『新潟ロービジョン研究会2012』
1.シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』
座長:守本 典子 (岡山大学) 野田 知子 (東京医大)
1)基調講演 (50分)
演題:「 ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-」
講師:渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
2)私のIT利用法 (50分)
「ロービジョンケアにおけるiPadの活用」
三宅 琢 (眼科医:名古屋市)
「視覚障害者にとってのICT~今の私があるのはパソコンのおかげ~」
園 順一 (京都福祉情報ネットワーク代表 京都市)
シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』は、ITを中心に、「作り手」「作り手とユーザーの架け橋」「ユーザー」がそれぞれにお話ししてくれました。
今回は、「作り手」として登場した渡辺哲也先生の、音声パソコンの基礎になる音声合成器についての、基調講演の講演要旨と参加者から寄せられた感想をお届けします。
基調講演1
「 ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-」
渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
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【講演要旨】
今でこそ日常的に使われているスクリーンリーダですが、これらが当たり前になるまでには要素技術開発の長い歴史と、先輩視覚障害者たちの多大なる苦労があったことを知ってもらいたかったというのが、技術者の立場としての渡辺が講演に込めた思いです。その講演の中では、音声合成の発達、6点漢字ワープロの開発、MS-DOSのスクリーンリーダVDMの開発という3つのテーマについてお話しました。それぞれのテーマごとに内容をまとめます。
(1)音声合成の発達
1791年、ハンガリーの発明家フォン・ケンペレンが開発した音声合成器は、人が声を出す仕組みをふいごと共鳴室からなる機械で真似たものでした。片手でふいごを動かして空気を送り、これがリードをふるわせ共鳴室の中で母音のような音になり、音の出口の開け閉めの工夫で子音を作ります。
それから1世紀半を経た1939年、機械的な部品を全くなくし、電気回路のみで動作する音声合成装置VODERが開発されました。操作者は、点字キーボードに似たキーを打鍵して音素を選び、足下のペダルで声に高低をつけます。この電気回路が集積回路に納められて、弁当箱サイズのケースに入って、外付け音声合成装置として市販されるようになったのが1980年代のこと。人の操作が不要になり、テキストさえ入力すればどんな文章でも発声できるようになりました。
これを利用して、視覚障害者のための音声読み上げソフトウェアが日米それぞれで開発される時代を迎えたのです。その間、合成音声の音質も改善されてきまた。抑揚がなく単調でいわゆる「機械的」だった音声が、文脈に応じて抑揚が付けられるようになり、今や人と機械の区別が付かないほどのレベルに達しています。高品質な音声は、今のスクリーンリーダにも使われています。
(2)6点漢字ワープロの開発
長谷川貞夫さん(元筑波大学附属盲学校教諭)には、二つの願いがありました。一つは点字印刷物を手軽に作ること、そしてもう一つは漢字仮名交じり文章の墨字を自分で書くことです。どちらも、情報の入手と発信を晴眼者と同じようにできないもどかしさに端を発しています。これらの願いが絵空事ではなく、実現可能なのではと思えるようになったきっかけは、1966年の新聞社見学でした。そこでは、もはや活字を手作業で並べてはおらず、キーパンチャーで文字を打ってコード化し、そのコードを自動植字鋳造機に入力して活字を作り、印刷をしていました。 視覚障害者は手元を見ないでもキーを打つことができます。ならば、視覚障害者が漢字を入力するための仕組み(これが後に6点漢字となる)を作れば、自ら印刷できるのではないか。更に、パンチャーで打った普通文字のコードを点字に読み下すプログラムと点字印刷装置があれば、点字印刷物を複製できるのではないか。
そう思いついた長谷川さんは、コンピュータを使える場所や、プログラムができる人、印刷会社のコード、点字印刷装置などを求めて西へ東へ駆け回り、1973年に漢字仮名交じり文をコード化した紙テープから点字を印刷する実験に成功しました。翌1974年には6点入力した点字コードから漢字仮名交じり文を墨字印刷する実験にも成功しました。
時代は下って1981年、かつて大型計算機で行ったことが、「パソコン」でできるようになり、6点漢字ワープロが完成しました。これに触発された高知盲学校の先生らが、地元のメーカと共同で開発したのが日本初の音声点字ワープロAOKです。これを製造・販売する高知システム開発は、PC-Talkerをはじめとするた視覚障害者用製品を多数世に送り出しています。
(3)MS-DOSのスクリーンリーダVDMの開発
斎藤正夫さん(アクセステクノロジー社長)は、真空管、トランジスタ、ICを自らいじるほどの機械好きでした。そして、人に頼るのがきらいな性格でした。1980年代初期にパソコンが広まりはじめると、純粋にこれを使いたいだけでなく、これで自分に役立つものを作れないかと考えました。しかし、パソコンを使おうにも、スクリーンリーダがまだない時代のこと。斎藤さんは、プログラムを頭の中で考え、これを全くフィードバックなしでパソコンに打ち込みました。うまく動いたら思った通りの音が出るが、一箇所でも間違っていたら反応しない。これを繰り返して、モールス符号で画面上の文字を音で出力するプログラムを作り上げました。
当初はBASIC言語を使いましたが、それではほかのプログラムを音で出力してくれません。そこで、マシン語によるプログラミングに取り組みました。このときも試行錯誤の連続、適当に命令 を打っては結果を見て動作を推測しました。そしてパソコン購入から5ヶ月目の1983年12月、キーを打ったら即座に音が出るプログラムが完成したのです。
その後、斎藤さんは、知人からの依頼に応じて、様々なパソコン機種と音声合成器へ対応したプログラムを次々と開発しました。このときプログラムに付けたファイル名がVDMです。VD は画面を音声出力するVoice Display、そしてMはマシン語に由来します。MS-DOSのスクリーンリーダVDM100は1987年11月~12月頃に完成しました。視覚障害者自らが開発し、改良の依頼に即座に対応するVDM100はユーザの支持を得て、広く普及しました。Windows環境においては、VDM-PC-Talkerシリーズとして使い続けられています。
【略歴】
1993年 北海道大学大学院生体工学専攻修了
同年 水産庁水産工学研究所研究員
1994年 日本障害者雇用促進協会(現、高齢・障害・求職者雇用支援機構) 障害者職業総合センター研究員
2001年 国立特殊教育総合研究所(現在は、国立特別支援教育総合研究所) 研究員~主任研究員
2009年 新潟大学工学部福祉人間工学科准教授
視覚障害者を支援する機器・ソフトウェア等として、スクリーンリーダ(95Reader)、漢字の詳細読み(田町読み)、視覚障害者自身が描画可 能な触覚ディスプレイ(mimizu)、点字点間隔可変印刷ソフトウェア、触地図自動作成システム(tmacs)などを開発してきた。調査研究として、障 害者の就労支援、障害のある学生の就学支援、拡大教科書の普及などに従事してきた。
【参加者からの感想】到着順
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(眼科医;大学勤務、東京)
普段患者さんに勧めている音声パソコンの開発経緯が説明され、非常に興味深かった。できれば、拡大読書器の開発経緯も聞きたかった。
(当事者、千葉県)
渡辺先生のお話を聞き、諸先輩方の底知れない努力のおかげで、現在のICT技術の恩恵を我々視覚障害者が享受できる幸せを改めて感じました。以前、VDMを開発したアクセステクノロジーの斎藤社長が、「自分で使う道具は、自分で作る」とお話していたことを、ふと思い出しました。音声もない、まさにブラインドタッチだけの環境下で、何度もトライアンドエラーを繰り返し、VDMを作り上げた斉藤社長のご尽力に改めて感謝です。
(視能訓練士;病院勤務、新潟市)
アナログからデジタルに変わったころから、時計、体温計、体重計などが音声化され、これからどんどん便利な物が出来るよ、と説明していました。音声パソコンは画期的でした。IT時代に入り視覚障害があっても、たくさんの情報を受け取ることが可能になりました。今は患者さんからたくさんの情報を教えていただいています。
(眼科医;病院勤務、四国)
人は100年以上も前から機械に言葉をしゃべらすことを夢みていた・・長年の研究成果のリレーにより開発されたスクリーンリーダー。渡辺先生のお話しには、とても重みを感じました。
(教育関係者;大学勤務、関東)
渡辺先生のお話の中で紹介された音声合成の開発黎明期の音源は,よくぞ探されたと思う貴重なものばかりで,大変感動しました。重度視覚障害者のQOLを支えるIT技術が,着実に研究・開発されている様子がよくわかりました。
(機器展示関係者;関西)
渡辺先生のお話を聞いて、最近の精度の高いスクリーンリーダーやOCRソフトの進歩の影に研究努力があり、お話にもあった、何より当時者の意見を取入れ、製品開発に反映させてきたからこそ良い製品が生まれてきていると思いました。
(薬品メーカー関係者;新潟市)
人工的に声を合成するという歴史を知ることができたのは非常によかったです。当時は研究目的でいかに音を出すかというところに視点があったと思いますが、この基礎研究の基盤があって現在のツールができたことは素晴らしいと思いました。渡辺先生の講演時間がもう少し長ければよかったなと思いました。
(薬品メーカー関係者;新潟市)
私が一番驚いたことは、200年前から木箱の音声合成装置があったことです。数々の発明、発展により現在ではノドの動きだけだけで音を出せることを知ることが出来ました。本当に驚きの連続でした。また、開発に目の不自由の方が関わることで、使い手の気持ちを考え、より使用しやすい物づくりが可能だと際実感いたしました。
(当事者;長野県)
渡辺先生の音声合成器の構造や発展の歴史、初めて見たり聞いたりすることばかりで、とても興味深かったです。
(当事者;新潟県)
点字は文字文化のひとつとして、その特徴を生かして視覚障害者に広く使われてきました。長い間、そして現在も、それは白杖とともに視覚障害者をシンボライズするものでもあります。それがパソコンとスクリーンリーダー(パソコンの画面情報読み上げソフトウェア)の登場により、点字に頼らなくても読み書きが可能になり、鍼灸マッサージ以外の職種も選択できる可能性につながりました。新潟大学工学部福祉人間工学科准教授の渡辺哲也先生による基調講演「ITの発展と視覚代行技術、利用者の夢、技術者の夢」は、音声合成の歴史と概念、スクリーンリーダーの開発と進化を、古い時代から最新のものまで、実際の音源データを聴かせていただきながらの講演でした。
イニシエの人がしゃべる器械にあこがれてから200年、現在はパソコンで動作する音声合成エンジンが開発され、抑揚のある人間らしいしゃべり方を獲得できるまでに技術は進歩しました。 この音声合成技術をベースに開発されたのがスクリーンリーダーであるわけですが、ここで注目すべきは、それを最も必要とした視覚障害者自身が開発、改良に深くかかわってきたという事実です。目が不自由な人の「人に頼りたくない」という思い、言葉を変えれば「自由でありたい」という当たり前の願いが、その努力を支えるモチベーションになりました。講演ではDOS時代の代表的なスクリーンリーダーであったVDMの作者である斉藤正夫さんが紹介されましたが、現在もその流れは途切れていません。無料のスクリーンリーダーとして注目を集めているNVDA日本語版の開発 とWebアクセシビリティの提言をする活動をしている株式会社ミツエーリンクスの辻勝利さん。社会学者でありプログラマーでもある石川准さんはGPSを利用した視覚障害者誘導システムの開発に情熱をかたむけられています。
自由を勝ち取るための努力を惜しまない人たちに学ぶべきことは、技術そのものよりも、そのスピリッツであると思います。それに共感していただける渡辺先生のような科学者、そして製品を使う一般ユーザーの的確なフィードバックが、より優れた、役に立つモノを作り出す力になるのではないでしょうか。
(工学部関係者;大学勤務、新潟市)
シンポジウム1は、内容が私の専門分野だったので興味津々だった。渡辺先生の視覚代行技術の詳しいレビューは聞きごたえがあった。
(当事者、新潟市)
渡辺哲也先生の「ITの発展と視覚代行技術…」の基調講演で、音声合成器の開発・発達の過程が開発当初手動であったこと、それが電気による合成へ、そして音声電卓…自動代筆…AOK点字音声ワープロの開発…技術者だけでなく開発に携わった多くの方々の巾広いそして力強い努力に一種の感激と驚きを感じました。
(眼科医;大学勤務、中国地方)
人が空を飛びたいと夢を見、知恵と道具を使って実現させたように、ロービジョン者が音声で文字を知りたいと夢を見、知恵と道具を使ってそれが実現された、ということでしょうか。多くの研究者のロマンに支えられた地道な努力があって、後世のユーザーたちがそれを享受しています。そして今も発展し続けているのだ、ということを渡辺先生のご講演から知って、感動いたしました。
