練」という図式がある。この図式は「目のリハビリテーション」にはない.なぜなら、目を揉んでも引っ張っても治らない.「目のリハビリテーション」は、全人間的復権という広義のリハビリテーションが根付くに適した状況のはずであった.しかし、視覚障害者には、伝統的な職業として三療(鍼・灸・按摩)があった. 

 1960年代(ベトナム戦争の頃)米国で強調された「職業リハビリテーション」の考えと結びつけ、三療師の養成訓練を職業リハビリテーションの中核項目に位置づけ、歩行、ADL、コミュニケーションなどの社会適応訓練を、その前段階、すなわち「プレボケ」(prevocational rehabilitationの略)訓練として制度化した.国立三療師養成施設とそこへの予備校的生活訓練という図式ともいえる. 

 米国では、1970年代に入ると職業中心のリハビリテーション過程に乗れなかった障害者のニーズの見直し、消費者運動の台頭、自立生活運動の高まりとともに職業リハビリテーションから自立生活リハビリテーションへ向かうが、わが国の視覚障害者リハビリテーションは職業リハビリテーション(あるいは三療リハビリテーション)に留まった. 

 2000年代に入り、リハビリテーションの体制は措置費制度から支援費制度、自立支援法に変わった.そこでは職業モデルから自立生活あるいは地域生活モデルのリハビリテーションへの転換が、当事者運動の高まりの結果というよりは、行政主導により実施されつつある. 

 現在の視覚障害者の自立生活支援の問題点を考えてみると、以下の事が挙げられる.
 第1に、2000年から介護保険が施行され、介護サービスを利用しやすくなるとともに、地域での生活が自立度に関係なく営めるようになった.しかし、それはセルフケアへの介助を中心としていて、社会活動を営むための長期的支援サービスが少ない.
 第2に、自立実現への力量作りあるいは自立度の向上に協力する訓練サービスは少なく、結果として介護サービスへの依存度が増す状況があり、視覚障害者の退行が心配される.
 第3に、訓練を提供する専門職(視覚障害生活訓練専門職、視能訓練士など)に、「してあげる」という態度が垣間見えることである.当事者の意識が「医療モデル」あるいは「障害者モデル」から「生活モデル」へと移行する中で、専門職の意識や行動の転換が遅れていると感じる.養成のカリキュラム、指導者の意識にも原因があるだろう.
 第4に、介護保険の中で視覚障害による生活上の不自由の評価が過小になる傾向がある.視覚障害に対する理解が足りない.視覚障害生活訓練専門職の資質、資格制度の問題とも関連する. 

【略 歴】
 歩行訓練士として、
 1979年から2002年まで視覚障害者更生訓練施設に勤務、
  その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。
 1988年から新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて
  視覚障害リハビリテーション外来担当。
 2003年から「耳原老松診療所」視覚障害外来を担当。 

【追 記】
 今回も期待通り、清水節は全開でした。
 リハビリテーションには身体機能回復の訓練ばかりでなく、人間としての復権も含めた意味合いもあること。言われるとそうだと合点しますが、そこを常に意識して臨んでいるのか否かで行動も変わってくると感じました。 我が国では、リハビリテーションが職業リハビリテーションに留まっているのではないかという視点、さすがです。障害を持つ方が職業に就くことの意義は多いにありますが、職業に就けなくても人間らしく生きていけること、もう一度考えてみたいと思いました。 

 リハビリテーションの歴史を、消費者運動、ノーマライゼーション、自立生活運動のうねりと併せて考える視点、勉強になりました。特に視覚障害者のリハビリを、他のリハビリと比較して語るのは新鮮です。 高齢者の介護と障害者のリハビリ、介護保険の中での視覚障害者のサービス、施設型リハビリと地域型リハビリ、生活している障害を持つひと(患者としてではなく、障害者としてではなく、「私」として)という視点、専門職の対応の問題、ケアをしてくれる人への支援、ソムリエ理論等々、1時間ではとても語り尽くせない内容でした。