(学生、新潟市)
音声合成装置の今までの変遷や、音声合成装置等を使って任意に文章を作成その他多くのことができるようになり、視覚障害を持つ方でも社会に出て活躍できるようになったことなど多くのことを学びました。
(眼科医;病院勤務、新潟市)
ITを中心に、「作り手」「作り手とユーザーの架け橋」「ユーザー」がそれぞれにお話ししてくれました。「作り手」として登場した、スクリーンリーダーの開発に携わった渡辺先生の音声合成器の開発、大きな驚きでした。実演は記憶に残りました。
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『新潟ロービジョン研究会2012』 プログラム
日時:2012年6月9日(土)
開場12時45分 研究会13時15分~18時50分
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
12時45分 開場 機器展示
13時15分 機器展示 アピール
13時30分 シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』
座長:守本 典子 (岡山大学) 野田 知子 (東京医大)
1)基調講演 (50分)
演題:「 ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-」
講師:渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
2)私のIT利用法 (50分)
「ロービジョンケアにおけるiPadの活用」
三宅 琢 (眼科医:名古屋市)
「視覚障害者にとってのICT~今の私があるのはパソコンのおかげ~」
園 順一 (京都福祉情報ネットワーク代表 京都市)
3)総合討論 (10分)
15時20分 特別講演 (50分)
座長:安藤 伸朗 (済生会新潟第二病院)
演題:「網膜変性疾患の治療の展望」
講師:小沢 洋子 (慶応大学眼科 網膜細胞生物学斑)
16時20分 コーヒーブレーク & 機器展示 (15分)
16時35分 基調講演 (50分)
座長:張替 涼子 (新潟大学)
演題:「明日へつながる告知」
講師:小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
17時25分 シンポジウム2『網膜色素変性の病名告知』
座長 佐渡 一成 (さど眼科、仙台市)、張替 涼子 (新潟大学)
守本 典子 (眼科医:岡山大学)
「眼科医はどのような告知を目指し、心がけるべきか」
園 順一 (JRPS2代目副会長 京都市)
「家族からの告知~環境と時期~」
竹熊 有可 (旧姓;小野塚 JRPS初代会長、新潟市)
「こんな告知をしてほしい」
コメンテーター:小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
18時35分 終了 機器展示 歓談&参加者全員で片づけ
18時50分 解散
【機器展示】
東海光学株式会社、有限会社アットイーズ、アイネット(株)、株式会社タイムズコーポレーション、㈱新潟眼鏡院
『新潟ロービジョン研究会2012』
眼科治療にも関わらず視機能障害に陥った方々に対して、残っている視機能を最大限に活用して生活の質の向上をめざすケアを「ロービジョンケア」といいます。
済生会新潟第二病院眼科では、眼科医や視能訓練士、看護師、医療および教育・福祉関係者、そして患者さんと家族を対象に、2000年1月から年に一度、だれでも参加できる「新潟ロービジョン研究会」を開催しています。
2012年6月9日、済生会新潟第二病院で『新潟ロービジョン研究会2012』が開催されました(今回で12回目)。「ITによる支援」、「網膜変性症治療の展望」、「告知」のテーマで講演とシンポジウムが行なわれ、新潟県内外から120名(県内70、県外50;内訳~医療関係者60名・研究・教育関係者40名・当事者・家族20名)が参加しました。
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『新潟ロービジョン研究会2012』
日時:2012年6月9日(土)
開場12時45分 研究会13時15分~18時50分
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
【プログラム】
12時45分 開場 機器展示
13時15分 機器展示 アピール
13時30分 シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』
座長:守本 典子 (岡山大学) 野田 知子 (東京医大)
1)基調講演 (50分)
演題:「 ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-」
講師:渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
2)私のIT利用法 (50分)
「ロービジョンケアにおけるiPadの活用」
三宅 琢 (眼科医:名古屋市)
「視覚障害者にとってのICT~今の私があるのはパソコンのおかげ~」
園 順一 (京都福祉情報ネットワーク代表 京都市)
3)総合討論 (10分)
15時20分 特別講演 (50分)
座長:安藤 伸朗 (済生会新潟第二病院)
演題:「網膜変性疾患の治療の展望」
講師:小沢 洋子 (慶応大学眼科 網膜細胞生物学斑)
16時20分 コーヒーブレーク & 機器展示 (15分)
16時35分 基調講演 (50分)
座長:張替 涼子 (新潟大学)
演題:「明日へつながる告知」
講師:小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
17時25分 シンポジウム2『網膜色素変性の病名告知』
座長 佐渡 一成 (さど眼科、仙台市)、張替 涼子 (新潟大学)
守本 典子 (眼科医:岡山大学)
「眼科医はどのような告知を目指し、心がけるべきか」
園 順一 (JRPS2代目副会長 京都市)
「家族からの告知~環境と時期~」
竹熊 有可 (旧姓;小野塚 JRPS初代会長、新潟市)
「こんな告知をしてほしい」
コメンテーター
小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
18時35分 終了 機器展示 歓談&参加者全員で片づけ
18時50分 解散
機器展示
東海光学株式会社、有限会社アットイーズ、アイネット(株)
株式会社タイムズコーポレーション、㈱新潟眼鏡院
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今回は、特別講演「網膜変性疾患の治療の展望」の講演要旨と、参加者から寄せられた感想をお届けします。
特別講演 「網膜変性疾患の治療の展望」
慶應義塾大学医学部眼科学教室 網膜細胞生物学研究室
小沢洋子
【講演要旨】
網膜変性疾患に対する治療は、古くから課題とされているにもかかわらず、未だに広く普及した方法はないのが実情である。その一つの理由は、網膜は、脳とともに中枢神経系の一部であるためであろう。20世紀初頭にノーベル生理学・医学賞を取ったカハール博士は、“成体(大人の)哺乳類の中枢神経系は損傷を受けると二度と再生しない”と述べた。確かに、中枢神経系では組織の再構築は簡単には行われない。
しかし、21世紀に入ると、この言葉が必ずしも真実ではないことが明らかになってきた。成体の脳や網膜内にも、刺激に反応して増殖する細胞があることが、報告されるようになってきた。とはいえ、疾患により広く障害された部分を補てんするほどの細胞が、次々と生まれるというわけではない。すぐに医療に応用することができるわけではなかった。しかしながら、このような生物学の発展は、もしかしたら、研究を重ねればこれまでありえないと思っていたような新しい方法を生み出せるかもしれないという、可能性を信じる心を、我々に持たせてくれることになっていると思う。
さて、もともと網膜にある細胞を、網膜の中で増殖させて網膜を再構築するのが細胞数の関係から難しいのであれば、移植手術をしてはどうか、と考えるのは順当であろう。これまでには、胎児網膜細胞、ES細胞、iPS細胞などを利用した研究が動物実験で行われてきた。元来、網膜は視細胞などの神経細胞と、神経由来であるが成体になってからは視細胞のサポート細胞としての性格を持つ網膜色素上皮細胞がある。視細胞に関する移植研究では、2006年のマウスの研究で、移植した胎児の視細胞がきれいに組織に入り込み生着したことを喜んだことは記憶に新しい。そのうえ、最近では、移植した神経細胞が、網膜内でシナプスネットワークを作り、ホスト網膜とつながりうることが確認されるようになった。ただし、まだ、機能回復を得るには至っておらず、疾患治療を目標にできるほどの大きな効果は得られていない。現時点ではこれを医療に持ってくるにはまだまだ距離があり、今後も長年にわたる研究が必要であろう。
一方、網膜色素上皮細胞に関しては、ES細胞やiPS細胞等を用いた移植への道が、一歩一歩進められている。試みに、ごく少数のヒトへの移植が行われたという報告が見られるようになってきた。しかし、多くのヒトが、安全性と確実性を持って治療されるには、まだまだ越えなければいけないハードルが存在するであろうことは、想像に難くない。
このような中で、iPS細胞の開発は、移植以外の治療の可能性も生み出したといえよう。それは、神経保護治療である。神経保護治療に関しては、すでに国内外でも網膜色素変性症に対して治験が行われている。UF-021(オキュセバ)といった薬剤や毛様体神経栄養因子(ciliary neurotrophic factor; CNTF)が、試験的に投与された。これらの薬剤が本格的に使われるようになるには、さらなる注意深い研究が必要である。また、この2剤だけですべてが解決できるとは限らないので、今後も研究の幅を広げる必要がある。
iPS細胞は、この神経保護治療の研究に、大きな貢献をする可能性を持つと考えられる。特に遺伝子異常による疾患の場合、大きな威力を持つだろう。ヒト疾患の研究は、その臓器の検体を元に研究を進めたいところである。しかし、網膜を採取することはその部分が見えなくなることにつながることから、採取するわけにはいかない。また、がん細胞などと異なり、少量取り出したものをどんどん増殖させるというわけにもいかない。しかし、患者遺伝子異常を持つiPS細胞を患者皮膚細胞などから樹立(作成)し、それを網膜細胞に分化誘導させれば、患者遺伝子異常を持つ網膜細胞を、継続的に培養することができ、何回も研究することに使えるということになる。この方法により患者遺伝子異常を持つ網膜細胞を得ることは、疾患メカニズムを解析したり、候補薬剤のスクリーニングをしたり、といった研究を進める第一歩といえよう。我々の研究室でも、実際に網膜色素変性症患者の皮膚細胞(網膜細胞ではなく)を採取させていただき、これを用いた研究を開始した。研究成果が蓄積されることで、臨床現場に還元できるとよいと、心から願う。薬剤の候補が見つかったらすぐに臨床に応用できるわけではないが、一歩一歩、堅実に進みたいものだと思う。
多くの研究結果が蓄積されることで多くの効果的な薬剤が生まれ、遺伝子診断の確実性も増し、法的整備も進められた暁には(これは何十年も先のことになるかもしれないが)、診断がついたらすぐにでも神経保護治療を開始し、生活に不都合のあるような視野異常を生じないような予防をしたいものである。遺伝子異常があっても網膜異常を生じない世の中が来ることが理想であり、その実現を切に願う。
【略歴】
1992年 慶應義塾大学医学部卒業 眼科学教室入局
1994年 佐野厚生総合病院 出向
1997年 慶應義塾大学医学部眼科学教室 助手
1998年 東京都済生会中央病院 出向
2000年 杏林大学医学部 臨床病理学教室 国内留学
2001年 慶應義塾大学医学部 生理学教室 国内留学
2004年 4月 川崎市立川崎病院 出向 医長
2004年10月 慶應義塾大学医学部 生理学教室 助手
2005年 4月 慶應義塾大学医学部眼科学教室 助手
2008年10月 慶應義塾大学医学部眼科学教室 専任講師
2009年 4月 網膜細胞生物学研究室 チーフ (兼任)
【参加者からの感想】到着順
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(眼科医;大学勤務、東京)
これほどまでに感動的な講演は今まで聞いたことはなかった。内容はもとより、眼科医、ロービジョン者双方に満足させる講演は素晴らしかった。研究内容などは足元にも及ばないが、講演の方法など自分にとって勉強になることだった。
(当事者;新潟県)
網膜色素変性症の治療法・予防法が確立し、このような問題も、昔話にできるようになる日が、1日も早く来ることを、切望いたしております。
(眼科医;大学勤務、東北)
網膜色素変性は確立した治療法がありませんが、これまでの試み、今行われている(研究されている)治療法などを非常に分かりやすくお話しされたと思います。ウイルスを利用した遺伝子治療、アールテックウエノの緑内障薬による神経保護、細胞移植など小沢先生のことばでわかりやすくお話しされていたと思います。今こころみられていることがなぜ効果があるのかわからないと継続は難しいという言葉は印象的でした。また病初期から継続して使用できる治療が可能なものを考慮しているなど臨床研究者としてのお考えもわかりました。
(機器展示、愛知県)
網膜変性疾患の治療については、医療の進化を感じ、希望あふれる内容であったのではなかと思います。その中でも、私自身は小沢先生の、今以上悪くしないための投薬治療の研究は、今まで移植など完全治療を目指す方向しか知らなかった自分にとって興味深い内容でした。
(当事者、千葉県)
最先端の大変難しいお話を、医師だけではなく、一般の患者にも理解できる言葉でお話しいただいた小沢先生のご講演に感動しました。小沢先生の研究が、実際に臨床に生かされるまでには、まだ30年近い期間が必要とのことでしたが、この30年という期間を遠く感じるか、近く感じるかは人によっても違うと思います。私は小沢先生の研究が臨床に生かされる日を楽しみにしつつ、日々の生活を楽しみたいと思いました。
(眼科医;病院勤務、四国)
小沢先生のご講演で一番印象的だったのは「20~30年後には、どんなタイプの網膜変性疾患に対しても治療薬はできているだろう」という力強いお言葉でした。遺伝性疾患の場合、子や孫への影響が心配されますが「そんな心配は要らないですよ。今を大切に生きましょう」と希望的に患者さんとお話しできることは、精神的強みになるからです。本日受診された網膜色素変性症の患者さんにそのようにお伝えしたら、涙しておられました。小沢先生、患者さんのためにもよろしくお願いいたします。
(教育関係者;大学勤務、関東)
医学的知識が不足している私には,少し難しかったですが,研究の歴史的経緯など初めて聞く内容ばかりで大変興味深く拝聴しました。再生医療が最近マスコミでよく取り上げられますが,それ以前からの医療関係者の熱い情熱を感じました。
(薬品メーカー勤務、新潟)
非常に判り易く講演頂きまして感謝しております。一昔では考えられない方法論(細胞から目の組織を作る)で色変の患者さんに夢と希望を持たせてくれる講演でした。また、大学院で自身が学んだ知識がこのようなところで役に立つとは想像もつきませんでした。また、自分の大学の先輩がiPS細胞について本を出版しており、判り易く記載してありますが、それを上回る講演であったことに感謝しております。治療薬の内容、すごく気になります。。。
(当事者、長野県)
網膜色素変性症は治らないということに対し、再生医療という新しい分野が登場したことは大変心強いことと思います。ips細胞の話題はマスコミでしか知らなかったのですが、研究は着実に進んでいることがよくわかり大変心強く感じました。
(薬品メーカー勤務、新潟)
難しい内容の話になると思っていましたが、とても分かりやすい講演でした。ES細胞やiPS細胞の研究がこんなにも進んでいるとは知りませんでした。また、イモリは網膜細胞が復活することや、すでにマウスでは網膜細胞の移植・生着に成功していることなど、驚かされてしまう内容の話ばかりでとても勉強になりました。開発に成功しても治験が長期になるため、まだまだ時間もかかると思いますが、網膜色素変性症の治療薬に明るい兆しがあるように感じました。
(眼科医;病院勤務、東北)
研究があり、新しい治療法、薬剤がつくられていくのは漠然とは知っていましたが、実際の現場の生の声を聞く事ができ、勉強になりました。医学は臨床だけじゃないと今まで以上に知る事ができました。
(当事者;自営業、新潟県)
小沢先生の考える将来の最終的な網膜色素変性症の治療の理想は、第一に出生時、学童期の遺伝子診断、第二に早期からの神経保護治療を行う、つまり、遺伝子に異常が見つかっても網膜異常がでない治療をおこなうことです。
しかし、ここに至るには治験の難しさなど、まだまだ多くの問題をクリアしなければならず、研究開発が完成するまでには10年単位の時間が必要だというお話でした。
小沢先生のお話を聴いて、先端医学の現場では当初は大きな希望であった再生医療から、現在はもっと現実的な発症を押さえる薬の開発へと、治療に対する考え方もシフトしてきており、それは基礎研究の分野に臨床を経験した先生方の考え方が反映された結果であるということが分かりました。
同時に世界を相手にシノギを削る研究者の凄味も感じました。
(福祉人間工学専門;大学勤務、新潟)
特別講演は、網膜変性疾患に対する再生医療の最前線を垣間みることができた。医学の最先端の講演はいつも魅力的だが、小沢先生の講演は特に分かりやすく、魅力的だった。難問は山積みだろうが、何年かかろうとも一歩一歩着実に進展させてもらいたいと思った。もし仮にうまく行かなかったとしても、その礎の上にいつかは大きな花が咲くと信じている。研究とはそういうものだ。
(当事者、新潟市)
「神経は損傷すると再生しない」というが「イモリ」の網膜は再生されるという。近年ES細胞、ips細胞の活用が話題になり大きな期待もかかっている。保護薬の開発、遺伝子治療は是非にも必要。そのためには横断的学界組織のつなぐ組織をつくるなど考えてもよいのではないかとの具体的な提案も。専門的な難しい問題に先が見えるようなお話もあり期待されます。
(眼科医;大学勤務、中国地方)
「思い込んだら信じて突き進む」という強い姿勢を感じました。ご研究に真摯に取り組まれる態度と聡明なご発言に尊敬の念を抱きました。「ここに研究者魂を見た」という感動がありました。
(当事者、新潟市)
網膜変性疾患に対する治療法(特に網膜色素変性症)について期待される網膜再生の研究が現在どの段階まで進められてきているのか?問題点などあらゆる角度から研究がチームで行われている現状が慶応大の小澤先生(9日)や理化学研究所の高橋先生(10日)のご講演でとても分かりやすく聴講できました。そして、長年この目の病気で苦しんできた多くの患者(私も含めて)に一日も早く治療法を確立させたいという熱い情熱と感動と勇気を与えていただきました。日本にはこんな素晴らしい先生方が日々、壁にぶつかることが沢山あっても、あきらめることなく困難に立ち向かってチームで協力し合いながら「患者さんのために」という気持ちで取り組んでいらっしゃるということがとてもよく伝わってきました。
(眼科医;病院勤務、新潟市)
「神経は損傷を受けると再生しない」というCajal(1928)の呪縛から抜け出しつつある現在の状況を教えてくださいました。本当は難しいお話を素人にも判りやすく語って頂き流石でした。遺伝子治療や薬物治療は、多施設での研究が必要。iPS細胞の研究、薬の開発に適している。神経保護治療は、長期観察を要する、根気が必要。拠り所が判っていることが後ろ盾となる、、、ナルホド・ナルホドと合点しながら拝聴しました。
『新潟ロービジョン研究会2012』 (3)「告知」
基調講演2
演題:「明日へつながる告知」
講師:小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
【講演要旨】
1)はじめに
病名または障害名の告知は、患者にとっても医師にとっても、辛いものである。そもそも疾患や障害には、1)苦痛や経済、社会的不利益 2)将来像の変更と未知の今後への不安 3)潜在する偏見や拒否感などが内在し、告知はその現実に向き合わせる事でもある。告知アンケート調査などでも「とても絶望させられた」「受け入れられない」など悲観的な感想が並ぶ。また、重大な説明も充分に時間がかけられず行われている事実もある。この状況の中で半数以上の患者が告知に対する不満をもっている。しかし、その不満の大部分は配慮不足、説明不足、差別的態度等であり、私たち医療従事者の伝え方を振り返ってみる必要がある。一方、気持ちが立ち直るきっかけをみると、親の会を含む当事者同士の支え合いが大部分をしめる。こういった事実から、明日につながる告知とは、単に病状や障害の現状の理解をすすめるだけでなく、寄り添う気持ちや福祉情報など幅広い視点が必要と思われる。
2)福岡市の取り組み
福岡市では小児神経科、新生児科、保健福祉センターなどとのネットワークの元に、療育センターで最終的な障害の認定、療育の提供、家族支援を実施。小児科医と臨床心理士、ケースワーカーなど多職種のカンファレンスのもとに障害告知を行っている。そこでは、家族の精神的不安やサポート体制などに考慮しながら説明し、あわせて患者の会をはじめとする情報提供を実施している。また、より正確な告知によって適切な教育への選択につなげるために、障害児施設の巡回小児科診察会を実施している。
そこで私が心がけていることは、①診断を伝える際にはなるべくご家族で来ていただく、②家庭環境や精神的状況を把握しておく、③伝える場面ではわかりやすい説明につとめ根拠となる検査も示す 、④診断が確定していない場合でも、考えられる可能性を伝える、⑤一度で多くを伝えるのではなく、困難な場合には数回に分けて伝える、⑥今後に向けての実際的な情報(合併症や起こうるトラブル、当事者や親の会などの情報)もあわせて伝える、⑦本人、家族の心情にも心を配る事などである。患者の立場からも、「的確に伝えて欲しい」「将来の見通しや具体的情報が欲しい」との要望もあり、これらは医師の役割と考えている。
3)伝えたいメッセージ
私自身22年前、息子が3歳の時に視力障害の事実を病院で告知された。そのときは家族の今後の生活、息子の将来への不安、悲しみなど様々な感情が入り交じり、涙をこらえることができなかった。視界不良のまま運転し、息子を助手席に載せたまま、追突事故を起こしてしまった。告知のもたらす衝撃は覚悟してはいたものの、想像以上に大きかった。しかし、その後訓練を開始し、支えてくれる人、優しい人、困難を乗り越えた人々と多くの出会いがあり、人生を豊かにする歌や書籍があった。
告知が新たな人生の扉を開けたのだと思う。そういった経験をした一人の人間として、かつ一人の専門的な職業の人間として、また目の前にいる人の困難な局面に、偶然にも出会った人として、伝えたいメッセージを添えるようにしている。それは、「病気や障害があっても、そこに一つの人生があり、意味がある。今の一つ一つの積み重ねは、次につながっていき、困難に応じた成長がある。そして決して一人ではないということ、新たな出会いがきっとあるということ」である。
これは、私が一人の視覚障害児を育てた中で経験した事柄でもあり、現在の仕事を通じて、当初弱々しく立ち直れるか心配された保護者が、時間を重ね逞しく幅広い価値観をもった親へと変化していくことを目の当たりにしている実感から得たものでもある。そして、告知をスタートに、この困難を越えていってくれることを心から願っている。
4)最後に
私が勤務しているあゆみ学園では、ご家族に向けて少しでも心の支えとなるものを発信したいと思い、心温まるエピソードや励まされる歌詞や文章を綴り、「ゆいゆい(結い結い)メッセージ」としてお届けしている。その中から私が強く感銘を受け、利用者に紹介している二つの詩をご紹介したい。
「サフラン~悲しみの意味 冬があり夏があり、昼と夜があり、晴れた日と雨の日があって一つの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって私がわたしになっていく ―星野 富弘―」
「つよさ つよいってことはまけないことじゃない つよいってことはなかないことじゃない つよいってことはまけてもあきらめないこと つよいってことはないてもまたわらえること ―濵津 息吹-」
「告知」は診断や症状、今後の見通しなどの情報の伝達である。そこから一歩進んだ「明日につながる告知」とは、「目前の人が現実を直視し、新たな夢や希望を紡ぎ、着実な明日への一歩を刻んでいってくれることを心から願う気持ち」から自ずと生まれるものかもしれない。
【略歴】
1983年 島根医科大学(現島根大学医学部)卒業
九州大学病院 小児科勤務
1984年 福岡市立こども病院勤務
1985年 東国東地域広域国保総合病院 小児科勤務
1986年 福岡市立子ども病院勤務
1987年 長男(視覚障害児)出産を機に育児・療育に専念
1994年 福岡市立心身障害福祉センター 小児科に復職
2002年 福岡市立肢体不自由児通園施設あゆみ学園 園長就任
児童精神神経学会認定医、小児科医会認定「こどものこころの相談医」、福岡市児童発達支援センター指導医、福岡市就学相談委員、福岡市特別支援教育サポーター委員、特別支援教育放課後対策支援事業相談委員
【後 記】
小児科医で福岡市立肢体不自由児通園施設あゆみ学園園長の小川弓子先生による告知とは何か、事実を受け入れ、かつ、病や障害と折り合いながら生きるための告知とはどういうものか、どうすればよい告知になるのかを、ダウン症患者アンケートや福岡市における障害告知の状況を示しながら、小川先生ご自身の経験も交えてご講演いただきました。
「告知が新しいスタートになるように」、これですね!! 患者の不満の一つは、医療者の態度です。反省もありますが、医者は打たれ強いことも必要かもしれません。告知した後のケアが大事、未受容の期間は長い、前向き・現実的対応を、家族を支える、「はっきり、素直に、曖昧でなく」、説明は同情や気休めでなく、「あなたは、大切な一人の人、決して一人でない、どんな人生にも価値がある」、「生まれてきて、おめでとう!!」。経験から発した言葉には、重みがありました。
シンポジウム2『網膜色素変性の病名告知』 座長報告
座長 佐渡 一成 (さど眼科、仙台市)、張替 涼子 (新潟大学)
竹熊 有可 (旧姓;小野塚 JRPS初代会長、新潟市)
「こんな告知をしてほしい」
守本 典子 (眼科医:岡山大学)
「眼科医はどのような告知を目指し、心がけるべきか」
園 順一 (JRPS2代目副会長 京都市)