2006年4月28日

 演題:『なぜ生まれる無年金障害者』 
 講師:遁所直樹 
          NPO法人自立生活センター新潟 副理事長
          新潟学生無年金障害者の会 代表
    (「生活できる真の国民皆年金制度」の確立をめざしています)
  日時:平成18年3月8日(水) 15:00~16:30
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 



【講演要旨】
 「一番いいたいことは、ただの一点『国民年金を払いましょう』ということです」、と話し始めた。はじめに言葉の解説。「任意加入」「免除」「猶予制度」「裁定請求」「棄却」と「却下」「再審査請求」、、、、。正直、なかなか難しい。実際裁判では、日本語なのに判らない言葉でやり取りされるという。 

 年金制度は、複雑である。その詳細を国は国民に判り易く伝えてくれているだろうか? 学生無年金障害の訴えた当初、誹謗中傷があった。「金を支払ってないのだから、年金をもらえないのは当然。そんなに金が欲しいか!」 でも、、、障害者が障害年金をもらって何が悪い、我々は困っているんだから助けて欲しい、助けてもらえれば我々にだって出来ることがある。全国に12万人の「無年金障害者」がいるが、「学生無年金障害者」は4000人、そのうち裁判闘争をしているのは30人。当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない。理屈は弁護士さんが作ってくれる。

 「負けて勝つ」ということがある。国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負ける。でもその後に制度は変わる。ところが東京地裁で、原告が勝訴してしまった。年金を受け取れない人たちを放置してきたのは国の責任であることを認めた画期的な判決であった。裁判官が神様のように神々しく見えた。東京・新潟・広島は、地裁で勝訴、高裁で敗訴。現在は最高裁で争っている(*ただし勝訴というのは、原告の言い分が少しでも認められた判決のこと)。

 東京地方裁判所で勝訴判決を言い渡した藤山裁判官は、印象深い。原告や、弁護士だけが頑張っていても裁判官の心を動かさなければ判決は勝訴とならない。しかし、国相手の裁判の場合、なかなか裁判官の心を動かすことが難しい。原告の口述の機会を与えることはもちろん、今回の勝訴につながった要因は、藤山裁判官が感性が豊かであったことでった。困っている人に対して、真剣に耳を傾け、相手の心を思いやり一緒に考えることのできる方だった。新潟地方裁判所の犬飼裁判官、広島地方裁判所の裁判官もそのような方だった。どんな制度にも「間(はざま)」がある。全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しいというのが願いである。

 『国民年金を払いましょう』、そして『もらう権利』を主張しましょう!!

【追 記】
 「我々は困っているんだから助けて欲しい」「当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない」「理屈は弁護士さんが作ってくれる」「負けて勝つ」等々のフレーズは印象に残りました。 「全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しい」という遁所さんの主張は、正論だと思いました。 

 以下、年金について、少しネットで調べてみました。
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《社会保険庁ホームページ》
年金の基礎知識やQ&A、相談窓口の案内
http://www.sia.go.jp/ 

《無年金障害者の会》 
http://www7.plala.or.jp/munenkin/munenkin-f.html
 病気や事故などで心身に重い障害を負ったのに、年金制度の不備などで、障害基礎年金が受けられない。 こんな私たち無年金障害者の実情を知って欲しい、そして何らかの救済の手をさしのべて欲しいと、平成元年(1989年) 「無年金障害者の会」を結成しました。 本会は、年金制度の谷間で障害基礎年金が支給されない無年金障害者の救済を求めて運動を行っています。合わせて安心して暮らせる年金制度の確立を求めています。

[無年金障害者の発生する理由]
 学生無年金障害者~20歳を過ぎた学生で国民年金に任意加入していなかった
 主婦無年金障害者~サラリーマンの妻で国民年金に加入していなかった 
 
在日外国人無年金障害者~在日外国人で国籍条項により国民年金に加入できなかった
 滞納無年金障害者~経済的理由により国民年金保険料を滞納した
 無年金障害者~その他障害状態が軽いと評価されたために無年金になった 