「家族からの告知~環境と時期~」
コメンテーター
小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
無責任な「告知」は患者さんに深刻な悪影響を与えます。にも関わらず、眼科医が網膜色素変性の患者さんに対して治療法がない、遺伝性である、進行性で失明する可能性があるの「3点セット」と揶揄されている安易な告知を行っている例が未だに散見されます。外来の3分診療の中、突然このような「告知」をされたら患者さんはたまりません。ショックと混乱で絶望してしまいかねないのです。
本症の告知に関しては、これまでにも1)「眼科医にとってロービジョン対策以前の課題である(安達恵美子)」、2)「提供するデータを研究するのみではなく、得られた医学情報の伝達方法についても検討し、医療技術の一部として教育や研鑽に努める必要がある(岩田文乃)」などの考察がありましたが、臨床の現場に浸透しているといえる状態ではなく、眼科医の人間性も重要ですがそれだけでは不十分な気がしていました。
シンポジウムの前には、障害児・障害を持つ親に寄り添いながら、よりよい告知のためのシステム作りに情熱を傾けていらっしゃる小川弓子先生の基調講演がありました。小川先生は、「医師は自分自身の人間性を振り返り日々研鑽が求められる」ともおっしゃられていました。
シンポジウムでは3人のシンポジストにご講演いただきました。
1.当事者である竹熊さんは、16歳のときに自分と母親が別々に告知を受けたこと。自分に対する告知は見えにくくなることを差し迫ったものと感じさせない配慮があったが、母親は「3点セット」の告知を受けたと思われ、その後の嘆きが深かったこと。親の気持ちを慮るあまり、視覚障害者として生きていく選択ができなかったこと。今では三療の仕事に大きなやりがいを感じているが、ここまでくるのに25年もかかったことを話されました。人生の早い時期に告知されたが、病気の進行の予測がつかないために人生設計が難しかった面もあり、可能なら「何年後に視力が0.1くらいになる」といった予測を伝えてもらえると役にたつと思うと話されました。
2.眼科医である守本先生は、希望に繋がるプラスの情報を多く示すことでショックを最小限に抑え、できるだけ平常心を保てる告知を目標とし、そのために心がけるポイントを話されました。治療法がない→治療に通わなくていい、進行性→事前に教わってゆっくり準備できる、遺伝性→誰のせいでもないなど、言い方を工夫する。光、栄養、規則正しい生活などで行動を制限しない(逆は過去の行為を後悔して苦しみかねない)。QOLの高い視覚障害者の生活を伝える。患者交流会なども知らせ、告知から生じがちな孤独感の軽減を図る。話しやすい主治医と思ってもらい、以後も質問に応じられることを伝えておく、などでした。
3.20歳を過ぎたころに同病の父親から告知を受けた経験を持つ園さんは、JRPS主催の医療相談会で、我が子や、孫に遺伝しているかを気にした質問が多いことから、無症状の子供に診断を受けさせることの是非について発言されました。親が同病であるがゆえに子供がどうであるかを知るために眼科を受診する例が多いこと。小児期に診断を受けることでその後の人生において結婚や障害年金申請などさまざまな局面で不利益をこうむる可能性があることを知っておくべきであること。親の納得のためだけに診断を求めてはならないこと。一方、医師は、無症状の子供の診断を求める患者に対して、事前にこうした問題があることを助言することも必要なのではないかとも話されました。
3人のご講演の後に、意見交換を行ったところ、多くの真剣な発言がありました。視点ごとに発言を整理してみました。
【告知のショック】
・3点セットの告知はやはりショックが大きかった。しかし告知自体は受けて良かった。告知があったことで情報を得ようと努力することができた。:当事者
・告知はショックだったが、大手術の直後にRPの告知をすることは心の負担を増やすことになると考えて避けてくれた初診医の配慮が有り難くその後ずっと自分の心を奮い立たせるバネになっている。:当事者
・昔、友人が眼疾患の告知後に自殺した。告知と同時に前向きな情報が知らされていれば友人は死ななくてすんだはずだと思う。患者が残りの才能で何ができるか、を考えた上での告知が必要なのではないか。:眼科医
【告知すべきかどうか】
・情報は患者のものである。:当事者・眼科医 双方から
・告知の職責が医師にはある。:眼科医
・告知をするかどうかでなく、どのように伝えるかが大事ではないか。:眼科医
【告知の時期】
・確定診断がついた時点での告知が長期的にみて医師・患者双方にとってベストである。:当事者(支援者)
・思春期の告知は難しい面がある。親の対応についても助言が必要。:当事者・眼科医 双方から
【遺伝の情報について】
・いろいろ考えたが、子供を産んでよかった。:当事者
・子供を産むかどうかの選択は正しい情報を持ったうえでおこなうべきで告知は必要。:当事者
・遺伝子異常は誰でもかならず持っているものであることは伝えたほうが良い。:眼科医
・遺伝の問題はデリケートであり、きちんとした相談のできるところに紹介したほうがよい。:眼科医
【どのように伝えるべきか】
・3点セットがダメなのははっきりしている。:眼科医
・あいまいにしていることで次の段階へのスタートが切れない人がいる。:当事者(支援者)
・マイナスのコメントがすごい生活制限に繋がってしまう。:眼科医
・眼科医として、将来の夢を一緒に考えてゆく姿勢が必要。:眼科医
・障害があったらどうしたらよいかという情報が今はたくさんある。見えなくなっても一生読み書きできる。こういった情報を一緒に伝えるべき。:眼科医
「少なくとも医師も告知について悩んでいるということを患者さんにわかって頂けたことは収穫であろう(眼科医)」というコメントもありました。今回のシンポジウムだけで結論の出るような問題ではありませんが、当事者、眼科医がそれぞれの意見をお互いに共有できた、非常に良い機会になりました。
【後 記】
フロアーから、「告知をするかどうかでなく、どのように伝えるかが大事ではないか」、「医療者側には、遺伝カウンセリングの知識が必要」、「ピア・カウンセリングは効果あり」というコメントを頂きました。このシンポジウムは結論のないものだと思いますが、私は少なくても医師も告知について悩んでいるということを患者さんにわかって頂けたことは収穫かなと考えます。また患者さんばかりでなく、ストレスの多い医師に対するケアも必要と感じました。
『新潟ロービジョン研究会2012』 (2) ITの発展と視覚代行技術
基調講演1〜ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-
渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
【講演要旨】
今でこそ日常的に使われているスクリーンリーダですが、これらが当たり前になるまでには要素技術開発の長い歴史と、先輩視覚障害者たちの多大なる苦労があったことを知ってもらいたかったというのが、技術者の立場としての渡辺が講演に込めた思いです。その講演の中では、音声合成の発達、6点漢字ワープロの開発、MS-DOSのスクリーンリーダVDMの開発という3つのテーマについてお話しました。それぞれのテーマごとに内容をまとめます。
(1)音声合成の発達
1791年、ハンガリーの発明家フォン・ケンペレンが開発した音声合成器は、人が声を出す仕組みをふいごと共鳴室からなる機械で真似たものでした。片手でふいごを動かして空気を送り、これがリードをふるわせ共鳴室の中で母音のような音になり、音の出口の開け閉めの工夫で子音を作ります。それから1世紀半を経た1939年、機械的な部品を全くなくし、電気回路のみで動作する音声合成装置VODERが開発されました。操作者は、点字キーボードに似たキーを打鍵して音素を選び、足下のペダルで声に高低をつけます。
この電気回路が集積回路に納められて、弁当箱サイズのケースに入って、外付け音声合成装置として市販されるようになったのが1980年代のこと。人の操作が不要になり、テキストさえ入力すればどんな文章でも発声できるようになりました。これを利用して、視覚障害者のための音声読み上げソフトウェアが日米それぞれで開発される時代を迎えたのです。その間、合成音声の音質も改善されてきました。抑揚がなく単調でいわゆる「機械的」だった音声が、文脈に応じて抑揚が付けられるようになり、今や人と機械の区別が付かないほどのレベルに達しています。高品質な音声は、今のスクリーンリーダにも使われています。
(2)6点漢字ワープロの開発
長谷川貞夫さん(元筑波大学附属盲学校教諭)には、二つの願いがありました。一つは点字印刷物を手軽に作ること、そしてもう一つは漢字仮名交じり文章の墨字を自分で書くことです。どちらも、情報の入手と発信を晴眼者と同じようにできないもどかしさに端を発しています。これらの願いが絵空事ではなく、実現可能なのではと思えるようになったきっかけは、1966年の新聞社見学でした。そこでは、もはや活字を手作業で並べてはおらず、キーパンチャーで文字を打ってコード化し、そのコードを自動植字鋳造機に入力して活字を作り、印刷をしていました。視覚障害者は手元を見ないでもキーを打つことができます。ならば、視覚障害者が漢字を入力するための仕組み(これが後に6点漢字となる)を作れば、自ら印刷できるのではないか。更に、パンチャーで打った普通文字のコードを点字に読み下すプログラムと点字印刷装置があれば、点字印刷物を複製できるのではないか。
そう思いついた長谷川さんは、コンピュータを使える場所や、プログラムができる人、印刷会社のコード、点字印刷装置などを求めて西へ東へ駆け回り、1973年に漢字仮名交じり文をコード化した紙テープから点字を印刷する実験に成功しました。翌1974年には6点入力した点字コードから漢字仮名交じり文を墨字印刷する実験にも成功しました。時代は下って1981年、かつて大型計算機で行ったことが、「パソコン」でできるようになり、6点漢字ワープロが完成しました。これに触発された高知盲学校の先生らが、地元のメーカと共同で開発したのが日本初の音声点字ワープロAOKです。これを製造・販売する高知システム開発は、PC-Talkerをはじめとするた視覚障害者用製品を多数世に送り出しています。
(3)MS-DOSのスクリーンリーダVDMの開発
斎藤正夫さん(アクセステクノロジー社長)は、真空管、トランジスタ、ICを自らいじるほどの機械好きでした。そして、人に頼るのがきらいな性格でした。1980年代初期にパソコンが広まりはじめると、純粋にこれを使いたいだけでなく、これで自分に役立つものを作れないかと考えました。しかし、パソコンを使おうにも、スクリーンリーダがまだない時代のこと。斎藤さんは、プログラムを頭の中で考え、これを全くフィードバックなしでパソコンに打ち込みました。うまく動いたら思った通りの音が出るが、一箇所でも間違っていたら反応しない。これを繰り返して、モールス符号で画面上の文字を音で出力するプログラムを作り上げました。当初はBASIC言語を使いましたが、それではほかのプログラムを音で出力してくれません。
そこで、マシン語によるプログラミングに取り組みました。このときも試行錯誤の連続、適当に命令を打っては結果を見て動作を推測しました。そしてパソコン購入から5ヶ月目の1983年12月、キーを打ったら即座に音が出るプログラムが完成したのです。その後、斎藤さんは、知人からの依頼に応じて、様々なパソコン機種と音声合成器へ対応したプログラムを次々と開発しました。このときプログラムに付けたファイル名がVDMです。VD は画面を音声出力するVoice Display、そしてMはマシン語に由来します。MS-DOSのスクリーンリーダVDM100は1987年11月~12月頃に完成しました。視覚障害者自らが開発し、改良の依頼に即座に対応するVDM100はユーザの支持を得て、広く普及しました。Windows環境においては、VDM-PC-Talkerシリーズとして使い続けられています。
【略 歴】 渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
1993年 北海道大学大学院生体工学専攻修了
同年 水産庁水産工学研究所研究員
1994年 日本障害者雇用促進協会(現、高齢・障害・求職者雇用支援機構)
障害者職業総合センター研究員
2001年 国立特殊教育総合研究所(現在は、国立特別支援教育総合研究所)
研究員~主任研究員
2009年 新潟大学工学部福祉人間工学科准教授
視覚障害者を支援する機器・ソフトウェア等として、スクリーンリーダ(95Reader)、漢字の詳細読み(田町読み)、視覚障害者自身が描画可能な触覚ディスプレイ(mimizu)、点字点間隔可変印刷ソフトウェア、触地図自動作成システム(tmacs)などを開発してきた。調査研究として、障害者の就労支援、障害のある学生の就学支援、拡大教科書の普及などに従事してきた。
シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』 座長報告
座長:守本 典子 (岡山大学) 野田 知子 (東京医大)
渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
基調講演1〜ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-
三宅 琢 (眼科医:名古屋市)
ロービジョンケアにおけるiPadの活用
園 順一 (京都福祉情報ネットワーク代表 京都市)
視覚障害者にとってのICT~今の私があるのはパソコンのおかげ~
シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』は、ITを中心に、「作り手」(渡辺)、「作り手とユーザーの架け橋」(三宅)、「ユーザー」(園)がそれぞれにお話ししてくれました。シンポジウムの内容を座長報告として、お届けします。
渡辺先生の基調講演を受けて、お2人の講演と2題の質疑応答がありました。なお、ITはInformation Technologyの略で情報技術ですが、最近ではこれによるコミュニケーション(Communication)の要素を重要と考えることからICT(Information and Communication Technology)すなわち情報通信技術と呼ぶことの方が増えているそうです(それで園さんは抄録でもご講演でもこの略語の方を使われました)。当シンポジウムに関連しては、この2語を意味と思ってお読みください。
三宅先生はApple社製の多機能電子端末であるiPadを用いた新しいロービジョンケアの可能性についてご講演されました。近年のバージョンアップにより音声入力や音声読み上げ機能が改良され、音声メールや地図のガイドなど、さらに使いやすくなったそうです。また、先生は2011年の日本臨床眼科学会でiPad本体の背面カメラを利用した簡易拡大読書器としての有用性を報告されていますが、カメラの解像度の向上、およびiPadを外出先で使用する際の固定台の開発などにより、さらに実用性が高くなったようでした。今回のご講演ではいくつかの便利なiPadの使い方をご紹介くださいましたが、電子データの原稿を最適な文字サイズとレイアウトで表示される機能は好評で、拡大読書器でしばしば困難とされる改行の問題もかなり解決されるのではないかと考えられました。
このような背景を受けて、三宅先生はiPad関連の情報および視覚障害者向けの情報発信を目的とした情報発信サイトGift Handsを設立され、iPadを活用するための様々なアプリケーションの紹介や視覚障害者向けの各施設の案内等の情報を発信されています。その他に、iPadの直営店であるアップルストア(銀座)ほか多施設で、視覚障害者に向けたiPadの活用方法の体験セミナーを行うことで、より多くの視覚障害者にとってiPadが現実的なロービジョンエイドとして機能するかを実体験できるセミナーを企画されており、これらの活動の一部を報告されました。ご講演の後、固定台にiPadを設置してのデモンストレーションをされ、盛況でした。iPadの注目度がうかがえました。
園さんはお若い頃からの興味がお仕事にも結びつき、システムエンジニアとして生計を立てられました。パソコンを使いこなして情報を収集、発信し、自身の日常生活に役立てるばかりか、ロービジョン者のためのパソコン普及活動や機器展示会のお世話などもして来られました。一般のパソコン教室ではキーボード中心の操作方法を教えられないため、ロービジョン者を対象とした教室を開設し、指導者の養成もされたそうです。機器展示会への集客力は大変なものだった、とのことでした。また、ロービジョン者向けの機器の開発でも当事者としての提案をされ、例えば音声で電話をかけられるピッポッパロットができました。途中、園さんが日常、愛用されているスマートフォンや使い勝手を試してみられている iPadなどを取り出して、一部を披露されました。最後に、「墨字での文字処理が困難なロービジョン者にとって、パソコンほど便利な道具はなく、自分はICTの時代になったからこそしたいことができた」と括られました。
討論では、機器メーカーの方からの「音声パソコンの開発や普及を頑張って来たが、この調子ではパソコンはiPadに取って代わられるのか」というご質問に対して、渡辺先生は「機能による使い分けをすればよくそれぞれが有用」、三宅先生も「iPadは携帯性に優れ、場所を選ばず使えるという点て有益だがパソコンにはパソコンの良さがある」、園さんも「iPadではできないことがまだまだあり、多くの量をこなす仕事ではパソコンが欠かせない」という風に、いずれも両者がぞれぞれの特徴を生かした形で生き残り、ユーザーは便利に使い分ければいい、というお答えでした。また、主催された安藤先生が「今回、講師が開発、普及、ユーザーとバランスよく3者揃った。今後、どのような展開を考えておられるかといった展望を一言ずつうかがいたい」と言われたのに対して、お3人とも現在の活動を継続し、より発展させていきたい旨のご回答をなさり、頼もしく思いました。
【後 記】
ITを中心に、「作り手」「作り手とユーザーの架け橋」「ユーザー」がそれぞれにお話ししてくれました。スクリーンリーダーの開発に携わった渡辺先生の音声合成器の開発、大きな驚きでした。実演は記憶に残りました。
三宅先生は、「視力じゃない、記憶だ」「記憶 情報 想い」金言を取り混ぜた印象に残るプレゼンテーションでした。
園さんの(失明に向かう自分をワクワクしていた)と言うコメント、毎回ですが凄いなと思いました。
作り手/架け橋はユーザーのニーズを如何に聞き出す(探り出す)かがポイントだと感じました。またユーザーは如何に思いを作り手に伝えるかが大事と思います。ただ、製品となると採算がとれるのかが企業側としては欠かせない点ですので、現在の現物支給の福祉行政そのものが問われなくてはなりません。
『新潟ロービジョン研究会2012』
日時:2012年6月9日(土)13時15分~18時50分
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
1.シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』
座長:守本 典子 (岡山大学) 野田 知子 (東京医大)
1)基調講演 (50分)
演題:「 ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-」
講師:渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
2)私のIT利用法 (50分)
「ロービジョンケアにおけるiPadの活用」
三宅 琢 (眼科医:名古屋市)
「視覚障害者にとってのICT~今の私があるのはパソコンのおかげ~」
園 順一 (京都福祉情報ネットワーク代表 京都市)
『新潟ロービジョン研究会2012』 (1)「網膜変性疾患の治療の展望」
特別講演 小沢 洋子
慶應義塾大学医学部眼科学教室 網膜細胞生物学研究室
「網膜変性疾患の治療の展望」
【講演要旨】
網膜変性疾患に対する治療は、古くから課題とされているにもかかわらず、未だに広く普及した方法はないのが実情である。その一つの理由は、網膜は、脳とともに中枢神経系の一部であるためであろう。20世紀初頭にノーベル生理学・医学賞を取ったカハール博士は、“成体(大人の)哺乳類の中枢神経系は損傷を受けると二度と再生しない”と述べた。確かに、中枢神経系では組織の再構築は簡単には行われない。
しかし、21世紀に入ると、この言葉が必ずしも真実ではないことが明らかになってきた。成体の脳や網膜内にも、刺激に反応して増殖する細胞があることが、報告されるようになってきた。とはいえ、疾患により広く障害された部分を補てんするほどの細胞が、次々と生まれるというわけではない。すぐに医療に応用することができるわけではなかった。しかしながら、このような生物学の発展は、もしかしたら、研究を重ねればこれまでありえないと思っていたような新しい方法を生み出せるかもしれないという、可能性を信じる心を、我々に持たせてくれることになっていると思う。
さて、もともと網膜にある細胞を、網膜の中で増殖させて網膜を再構築するのが細胞数の関係から難しいのであれば、移植手術をしてはどうか、と考えるのは順当であろう。これまでには、胎児網膜細胞、ES細胞、iPS細胞などを利用した研究が動物実験で行われてきた。元来、網膜は視細胞などの神経細胞と、神経由来であるが成体になってからは視細胞のサポート細胞としての性格を持つ網膜色素上皮細胞がある。
視細胞に関する移植研究では、2006年のマウスの研究で、移植した胎児の視細胞がきれいに組織に入り込み生着したことを喜んだことは記憶に新しい。そのうえ、最近では、移植した神経細胞が、網膜内でシナプスネットワークを作り、ホスト網膜とつながりうることが確認されるようになった。ただし、まだ、機能回復を得るには至っておらず、疾患治療を目標にできるほどの大きな効果は得られていない。現時点ではこれを医療に持ってくるにはまだまだ距離があり、今後も長年にわたる研究が必要であろう。
一方、網膜色素上皮細胞に関しては、ES細胞やiPS細胞等を用いた移植への道が、一歩一歩進められている。試みに、ごく少数のヒトへの移植が行われたという報告が見られるようになってきた。しかし、多くのヒトが、安全性と確実性を持って治療されるには、まだまだ越えなければいけないハードルが存在するであろうことは、想像に難くない。
このような中で、iPS細胞の開発は、移植以外の治療の可能性も生み出したといえよう。それは、神経保護治療である。神経保護治療に関しては、すでに国内外でも網膜色素変性症に対して治験が行われている。UF-021(オキュセバ)といった薬剤や毛様体神経栄養因子(ciliary neurotrophic factor; CNTF)が、試験的に投与された。これらの薬剤が本格的に使われるようになるには、さらなる注意深い研究が必要である。また、この2剤だけですべてが解決できるとは限らないので、今後も研究の幅を広げる必要がある。
iPS細胞は、この神経保護治療の研究に、大きな貢献をする可能性を持つと考えられる。特に遺伝子異常による疾患の場合、大きな威力を持つだろう。ヒト疾患の研究は、その臓器の検体を元に研究を進めたいところである。しかし、網膜を採取することはその部分が見えなくなることにつながることから、採取するわけにはいかない。また、がん細胞などと異なり、少量取り出したものをどんどん増殖させるというわけにもいかない。
しかし、患者遺伝子異常を持つiPS細胞を患者皮膚細胞などから樹立(作成)し、それを網膜細胞に分化誘導させれば、患者遺伝子異常を持つ網膜細胞を、継続的に培養することができ、何回も研究することに使えるということになる。この方法により患者遺伝子異常を持つ網膜細胞を得ることは、疾患メカニズムを解析したり、候補薬剤のスクリーニングをしたり、といった研究を進める第一歩といえよう。
我々の研究室でも、実際に網膜色素変性症患者の皮膚細胞(網膜細胞ではなく)を採取させていただき、これを用いた研究を開始した。研究成果が蓄積されることで、臨床現場に還元できるとよいと、心から願う。薬剤の候補が見つかったらすぐに臨床に応用できるわけではないが、一歩一歩、堅実に進みたいものだと思う。
多くの研究結果が蓄積されることで多くの効果的な薬剤が生まれ、遺伝子診断の確実性も増し、法的整備も進められた暁には(これは何十年も先のことになるかもしれないが)、診断がついたらすぐにでも神経保護治療を開始し、生活に不都合のあるような視野異常を生じないような予防をしたいものである。遺伝子異常があっても網膜異常を生じない世の中が来ることが理想であり、その実現を切に願う。
【略歴】
1992年 慶應義塾大学医学部卒業 眼科学教室入局
1994年 佐野厚生総合病院 出向
1997年 慶應義塾大学医学部眼科学教室 助手
1998年 東京都済生会中央病院 出向
2000年 杏林大学医学部 臨床病理学教室 国内留学
2001年 慶應義塾大学医学部 生理学教室 国内留学
2004年 4月 川崎市立川崎病院 出向 医長
2004年10月 慶應義塾大学医学部 生理学教室 助手
2005年 4月 慶應義塾大学医学部眼科学教室 助手
2008年10月 慶應義塾大学医学部眼科学教室 専任講師
2009年 4月 網膜細胞生物学研究室 チーフ (兼任)
【後 記】
「神経は損傷を受けると再生しない」というCajal(1928)の呪縛から抜け出しつつある現在の状況を教えてくださいました。本当は難しいお話を素人にも判りやすく語って頂き流石でした。遺伝子治療や薬物治療は、多施設での研究が必要。iPS細胞の研究、薬の開発に適している。神経保護治療は、長期観察を要する、根気が必要。拠り所が判っていることが後ろ盾となる、、、ナルホド・ナルホドと合点しながら拝聴しました。
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『新潟ロービジョン研究会2012』
日時:2012年6月9日(土)13時15分~18時50分
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
【プログラム】
12時45分 開場 機器展示
13時15分 機器展示 アピール
13時30分 シンポジウム1『ITを利用したロービジョンケア』
座長:守本 典子 (岡山大学) 野田 知子 (東京医大)
1)基調講演 (50分)
演題:「 ITの発展と視覚代行技術-利用者の夢、技術者の夢-」
講師:渡辺 哲也 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
2)私のIT利用法 (50分)
「ロービジョンケアにおけるiPadの活用」
三宅 琢 (眼科医:名古屋市)
「視覚障害者にとってのICT~今の私があるのはパソコンのおかげ~」