 「皆年金」と言いながら全国で12万人の無年金障害者がいると言われています。何故こんなに無年金障害者が生まれたのでしょう…?それは国民年金制度に欠陥があったからです。しかも、その欠陥を判っていながらこの制度をスタートさせたとすれば、それは大きな問題ではないでしょうか?年金というと「老齢年金」を思い浮かべるでしょうが「遺族年金」「障害基礎年金」もあります。皆さまにとって決して人事ではないこの問題!この問題を1人でも多くの方に知って頂きたく思っています。 

[年金制度の欠陥]    
  外国人の場合~1982年(昭和57年)の法改正前は、国籍条項があり、在日外国人ついては国民年金に入ることができませんでした。     
 
主婦の場合~1985年(昭和60年)の法改正前は、厚生年金加入者の配偶者(サラリーマンの妻)は、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
  学生の場合~1989年(平成元年)の法改正前までは、学生や専門学校生については、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
 主婦や学生を国民年金制度から除外したのは、主婦や学生には収入が無いため保険料が納められないからということが理由の一つでした。実際にも、主婦は夫の収入で生活をし、老後も夫の年金で生活をするであろうから、主婦自身に独自の年金はいらないと考えられ、学生については何年かすれば卒業して就職したときに厚生年金等に加入するから問題ないと考えられていました。

 このように国民年金制度から除外されている間に、不幸にも病気や事故で障害を負った場合、その人は一生涯にわたって障害基礎年金を受けることができないのです。

2005年11月20日

【済生会新潟第二病院眼科 公開講座 2005】 
 演題:「ホスピスで生きる人たち」 
 講師:細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
  期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室 

 

【講演要旨】
 ホスピスとは死んでいくところと理解している人が殆どだと思うが、実際に中で働いてみるとホスピスとは生きるところだと感じる。そういう意味でタイトルは「ホスピスで生きる人たち」とした。 

 現代は「自分の死を創る時代」といわれている。がんが死因の第一位を占めるようになって四半世紀が過ぎ、2人に1人はがんの宣告を受け、3人に1人はがんで死ぬ時代である。私自身も昨年腎癌と診断され手術を受けた。病を知り、死を意識して生きる時間が長いのも、がんという病気の特徴の一つである。そのような時代の中で、ホスピスは「がんと診断され残り時間が半年以内と予測された人たちの、人生の残りをその人らしく悔いのないように過ごしてもらうために、多職種のスタッフがチームを組んで全人的なケアをするところ」として広く認識され、その重要性が高まってきている。自分の死を創ることの意義を考えさせられた一人の例を紹介する。 

 50才代男性。咳が続いた。開業医に行くと、胸のレントゲンを撮って、肺に影があるからと大学を紹介された。 大学の内科で精査すると肺癌であることが判り、外科に紹介され手術を受けた。外科で手術が終わると、放射線治療のために放射線科を紹介された。放射線治療が終わると、今度はホスピスを紹介された。ホスピスで余命一ヶ月言われた。このストーリーのどこが間違っているのだろうか?誰の責任だろうか?各担当の医師は誠実に自分の行なうことをしっかり行ない、次に担当すべき医師に託しているのだが、、、。自分の命に自分で責任を持つ、すなわち、死生観を持つことが求められている。 

 ホスピスとは何だろうか?ある人がこのように定義した。「患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」。自分で経験した3名のお話を紹介する。 

 50歳半ばのギャンブラー(相場師)。頸部の癌患者。ある日、点滴を眺めて点滴のカロリーが43Calであることを見つけた。患者(筆談):「これで充分なのか?」 細井:「これで充分ですよ」 患者は泣いた。何とかしようと考えた。聖書の言葉に「鳥の声・野の花」という一節がある。空を飛ぶ鳥は自分で種を蒔くわけでもなく、収穫物を刈るわけでもない。それでも日々空を飛んでいる。野の花も明日は摘まれて炉に投げ込まれるかもしれない。それでもその日一日は可憐な美しさを誇って咲いている。つめり何を食べようが、飲もうか、何を着ようかと思い煩わずとも、その日その日に生きる力を神から与えられているものなのだ。それを話すと患者はまた泣いた。今度は彼の心の琴線に触れたのだった。その後意識が朦朧とするまで3週間、彼と毎日筆談した。 