園 順一 (京都福祉情報ネットワーク代表 京都市)
3)総合討論 (10分)
15時20分 特別講演 (50分)
座長:安藤 伸朗 (済生会新潟第二病院)
演題:「網膜変性疾患の治療の展望」
講師:小沢 洋子 (慶応大学眼科 網膜細胞生物学斑)
16時20分 コーヒーブレーク & 機器展示 (15分)
16時35分 基調講演 (50分)
座長:張替 涼子 (新潟大学)
演題:「明日へつながる告知」
講師:小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
17時25分 シンポジウム2『網膜色素変性の病名告知』
座長 佐渡 一成 (さど眼科、仙台市)、張替 涼子 (新潟大学)、守本 典子 (眼科医:岡山大学)
「眼科医はどのような告知を目指し、心がけるべきか」
園 順一 (JRPS2代目副会長 京都市)
「家族からの告知~環境と時期~」
竹熊 有可 (旧姓;小野塚 JRPS初代会長、新潟市)
「こんな告知をしてほしい」
コメンテーター
小川 弓子 (小児科医;福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園 園長)
18時35分 終了 機器展示 歓談&参加者全員で片づけ
18時50分 解散
機器展示
東海光学株式会社、有限会社アットイーズ、アイネット(株)、
株式会社タイムズコーポレーション、㈱新潟眼鏡院
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眼科治療にも関わらず視機能障害に陥った方々に対して、残っている視機能を最大限に活用して生活の質の向上をめざすケアを「ロービジョンケア」といいます。済生会新潟第二病院眼科では、眼科医や視能訓練士、看護師、医療および教育・福祉関係者、そして患者さんと家族を対象に、2000年1月から年に一度、だれでも参加できる「新潟ロービジョン研究会」を開催しています。
2012年6月9日、済生会新潟第二病院で『新潟ロービジョン研究会2012』が開催されました(今回で12回目)。「網膜変性症治療の展望」、「ITによる支援」、「告知」のテーマで講演とシンポジウムが行なわれ、新潟県内外から120名(県内70、県外50;内訳~医療関係者60名・研究・教育関係者40名・当事者・家族20名)が参加しました。
【総括】
今年も充実した研究会を開催することが出来ました。今回で12回目になります。私にとっては、慌ただしく過ぎ去った怒涛の1日でした。ああすれば良かった、この人ともう少しお話ししたかった という悔いばかりが残っています。
当初よりこの研究会は、医師や医療関係者のみでなく、当事者・家族、そして多くのサポートする方々が一堂に会して討論することを信条にしてやって参りました。今回も新潟県内外から120名が参加しました。その時に一番関心のあることをテーマに選びますが、今回は「視覚障害者へのITによるサポート」「網膜変性治療の最前線」「病名告知」と3つテーマを選びました。欲張ったために討論の時間が十分に取れなかったことが反省点です。片道分の交通費で出演を承知して頂いた講師・座長・シンポジストの皆様に、改めて御礼申し上げます。
新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える
日時:2011年2月5日(土) 15時~18時
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
教育講演
『前頭葉機能不全 その先の戦略
~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド~』
立神 粧子(フェリス女学院大学音楽学部/大学院音楽研究科教授)
2001年秋、夫が仕事中に突然解離性くも膜下出血で倒れ、後遺症として高次脳機能障害が残った。2年ほど大きな改善は見られず悶々としていたなか、2004年大学からのサバティカルの1年を利用して、NewYork大学リハビリテーション医学Rusk研究所の通院プログラムに参加した。Y.Ben-Yishay博士が率いるRusk研究所は脳損傷通院プログラムの世界最高峰と言われている。
Ruskの訓練は、神経心理ピラミッドを用いたホリスティックなアプローチである。Ruskでは器質性による前頭葉機能不全を前提としている。認知機能を9つの階層に分け、ピラミッドの下が症状の土台であり、その基本的な問題点が改善されていなければ、ピラミッドのそれより上の問題点の解決は効果的になされないとする考え方で、ピラミッドの下から訓練は行われる。9つの階層とその説明は下から以下のとおりである。
Ⅰ.「訓練に参加する自主的な意欲」
自分に前頭葉の機能不全があることに気づき、その問題に立ち向かうために自らの意思で参加するという強い思い。
Ⅱ.「神経疲労Neurofatigue」
「覚醒」「警戒態勢」「心的エネルギー」に関する欠損。脳損傷による脳細胞の欠損のために、日常生活のすべてが以前より困難となり、脳損傷者は常に神経が疲労しやすくなっている。
Ⅲ.(1)「無気力症Adynamia」
心的エネルギーが過少であることによる問題。基本的に「自分から~をする」ことができない。
1:自分から何かをする発動性の欠如、2:発想の欠如、思いの連鎖がない、3:自発性の欠如、無表情、無感動。
(2)「抑制困難症Disinhibition」
心的エネルギーが過度であることによる欠損。自分で次の諸症状を意識し、抑制することができない。
1:衝動症、2:感情の調整不良症、3:フラストレーション耐性低下症、4:イライラ症、5:激怒症、気性爆発症、6:多動症、7:感情と認知の洪水症。
Ⅳ.「注意力と集中力Attention & Concentration」
選択的注意とその注意力を維持する集中力に関する問題。
Ⅴ.「コミュニケーション力と情報処理Communications & Information Processing」
情報のスピードについてゆくことと情報を正確に受信し、人にわかるように発信することに関する問題。
Ⅵ.「記憶Memory」
出来事を習得したり覚えておくことができなくなる記憶の問題と、自分に欠損があるということの気づきが途切れる問題。記憶断続症。
Ⅶ.(1)「論理的思考力Reasoning」
1:言われたことや書かれたことをまとめたり、同類に分類できる力である「収束的思考力、まとめ力」の問題と、2:異なる発想を思いついたり臨機応変に対応できる力である「拡散的思考力、多様な発想力」の問題。
(2)「遂行機能Executive Functions」
日常生活における以下の能力に関する問題。
1:ゴール設定、2:オーガナイズ(分類整理)する、3:優先順位をつける、4:計画を立てる、5:計画通りに実行する、6:自己モニターする、7:トラブルシュート(問題解決)する。
Ⅷ.「受容Acceptance」
自分に機能不全があり人生に制限がついたという事実を認識して受容できること。真の受容には下位の階層のそれぞれの症状に対する戦略を自ら使い、自己を高める努力が伴う。そういうことの必要性を真に理解すること。
Ⅸ.「自己同一性Ego-identity」
脳損傷を得ても、「自分が好きな自分」でいるために、以下の過去・現在・未来の自分を再統合し、障害を得た新しい自己を再構築すること。
1:発症前に何かを達成できた自分、2:障害を得た自分に必要な訓練や努力に現在進行形で取り組んでいる自分、3:機能不全による限界を認識しつつ将来こうなりたいと思う自分。
神経心理ピラミッドの働きの大まかな説明は以上である。Ruskではこれらすべての階層の問題のひとつひとつに戦略(対処法)がある。月曜日から木曜日までの朝10時から午後3時まで、対人コミュニケーションや個別の認知訓練、カウンセリングまでをも含む構造化された時間割の中でシステマティックな訓練が行われる。こうした訓練と戦略のおかげで、絶望的だった夫との生活は奇跡的に改善され、希望が持てる人生を歩みだすことができた。
【略 歴】
1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
1984年 国際ロータリー財団の奨学生として、シカゴ大学大学院に留学
1988年 シカゴ大学大学院にて音楽学で修士号取得、博士課程のコースワーク修了
1988年 南カリフォルニア大学大学院へ特待入学
1991年 南カリフォルニア大学大学院にてピアノ演奏(共演ピアノ)で音楽芸術博士号取得
1993年 帰国後、フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科の専任講師
~現在 フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授、音楽芸術博士
http://www.ferris.ac.jp/music/bio/m-04.html
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1985年 シカゴ・コンチェルト・コンペティション優勝
1988~91年 コルドフスキー賞、最優秀演奏家賞受賞
1992年~現在 ベルリン・フィル、ロンドン響、バイエルン放送響、フィレンツェ歌劇場、MET歌劇場などの欧米の主要オーケストラの首席奏者や歌手たちと国内外で共演。世界各地でリサイタル多数。
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ご主人の小澤富士夫氏は、東京芸術大学のトランペット科を卒業後、プロの演奏家として活躍。その後ヤマハで新製品の研究開発業務に携わり、ヤマハ・フランクフルト・アトリエの室長として長年ヨーロッパに赴任。帰国後の2001年、仕事中にくも膜下出血を発症、後遺症として高次脳機能障害(記憶障害、無気力症、認知の諸問題)が残る。
高次脳機能障害を治すためサバティカルを利用して、1年間ご主人とともに米国に滞在し、ニューヨーク大学Rusk研究所「脳損傷通院プログラム」に通う。ご主人は奇跡的に回復し、一人で大阪に出張できるほどになった。
『ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論』
2006年 『総合リハビリテーション』(医学書院)4月、5月、10月、11月号に、「NY大学・Rusk研究所における脳損傷者通院プログラム」を治療体験記として発表。以来Rusk研究所の通院プログラム、神経心理ピラミッド、機能回復訓練などに関する講演を行う。
『前頭葉機能不全/その先の戦略:Rusk通院プログラムと神経心理ピラミッド』
2010年11月 医学書院より出版。
医学書院のHPに以下のように紹介されている。
「高次脳機能障害の機能回復訓練プログラムであるニューヨーク大学の『Rusk研究所脳損傷通院プログラム』。全人的アプローチを旨とする本プログラムは世界的に著名だが、これまで訓練の詳細は不透明なままであった。本書はプログラムを実体験し、劇的に症状が改善した脳損傷者の家族による治療体験を余すことなく紹介。脳損傷リハビリテーション医療に携わる全関係者必読の書」
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912
報告:『新潟ロービジョン研究会2011』高次脳機能と視覚の重複障害を考える2
教育講演
1)「高次脳機能障害とは?」
仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター病院;眼科医)
2)「高次脳機能障害と視覚障害を重複した方へのリハビリテーション」
野崎 正和 (京都ライトハウス鳥居寮;リハビリテーション指導員)
3)「前頭葉機能不全 その先の戦略
~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド ~」
立神粧子 (フェリス女学院大学)
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【講演抄録】
1)「高次脳機能障害とは?」
仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター病院;眼科医)
1. 高次脳機能障害の定義
学術用語としての高次脳機能障害は、脳損傷で生じる認知・行動・情動障害全般を指し、記憶障害・社会的行動障害・遂行機能障害・注意障害という高頻度で生活へ影響が特に大きい主要症状の他に半側空間無視・失語症・失行症・失認症などがある。その特徴の一つとして病識の欠如があり、これがさらに社会生活復帰への支障を大きくしている。一方、行政用語としての高次脳機能障害は、学術用語で挙げた症状に以下の条件がつく。
1) 実際に日常生活または社会生活に制約がある
2) 脳損傷の原因となる事故による受傷や疾病の発症の事実が確認されている
3) 先天疾患・周産期における脳損傷・発達障害・進行性疾患を原因とするものは除外
4) 身体障害として認定可能な症状を有するが主要症状を欠く者は除外(たとえば、失語症だけでは、音声・言語・咀嚼機能障害に入るため除外される)
高次脳機能障害者支援の手引き(改訂第2版)には診断基準が記されている。これは国リハのホームページから申込書ダウンロードが可能だ。
(http://www.rehab.go.jp/ri/brain_fukyu/kunrenprogram.html)
2. 主要症状
1) 記憶障害
・物を置いた場所を忘れたり同じことを何回も質問するなど、新しいことを学習し、覚えることがむずかしくなる