 50歳代女性。小売店経営。大腸癌で肝転移あり。患者:「先生にとって人間とは何ですか?」 細井「人間とは、誰かにあらしめられるもの」 翌日見舞い客に患者は「ホスピスではこんなことも教えてくれるのよ。お金以外に大切なものがあることがわかった」と嬉しそうに話していたという。翌日亡くなった。 

 80歳目前の元女医。患者:「私は嫁にここに追いやられた」 嫁:「おばあちゃんとどう接したらいいか判らない」 元女医は昔ミッションスクールに通っていた。そこで毎日聖書を一緒に読んだ。その効果かどうか分からないが、あまり他人の悪口を言わなくなった。ある日の夜「世界の平和を祈って、私は眠ります」と言って床に就いた。翌日亡くなった。 

 これらは、通常の医師・患者の関係では生まれない会話である。人間同志の関係において成り立つ会話である。上記の3名とも、それまで自分を支えてきた価値観から新たな価値観を見出すことが出来た。自分の死を創った人たちだ。 

 私は外科医として18年間がんと闘ってきた。しかし、父が胃がんのために淀川キリスト教病院ホスピスで亡くなったことをきっかけに、外科医を辞めホスピス医となった。それ以降多くの患者さんの最期に関わることが赦された。こうしてホスピスで学んだ5つの事がある。

1)死は予期しない時にやってくる。
 病気知らずに中高年となり、ある日がんを宣告され、怖れ戸惑うのが多くの現代人の姿である。何事も願うようにはならないものである。

2)病気で死ぬのではない。人間だから死ぬ。
 人間の仕事は子孫を残す事であり、死は生物学的にプログラムされたことである。病気にならなくても死は訪れる。

3)死ぬことは、生きている時の最後の大仕事。
 人間は生まれた時から、死に向かって歩んでいる。ある時から死に向かって歩みだしているわけではない。引越しに例えると判り易い。引越し前夜は徹夜になることもある。それくらい、死ぬ前にやっておくことは沢山ある。

4)生きれない時、死ねないときが来る。
 ホスピスで痛みの治療や、心のケアを受けると、生き返るように思い、大きな希望を抱く。しかし病状はがんの進行と共に悪化する。その時に、「早く死なせて欲しい」「生きていても仕方がない」と呟くようになる。生きたいけれど生きれない、死にたいけれど死ねない。そんな時にその人がこれまで生きてきた姿が出る。人は生きてきたように死んでゆく。

5)生きているのでない、生かされているのだ。
 死は平等にやってくる。頑張っている人にも、そうでない人にもやってくる。頑張っているから生きているとは思えない。何かしらの力で生かされているように思える。 

 医師として臨終の場面に立ち合う時、どこかに暖かみがあり、心が洗われるような時間を経験する。しかし、他方では切ない看取りの場面に遭遇することもある。ホスピスでは、人生最後の1ヶ月間を過ごして旅立って行く患者さんが多い。そのために、ホスピスの時間はその人の一生を凝縮した時間だといわれる。ホスピスでよい時間を過ごすためにはそれまでが肝心ということであろう。ホスピスができることは、患者さんの苦痛を軽減し、人生を振り返ってもらうことである。 

 私は外科医として18年、ホスピスで10年勤めた。外科医の経験とホスピス医のそれとを比べて、ホスピス医は外科医より患者さんを生かしていると、今思えるのである。人はホスピスで生きかえると思える。私達は「何か」を求めて、日々、あくせくと生活している。その「何か」がホスピスにはあるように思える。外科医は、例えるなら、患者さんに100kgの重しがかかっていると、切り刻んで50kgや30kgにしようとする。時には失敗して200kgにしてしまうこともある。ホスピス医は、100kgの重しを一緒に支えようとする。そんな違いを感じる。ホスピスには人間同士として向かい合う姿がある。 

 「患者の死」は、外科医にとっては「苦い経験」である。ホスピス医にとっては、「生きる力」になる。「いのち」は死ぬことでは終わらない。自分の死を創った人は、残された遺族、また連なるすべての人の心の中で生きている。その人たちが生きる力になる。 

 どうしたらそのような死を迎えることができるのか?「手放すことができる」人は、自分の死を創るように思える。何かを掴もう掴もうとする人は、何も得ることは出来ない。手のひらを天に向けて手放す人は、空から降ってくるものを得ることが出来る。外科医はある意味では、悪いところを切り取り現状を維持しようとする。現在に留まろうとする。これでは手放すことが出来ない。ホスピスでは、今の現状を引き受けて、悪いところも含めた新しい自分に気づくことが出来る。手放すことが出来るのだ。 

 養老孟司によると、人間の体は1年間で70%の細胞は替わってしまう。3年もすると殆んどの細胞は替わってしまう。変わること、拘らないことが自分の死を創ることにつながる。自分の死を創った人は遺された人の「いのち」を創る。これを実感出来た時に、人は安心して死ねるのであろう。その時、死は優しく我々を迎えてくれるに違いない。 

【細井順氏 略歴】
 1951年岩手県生まれ。
 
 78年大阪医科大学卒業。
   自治医科大学講師(消化器一般外科学)を経て、
  
 93年4月から淀川キリスト教病院外科医長。
  
 95年4月に、父親を胃がんのために、同病院ホスピスで看取った。その時に患者家族として経験したホスピスケアに眼からうろこが落ち、ホスピス医になることを決意
   同ホスピスで、ホスピス・緩和ケアについて研修。
  
 98年4月より、愛知国際病院で愛知県初のホスピス開設に携わる。
  
 02年4月から、財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長として、
             地域住民の生活に溶け込んだ新しいホスピスの建設を推進している。
   
 04年10月 第27回日本外科学会(盛岡)市民講座で講演
    
  「安心してがんの治療を受けるために~最新の治療法から終末期医療まで~」 

 現在、日本死の臨床研究会世話人
 著書:『ターミナルケアマニュアル第3版』(最新医学社、1997年)(共著)
     『私たちのホスピスをつくった 愛知国際病院の場合』(日本評論社、1998年)(共著)
    『死をみとる1週間』(医学書院、2002年)(共著)
    『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)

 

【後記】
 「竹馬の友」と呼べる友人がいる。彼は私の一歳年上、2歳上の兄と私の間の学年である。当時盛岡に住んでいた私達兄弟と彼は、毎日お互いの家を行き来して遊んだ。私が幼稚園から小学1年生時代の3年間である。3人兄弟のような関係であった。

 学生時代に3人で一緒に旅行した。彼の結婚披露宴に兄弟で招かれた。私の結婚式に参列してもらった。時を経て彼は外科医になり、新潟で学会があった時、一緒に飲んだ。大学の講師になりそれなりに活躍しているようであった。名古屋で眼科の学会があった時、一緒に飲んだ。その時には彼はホスピスで仕事をしていた。もとから彼はクリスチャンで、彼らしい選択と思った。その後彼は滋賀に移り、京都の学会の折に時々会った。

 彼に会うといつも不思議な感覚を味わう。タイムスリップして一気に盛岡時代に戻ってしまう。互いに50歳を過ぎ、バーのカウンターで互いに「順ちゃん」「伸ちゃん」と呼ぶ。それ以外の呼び方をお互いに知らない。中年男性がそんな呼び合いをしながら、仲良さそうに会話をしているのだから、さぞや周囲の人からは変に思われたかも知れない。