・社会生活へ復帰する際の大きなハードルとなってしまうことが少なくない
2) 社会的行動障害
・すぐに他人を頼るような素振りをしたり子供っぽくなったりする
・我慢ができず、何でも無制限に欲しがる
・場違いの場面で怒ったり笑ったりする
・一つのものごとにこだわって、施行中の行為を容易に変えられず、いつまでも同じことを続ける
3) 遂行機能障害
・行き当たりばったりの行動をする
・指示がないと動けない
これは、目標決定、行動計画、実施という一連の作業が困難になることで、すなわち、見通しの欠如、アイデアの欠如、計画性・効率性の欠如ということができる。
4) 注意障害
・気が散りやすい
・ 一つのことに集中することが難しい
そもそも注意とは何か。これは「意識内容を鮮明にするはたらき」と説明されている。対象を選択する。選んだ対象に注意を持続する。対象以外へ注意を拡大する。対象を切り替える。複数の対象へ注意を配分するなどが注意のはたらきだ。注意障害の患者を眼科で診るときは、以下の配慮を要する。
・ほとんどの眼科検査で集中力が不足して十分な検査ができないことが多い
・視力検査は短時間で一回の検査を終え、日を替えて続きを行なうのがよい
・視野検査では眼疾患が存在しなくても全体的な沈下をきたすことがある
3. 他の高次脳機能障害の症状
1) 半側空間無視
・自分が見ている空間の片側を見落としてしまう障害
・食事で片側のものを残したり片側にあるものにぶつかったりする
・線分二等分試験や模写課題などで検査される
2) 失語症(行政用語としては高次脳機能障害に入らない)
・うまく会話することができない
・その中には、単に話すことができなくなることだけでなく、人の話が理解できない、字が読めない、書けないなどの障害も含まれている
・音声・言語・咀嚼機能障害の3級または4級に入る
3) 失行症
・動作がぎこちなく、道具がうまく使えないなど、手足は動くのに、意図した動作や指示された動作ができない
・マッチを擦って煙草に火をつけるといったような系列を有する行為を意図的に行うことができなくなる
4) 失認症
・視覚失認…物全般がわからない
・純粋失読…文字がわからない
・相貌失認…顔がわからない
失認症は、症状が視覚に関わることが多いため、患者自らが眼科を受診する。いわば、視覚の高次脳機能障害ということもでき、ロービジョンの範疇に入るものと思われる。しかし、その対策は一筋縄ではいかない。まして、高次脳機能障害の主要症状に視覚障害が重なったら、その対応はさらに困難であるということは明らかである。今後の検討が望まれている。
【略歴】
1989年3月 東京慈恵会医科大学医学部医学科卒業
1991年4月 同大学眼科学講座助手
1995年7月 神奈川リハビリテーション病院眼科診療医員
2003年8月 東京慈恵会医科大学医学部眼科学講座講師
2004年1月 Stanford大学留学
2007年1月 東京慈恵会医科大学医学部眼科学講座准教授
2008年2月 国立身体障害者リハビリテーションセンター病院第三機能回復訓練部長
2010年4月 国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部長
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2)「高次脳機能障害と視覚障害を重複したB氏のリハビリテーション」
野崎 正和 (京都ライトハウス鳥居寮;リハビリテーション指導員)
B氏の4年間に及ぶリハビリテーション期間の内、前期(2007年8月~2008年3月の9か月)の取り組みについて報告した。
Ⅰ B氏のプロフィール
1.基本情報 40代男性、S市在住、妻・娘と同居。
2.生活歴・職業歴 教師として20数年間勤務。野球部の監督や同和教育・生徒指導の担当者として活躍していた。
3.疾病・診断名 脳梗塞(2006年10月)・全盲・軽度の高次脳機能障害。前頭葉・右側頭葉・両後頭葉・脳梁に広範囲の損傷。
4.高次脳機能障害の症状 易疲労性、集中力の低下、注意障害、記憶障害(前向健忘)、空間認知障害、遂行機能障害などがあった。
5.訓練開始時点での強み 孤立感、孤独感が強く精神的に混乱しているが、真面目で前向きな性格や、知性や判断力が健在であることを感じさせる言動も見られた。家族の支援もしっかりしていた。
Ⅱ B氏のリハビリテーションの経過
『前期の課題』安心できる環境とゆっくりした時間の流れの中で、適度で適量な刺激を提供すること。全盲+記憶障害+空間認知障害は非常に厳しい条件だが、何とかして日常生活でのADL自立をめざす。
『前期の状況』B氏も奥さんも、切羽詰まった状態でわらをもすがる思いで鳥居寮に来られた。本人の孤立感・孤独感は非常に強いと思われる。現状は世界も能力も縮小した状態にあるが、潜在的能力はあり、徐々に拡大していく可能性は大きい。この段階での行動上の困難は大きいが、指導員との関係が中心であり比較的環境調整が容易なため、歩行訓練士でも対応が可能だったと考えられる。
『前期の支援方針』
毎日朝夕に職員の打ち合わせをして、状況の確認と対応の統一を図る。初期には易疲労性に留意し休憩を多く取り、また注意障害を考慮して伝えることは一度にひとつかふたつに留める。感情と結びついた記憶は残りやすいため、出来れば楽しい記憶にするように務める。予定した訓練をこなすことより、B氏の語りをゆっくり聴き、受け止めることのほうが重要であるという視点をもつ。
『B氏に対して実施した、主に認知にかかわる訓練技法』
・エラーレスラーニング:迷う前にタイミングよくB氏にとって分かりやすい話し方で正しい答えを提示する。
・構造化:日課や家具の配置、移動ルートなど、さまざまなことをわかりやすくシンプルにすること。
・環境調整:施設での人間関係や家族に対する支援などもふくめて、B氏が落ち着けるような環境を作ること。
・スモールステップ&シェイピング(段階的行動形成):行動をわかりやすい小さな単位に分けて考える、それをもとに、行動を作り上げていくこと。逆シェイピングという技法もある。
・過剰学習:確実に誤りがなくなり自信がつくまで繰り返し練習すること。
・手掛かりの活用:触覚的なわかりやすい手掛かりを設置することで、手続き記憶の強化を図る。
・記憶の強制は避ける:自然な形で記憶力を使うようにしていく。
・ポジティブ・フィードバック:良いところを見つけて伝える。少しずつでも自分で出来ることが増えると、自己効力感・自己肯定感を高めることにつながる。
・散歩の活用:季節の風を感じること。感覚入力の豊かさが脳に対する良い刺激になる。
・般化:鳥居寮で出来るようになったことが、自宅でも出来ることを目指す。
Ⅲ まとめ
高次脳機能障害と視覚障害を重複した方のリハビリテーションを進めるために、また当事者や支援者を孤立させないために、多くの人たちが経験や意見を交流できるネットワーク作りが必要ではないだろうか。
【略歴】
1950年生まれ。岡山県津山市出身
立命館大学文学部卒業。
1979年京都ライトハウスに歩行訓練士として入職(日本ライトハウス養成9期)
以来歩行訓練士として31年間同じ職場に勤務。
(2011年3月末定年 その後は嘱託で仕事を続る予定)
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3)「前頭葉機能不全 その先の戦略
~Rusk脳損傷通院プログラムと神経心理ピラミッド~」
立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授)
2001年秋、夫が仕事中に突然解離性くも膜下出血で倒れ、後遺症として高次脳機能障害が残った。2年ほど大きな改善は見られず悶々としていたなか、2004年大学からのサバティカルの1年を利用して、NewYork大学リハビリテーション医学Rusk研究所の通院プログラムに参加した。Y.Ben-Yishay博士が率いるRusk研究所は脳損傷通院プログラムの世界最高峰と言われている。
Ruskの訓練は、神経心理ピラミッドを用いたホリスティックなアプローチである。Ruskでは器質性による前頭葉機能不全を前提としている。認知機能を9つの階層に分け、ピラミッドの下が症状の土台であり、その基本的な問題点が改善されていなければ、ピラミッドのそれより上の問題点の解決は効果的になされないとする考え方で、ピラミッドの下から訓練は行われる。9つの階層とその説明は下から以下のとおりである。
Ⅰ.「訓練に参加する自主的な意欲」 自分に前頭葉の機能不全があることに気づき、その問題に立ち向かうために自らの意思で参加するという強い思い。
Ⅱ.「神経疲労Neurofatigue」 「覚醒」「警戒態勢」「心的エネルギー」に関する欠損。脳損傷による脳細胞の欠損のために、日常生活のすべてが以前より困難となり、脳損傷者は常に神経が疲労しやすくなっている。
Ⅲ.(1)「無気力症Adynamia」 心的エネルギーが過少であることによる問題。基本的に「自分から~をする」ことができない。
1:自分から何かをする発動性の欠如、
2:発想の欠如、思いの連鎖がない、
3:自発性の欠如、無表情、無感動。
(2)「抑制困難症Disinhibition」 心的エネルギーが過度であることによる欠損。自分で次の諸症状を意識し、抑制することができない。
1:衝動症、2:感情の調整不良症、3:フラストレーション耐性低下症、4:イライラ症、5:激怒症、気性爆発症、6:多動症、7:感情と認知の洪水症。
Ⅳ.「注意力と集中力Attention & Concentration」 選択的注意とその注意力を維持する集中力に関する問題。
Ⅴ.「コミュニケーション力と情報処理Communications & Information Processing」 情報のスピードについてゆくことと情報を正確に受信し、人にわかるように発信することに関する問題。
Ⅵ.「記憶Memory」出来事を習得したり覚えておくことができなくなる記憶の問題と、自分に欠損があるということの気づきが途切れる問題。記憶断続症。
Ⅶ.(1)「論理的思考力Reasoning」
1:言われたことや書かれたことをまとめたり、同類に分類できる力である「収束的思考力、まとめ力」の問題と、2:異なる発想を思いついたり臨機応変に対応できる力である「拡散的思考力、多様な発想力」の問題。
(2)「遂行機能Executive Functions」 日常生活における以下の能力に関する問題。
1:ゴール設定、2:オーガナイズ(分類整理)する、3:優先順位をつける、4:計画を立てる、5:計画通りに実行する、6:自己モニターする、7:トラブルシュート(問題解決)する。
Ⅷ.「受容Acceptance」 自分に機能不全があり人生に制限がついたという事実を認識して受容できること。真の受容には下位の階層のそれぞれの症状に対する戦略を自ら使い、自己を高める努力が伴う。そういうことの必要性を真に理解すること。
Ⅸ.「自己同一性Ego-identity」 脳損傷を得ても、「自分が好きな自分」でいるために、以下の過去・現在・未来の自分を再統合し、障害を得た新しい自己を再構築すること。
1:発症前に何かを達成できた自分、
2:障害を得た自分に必要な訓練や努力に現在進行形で取り組んでいる自分、
3:機能不全による限界を認識しつつ将来こうなりたいと思う自分。
神経心理ピラミッドの働きの大まかな説明は以上である。Ruskではこれらすべての階層の問題のひとつひとつに戦略(対処法)がある。月曜日から木曜日までの朝10時から午後3時まで、対人コミュニケーションや個別の認知訓練、カウンセリングまでをも含む構造化された時間割の中でシステマティックな訓練が行われる。こうした訓練と戦略のおかげで、絶望的だった夫との生活は奇跡的に改善され、希望が持てる人生を歩みだすことができた。
【略歴】
1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
1984年 国際ロータリー財団の奨学生として、シカゴ大学大学院に留学
1988年 シカゴ大学大学院にて音楽学で修士号取得、博士課程のコースワーク修了
1988年 南カリフォルニア大学大学院へ特待入学
1991年 南カリフォルニア大学大学院にてピアノ演奏(共演ピアノ)で音楽芸術博士号取得
1993年 帰国後、フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科の専任講師
~現在 フェリス女学院大学音楽学部および大学院音楽研究科教授、音楽芸術博士
http://www.ferris.ac.jp/music/bio/m-04.html
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1985年 シカゴ・コンチェルト・コンペティション優勝
1988~91年 コルドフスキー賞、最優秀演奏家賞受賞
1992年~現在 ベルリン・フィル、ロンドン響、バイエルン放送響、フィレンツェ歌劇場、MET歌劇場などの欧米の主要オーケストラの首席奏者や歌手たちと国内外で共演。世界各地でリサイタル多数。
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ご主人の小澤富士夫氏は、東京芸術大学のトランペット科を卒業後、プロの演奏家として活躍。その後ヤマハで新製品の研究開発業務に携わり、ヤマハ・フランクフルト・アトリエの室長として長年ヨーロッパに赴任。
帰国後の2001年、仕事中にくも膜下出血を発症、後遺症として高次脳機能障害(記憶障害、無気力症、認知の諸問題)が残る。