 そんな彼を新潟に呼んで講演会を開いた。「ホスピスに生きるひとたち」という演題で、約一時間の講演だった。最初は彼に講演など大丈夫かなと心配であったが、5分も経たないうちにそれは杞憂であることが判った。「ホスピスは、患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」「病気で死ぬのではない、人間だから死ぬ」「死ぬことは、生きている時の最後の大仕事」『患者の死』は外科医にとっては『苦い経験』だが、ホスピス医にとっては、『生きる力』」、、、、、。

 彼の講演は、間違いなく満員の聴衆を魅了した。嬉しかったが、正直チョッと不思議だった。なぜなら私にとって「順ちゃん」は、立派なホスピス医ではなく、今でも「やんちゃな遊び友達」であるからだ。

http://andonoburo.net/off/2209

2005年9月14日

報告:第114回(05‐9月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会     上林洋子
   日時~平成17年9月14日(水) 16:30~18:00
   場所~済生会新潟第二病院 眼科外来
 演題:『限りなく透明な世界』
 演者:上林洋子(視覚障害者福祉協会会員、盲導犬ユーザーの会会員;新潟市)
  視覚以外の残された感覚を精いっぱい動員して、私だけの世界を三十一文字に託して表現してみました。 

【講演内容】
 私は何も見えません。光も色も、明るいことも暗いことも・・・。でも真っ暗闇ではなく、色をいつも意識しています。木の葉のさやぐ音を聞けば深緑を、照りつける日差しに真っ青な空を、朝市できゅうりのいぼいぼに触れればその色を・・・。まさに私独自の色の世界は限りなく透明なのです。視覚以外の感覚で色や風景を31文字に表現してみました。
 15歳の時に緑内障と診断され、何度も何度も入院を繰り返しました。県立新潟盲学校に入学し鍼灸マッサージの資格を得ました。
 昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚。二児出産。子育ての最中に、どんどん視力は低下していきました。そのころヘルパーさんに短歌を教わりました。
 『眠りたる吾子の口元ま探ればミルクに濡れてやわらかきかな』
 『かたくりの花に触れつつ色問えば「母さんのセーターとおんなじ色よ」』
 『登校の娘が戻り来て庭先の百合が咲きしと告げてかけ行く』 

 39歳のある晩、急に右眼が痛み、これまで経験したことのないような頭痛に襲われました。翌日大学病院を受診、即日入院。いろいろと治療しましたが、右眼は視力を失い、左眼も微かに見えるのみでした。夫の勧めもあり両眼の眼球摘出を決意しました。
 眼球摘出前日に
 『明日には除去される眼よ夜のうちに吾のなみだで流さんものを』
 眼球摘出した後、ガーゼ交換の時、もう目はないのですが、不思議と色々な色が見えました。
 『除去されし眼窩のガーゼ交換のたびに虚像の色迫りくる』
 当時の3ヶ月くらいは、毎日死にたいと思っていました。
 『吾のみの知れる哀しみ両の眼の義眼洗いて包みて眠る』 

 次第に子供は成長し、夫は外で活躍、一人家にいることが多くなりました。
 『青空を肌で確かむベランダにもたれて盲いし眼をしばたたく』
 『路地の一つ違いたるらし白杖の音の気配に佇みて』
 そのころ夫の勧めもあり、白杖歩行の訓練を受けました。高田盲学校の霜鳥先生が講師でした。

 平成7年5月、北海道盲導犬協会から電話があり、盲導犬ユーザーにならないかとのお誘いがありました。七月、新潟から一歩も離れたことのない私は不安でいっぱいな気持ちで初めて飛行機に乗り、協会に入所いたしました。でも、明るく家庭的な暖かい雰囲気に接し、犬嫌いの私も次第に打ち解けることが出来ました。
 『眼の澄みしシェル号なりと指導員にわたされしハーネスしかと握りぬ』
 盲導犬が来て最初に買い物は、夫の好物でした。
 『盲導犬持ちて初なる買い物は夫の好みしビーフステーキ』
 シェルが来たお陰で、外出する機会が増えました。盲導犬シェル号との出会いにより、私の生き方も前向きになりました。
 『夏帽子ふかくかむりて盲導犬シェル号とはずむ朝の散歩は』 

 平成9年の夏、すばらしい体験をしました。盲導犬使用者の先輩の発案により、弱視の夫とともに、富士登山に挑戦したのです。無事登頂できたときの感激は筆舌には尽くせません。
 『10名と2頭のパーティー遂に今 浅間神社の鳥居をくぐる』
 『ご来光拝みて佇む富士山頂の 大気微かにぬくもりてくる』
 毎日シェル号と歩くことにより、私も富士山を制覇できるほどの体力がつきました。 

 7年間一緒に過ごしたシェルと別れの日がきました。
 『盲導犬シェルリタイヤの朝七年を使いこし食器おろおろ洗う』
 『「ありがとう一緒にいっぱい歩いたね」頭撫でつつハーネスはずす』
 平成14年6月、2頭目のターシャ号に代わり現在に至っています。最近は、ターシャを先頭に、私が続き、その後を夫が従って散歩をしています。
 『辻ごとに止まるをほめて新しき盲動犬ターシャと心かよわす』 

 2人の子ども達が巣立った今、仕事や家事の間をみて編みものや読書、草花を育てるなどの趣味を楽しんでおります。また、夫とウォーキングや山登りなどの会に積極的に参加し、これからの人生を有意義に過ごしたいと思っております。「失明」は決して「失命」ではありません。見えなくても、こうして楽しく生きているのだと、多くの人に判ってもらいたいと思います。 

【略 歴】
 15歳で緑内障と診断された後、県立新潟盲学校に入学し鍼灸マッサージの資格を得ました。
 昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚。二児出産後、数回の手術を繰り返しましたが、40歳には完全に失明しました。このころから音声ワープロをマスターし、短歌を詠む楽しさを覚えました。
 平成7年、北海道盲導犬協会に入所し盲動犬シェル号に出会いました。
 平成14年6月、2頭目のターシャ号に代わり現在に至っています。 

【後 記】
 これまでのドラマチックな半生を、感激したりハラハラして拝聴しましたが、上林さんは淡々とした口調でお話されました。いつまでたっても思いを込めて話など出来ないのかもしれませんが、淡々とした口調に何か重いものを感じてしまいました。
 そして短歌の魅力!私は写真が好きで何処でも写真を撮りますが、上林さんはどの場面もその時に詠んだ短歌に思いを込め、記憶に仕舞い込んでいるようでした。子供との思いを詠んだ歌、両眼眼球摘出する前の日に詠んだ歌、盲導犬に思いを寄せる歌、だんな様との歌、どれも素敵でした。人生を豊かにする魔法の手段のような感じがしました。
 話の随所に登場する視覚障害を持つだんな様の一言。夫婦ならではの会話。こんな会話に上林さんはどんなにか励まされたことでしょう。
 勉強会の最後に、新潟ロービジョン研究会を8月初めに開催した際、ある盲導犬ユーザーの方から、「暑い時には熱したアスファルトで盲導犬がやけどするので」と参加を断られたエピソードを私が紹介しました。そして盲導犬に対する配慮がなくて申し訳なかったとお話した時、「そんなことを言う人がいたのですか。それは違います。ユーザーが暑い日でも盲導犬が歩けるように工夫すればよいことなんです」と、即座に上林さんは言われ、なるほどと合点しました。どんなハンディも乗越えてきた人の迫力を実感した瞬間でした。

 今年3月7日新潟日報「日報読者文芸」短歌コーナーのトップに上林さんの作品が紹介されました。
 『洗顔の義眼も洗い納むれば(おさむれば)眼に大寒の冷えなじみくる』
  選者の馬場あき子「評」 寒水に洗った義眼の冷えに未知のすごさがある。『なじみくる』と詠み納めているが鮮烈だ。

 

2005年7月13日

報告:第112回(05‐7月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会
  期日:平成17年7月13日(水) 16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来

『盲学校弁論大会 イン 済生会』
1)「点字で変わった私」 片野知美(中学部3年)
2)「私はあきらめない」 風岡秀典(高等部普通科2年)
3)「マッサージ業 戦国時代を生きぬく」 齋藤貴史(高等部専攻科理療科3年) 

【講演内容】
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1)「点字で変わった私」 片野知美(中学部3年) 

 小学校の頃は、字を見ると目が疲れ、頭が痛くなるので、本が大嫌いだった。小学校6年の時に、眼科医に「網膜色素変性」と告知された。その時はまだ視力は残っていたが、自分で盲学校への進学を決意した。盲学校で必死に点字を覚え、読書の楽しさを知った。読書が出来るようになり、何事にも自信が持てるようになった。「やれば出切る!」もっと点訳本が早く出版して欲しい。これからは自分から社会に向けて様々な事を発信していきたい。

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2)「私はあきらめない」 風岡秀典(高等部普通科2年)

 エンジニアになることが小さい頃からの夢だった。中学3年の時に「網膜色素変性」の診断。落ち込んだ。高校から盲学校へ進学。小さい頃からの夢「車・バイクのエンジニア」を諦めかけた頃、本田宗一郎展をみた。昭和20年ごろのマシンが今でも通用する。失敗にめげない開拓魂。プロジェクトXで、チューンの神様・ポップ吉村のことを知り、NHKに手紙をかいたら、本人から返事がきた。ポップ吉村の工場を訪ねることが出来た。私はバイクのエンジニアになる夢を諦めない。

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3)「マッサージ業 戦国時代を生きぬく」 齋藤貴史(高等部専攻科理療科3年)

 いわゆるマッサージ業は、国家試験を合格した免許所持者にしかできないが、無資格でマッサージ行為を行っている所には、整体・カイロプラクティック・リフレクソロジー(足裏健康法)、エステ等がある。それに対抗するためには、実力をつけること、そして将来はマッサージ研究機関を設立したい。無免許のマッサージ行為を取り締まることに行政は無力である。このマッサージ業界戦国時代を勝ち抜くには、実力で勝負するのが一番。不借身命。目標の達成のためには、私はどんな苦労もいとわない。

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【後 記】

 6月に北信越盲学校弁論大会に参加した3人の生徒に、済生会での弁論をお願いしました。片野さんは期末試験が終わったばかり、飛岡さんと斉藤さんは翌日も試験という状況で、一生懸命弁論を披露してくれました。爽やかな生き方、考え方に触れるからでしょうか、盲学校の生徒の弁論には毎回感動します。 

 片野さん 「将来の夢は?」との問いに、「これまでは多くの人に支えてもらった。これからは私が多くの人を支えたい」と語った一言が印象に残っています。

 飛岡さん 中学の頃の夢を未だに追い続けるという好青年。何度失敗しても決して諦めない。夢を追いかける少年は昔はよくいたものですが、現在のように偏差値で進路を決められてしまう進路指導では、ほとんどいない。爽やかさと凄さを感じました。

 斉藤さん 無免許が横行しているマッサージ業界に対して行政を批判するだけでなく、自らの技術を高め将来はマッサージ研究所を作り、マッサージの技術を追求したいという夢を語ってくれました。毎日夜遅くまで研鑚しているとのこと。大きなビジョンを緻密に実行に移している様を感じ、応援したくなりました。

 

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【全国盲学校弁論大会】

 1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。当時はラジオ放送が始まったころであった。視覚障害者の存在を世の中にアピールし、社会との接点を持つうえで絶好の機会だった。時代や社会の流れに積極的にかかわっていこうという内容が多かった。

 大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更した。最近の弁論内容は、自らの障害の実態をより具体的に訴え、視覚障害者に対する社会的理解を一層促そうとする傾向がある。

 大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。

http://www.mainichi.co.jp/universalon/clipping/200210/440.html