高次脳機能障害を治すためサバティカルを利用して、1年間ご主人とともに米国に滞在し、ニューヨーク大学Rusk研究所「脳損傷通院プログラム」に通う。ご主人は奇跡的に回復し、一人で大阪に出張できるほどになった。
*「ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論」
2006年 『総合リハビリテーション』(医学書院)4月、5月、10月、11月号に、「NY大学・Rusk研究所における脳損傷者通院プログラム」を治療体験記として発表。以来Rusk研究所の通院プログラム、神経心理ピラミッド、機能回復訓練などに関する講演を行う。
2010年11月『前頭葉機能不全 その先の戦略:Rusk通院プログラムと神経心理ピラミッド』
医学書院より出版。医学書院のHPに以下のように紹介されている。「高次脳機能障害の機能回復訓練プログラムであるニューヨーク大学の『Rusk研究所脳損傷通院プログラム』。全人的アプローチを旨とする本プログラムは世界的に著名だが、これまで訓練の詳細は不透明なままであった。本書はプログラムを実体験し、劇的に症状が改善した脳損傷者の家族による治療体験を余すことなく紹介。脳損傷リハビリテーション医療に携わる全関係者必読の書」。http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912
【印象記】
永井博子 (神経内科医:押木内科神経内科医院)
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教育講演の仲泊聡先生
眼科医でこれだけ深く高次脳機能障害に係っている方がいらっしゃるということがまず驚きでした。高次脳機能障害といっても沢山の症候があり、理解するのも大変なのですが、広い範囲に渡って平易にお話ししていただきました。今なら佐藤先生を受け入れられたかもしれない、というお言葉が印象的でした。今後の視覚の高次脳機能障害への取り組みの発展に期待を持ちました。
教育講演の野崎正和先生
私は勉強不足で、視覚障害者専用の訓練施設があることを知らなかったので、非常に新鮮でした。歩行訓練士という職業も初めて知りました。中途視覚障害者ということで、病気の受容からして、大変なことと思いますが、出来ることをやっていく、楽しくやる、将来への希望をもつ、など佐藤先生のお話と共通しますし、視覚障害者や、高次脳機能障害者だけでなく、リハビリをやるすべての方へのメッセージだと感じました。
教育講演の立神粧子先生
あらかじめ安藤先生から御紹介していただいて、本を読み、お話をお聞きできることを非常に期待していました。医療とは全く関係ない分野にいらっしゃるのに、専門的なことをすべて理解していらっしゃることに驚きかつ感銘いたしました。とても実践的な訓練なので、これを日本で、日本語で受けることができたら、と思いました。
野崎正和 (京都ライトハウス鳥居寮;歩行訓練士)
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懇親会の音楽会はとても楽しいものでした。残念なことは、私が演歌人間で、ジャズなどを聞いてもよくわからないという点です。それで何が楽しいのかといえば、演奏している皆さんが、長くされているすごく上手な方から、それほど長くない方までとても楽しそうに演奏しておられたことです。楽器を演奏できるのはいいなーと思いました。
仲泊先生には、先生が取り組んでおられる視覚障害リハビリテーションの今後を左右するようなプロジェクトについて教えていただきました。もし、協力させて頂けるようでしたら、安藤先生から学んだ「自分に出来ることを精一杯楽しんでやる」精神で取り組みたいと思います。
立神先生のお話は、本当にサプライズでした。先生の著書の「前頭葉機能不全 その先の戦略」を、あとで購入して拝読いたしました。現場でリハビリテーションに関わっている立場としては本当に参考になることばかりでした。常に神経心理ピラミッドを念頭に置いて考えたいと思いますが、全体として自分の職場でどう活かすかと言う点では、バックグラウンドが違いすぎて、どうしたらよいかまだわからない状態です。
私は、高次脳機能障害で全盲のB氏のリハビリテーションについて発表させていただきました。つたない発表のため、高次脳機能障害の代償手段がほとんど使用できない全盲という条件の厳しさや、このような方が地域で安心して生活しながら社会参加していくための支援システムをみんなで考えて欲しいということなどを十分お伝えできなくて申しわけありませんでした。これからも少しずつ勉強していきたいと思います。 雪の新潟はとても温かでした。
立神粧子(フェリス女学院大学教授)
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講演の時間が延びてしまい、学会の最後でお疲れの皆様を「神経疲労」にさせてしまいました。でも、神経心理ピラミッドの説明なしではRuskの概念は理解できないので、あれはあれで仕方なかったと思っています。講演の機会を与えて下さり有難うございます。
仲泊先生は、非常にコンパクトにわかりやすく高次脳機能障害を説明されました。安藤先生のご指摘にもありますように、佐藤先生の入院当時のことを正直に話されたことも共感を持ってお聞きしました。10年ほど前は、日本の高次脳機能障害者とその家族にとっては、まだまだ希望が見えない医療やアドバイスだったと記憶しています。
野崎先生のお話しは、現実の問題に即した実践的な視点で有意義なものだったと思います。
講演後に、永井先生からもお声をかけていただきました。よろしくお伝えくださいませ。
新潟市 リハビリ医
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仲泊聡先生の講演
特に興味深かったのは、半側空間無視と半盲の視野検査所見の違いです。固視点を変えると半盲の場合は、見えない部分が固視点の変化について行くのに対し、半側空間無視では変化しないというものでした。半側空間無視は、リハビリテーション分野で失語症と同様頻度の高い障害ですが、眼科的な視点からのお話は初めてでしたので興味深いものでした。視覚に関係した高次脳機能障害のリハビリテーションの実際も機会があればお聞きしたいと思いました。
野崎正和先生の講演
対応が困難な高次脳機能障害を併せ持った視覚障害者のリハビリテーションに積極的に取り組んでいらっしゃる様子が良くわかりました。具体的なことは時間がなくあまり聞けませんでしたが。リハビリテーション医療との連携(高次脳機能の検査の結果やそれに基づいた方針や対応の仕方などの情報伝達)についてもう少し、お聞きしたかったです。
立神粧子先生の講演
早速、書籍は注文しました(今日来ました)。神経心理ピラミッドは、高次脳機能障害者の障害を理解するのに役立ちそうですね。同じ図を、慈恵医大リハビリテーション科の橋本圭司先生の教育講演で目にしました。橋本先生は、高次脳機能障害者のグループセラピーを展開している方です。Ruskのプログラムの内容を知るには読んでみるしかないですね。
質疑で出された意見について
リハビリテーションは必要ないのではというのは極端だと思いますが、リハビリテーション医療が高次脳機能障害に対応できていないのは事実だと思います。障害の評価も難しい上、検査の結果から活動(生活、仕事、自動車運転など)の制限を説明しにくいこと、さらに、職業リハビリテーションと医療が連携していないことなど問題点が多いのが現状です。今後の課題と受け止めます。
最後に、医療者、障害者が一同に会して勉強するという貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。
新潟市 病院ソーシャルワーカー
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この度はシンポジウムに参加させていただきてありがとうございました。とても実りのある会だったと思います。
仲泊先生も眼科医として高次脳機能障害について深く関わって下さる事にとても感謝しております。新潟県の場合は、高次脳機能障害者に対する支援があまり充実しておらず、又、神経内科・脳外科・リハビリ科・精神科などの先生が各個人で様々苦悩なさっている状況の中、眼科の先生からもご意見いただく事ができれば今後の支援も発展することでしょう。実際に、当院では眼科の細かい検査などは出来ないため、わざわざ別の医療機関に受診してもらい、患者さんの負担も大きいです。障害が重複している患者さんも多くいらっしゃいますが、当院の診療体制では全ての障害に望むような医療サービスが受けられるわけではありません。
野崎先生のご講演もとても勉強になりました。私は病院のソーシャルワーカーであり、患者さんが地域でどのように生活しているか全て把握しているわけではありませんが、あの方のようなリハビリ指導員がいらっしゃる施設があるとこちらとしても自信を持ってご紹介できます。新潟でももっと開拓していただきたい位です。
勉強不足で立神先生の名前を知らなかったのですが、実際にアメリカでプログラムを受けられて、誰よりも高次脳機能障害の難しさをご理解なさっている方だと思います。その中で、ご主人と一緒に新潟まで足を運んでくださったり、ピアニストとして、教育者として研究者としてご主人の障害と共に人生を歩んでいる姿が素晴らしかったです。
最後に質問して下さった小林さんという方、彼も若くして障害を負い、今も苦労して生活なさっている場面も多いと思います。その中で障害を理解して欲しいと訴える姿と、障害の受容、リハビリテーションとは何かについてを答えて下さった佐藤先生に感動しました。
簡単ですが、私の感想を書かせていただきました。 今回安藤先生が1人事務局でご準備から最後の後片付け、懇親会までセッティング・調整をして下さって大変ご苦労なさったと思います。ありがとうございました。私はソーシャルワーカーであり、診療したり、リハビリしたりすることはできませんが、患者さんが地域でより質の高い生活ができるように今後も支援していきたいと思います。
新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える
特別講演 重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる
佐藤 正純(もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
医療相談員:介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館)
高次脳機能障害は、交通事故や転倒などによる外傷性脳損傷や脳血管障害・脳腫瘍・脳炎・低酸素性脳症などの疾患により発症します。脳の一部が損傷を受けることで、記憶、意思、感情などの高度な脳の機能に障害が現れる場合があります。このような障害を高次脳機能障害といい、外見上障害があることがわかりにくく、一見健常者との見分けがつかない場合もあり、そのため周囲の理解を得られにくいといった問題もあります。障害の程度によっては本人ですら気づかないということもあり、そこにこの障害の難しさがあります。2011年2月5日(土)午後、真冬の新潟に全国11都府県から120名が集い、外の寒さを吹き飛ばすような熱気に包まれ、盛況のうちに終了することが出来ました。この度、講師の先生に講演要旨をしたためて頂きましたので、ここに報告致します。
新潟ロービジョン研究会2011〜高次脳機能と視覚の重複障害を考える 1
日時:2011年2月5日(土) 15時~18時
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
特別講演 座長:永井 博子(神経内科医;押木内科神経内科医院)
「重複障害を負った脳外科医 心のリハビリを楽しみながら生きる」
佐藤 正純 (もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
医療相談員:介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館)
【講演要旨】
障害を負うまでの私は概ね順調な人生を送ってはいましたが、それでも秀才揃いの受験校に入学して自身の限界を見せ付けられた挫折、国立大学医学部に入学するまでの1年間の浪人生活、その在学中の父の早世など、若いうちに抗えない運命に立ち向かうための心の鍛錬をする機会があったのは幸せだったのかもしれません。
横浜市大救命救急センターに医局長として勤務して、多くの患者さんの生死に立ち会ったことから、医療の限界と医のあずかり知らぬところで神に支配されている人の生死を実感したことは、私の死生感にも大きな影響を与えました。
脳挫傷による1か月の昏睡から覚醒した時、友人はおろか家族の顔も確認できないほど視覚は失われ太陽が東から昇ることも1年が365日であることも忘れているほど記憶は失われていたのに、ピアノの前では指が自然に動いてジャズのスタンダードナンバーが弾けたことは残存能力の証明となり、心の支えにもなりました。
視覚と高次脳機能の重複障害への適切な対応がされないまま社会復帰は不可能と判断されてリハビリセンターを退院しましたが、「これ以上、何をお望みですか?」と言われて、それを挑戦状と感じて自らのリハビリプログラムを立て始めたことが自立に繋がったようです。
私にとってのリハビリテーション、すなわち全人間的復権の根本は、働き盛りの37歳で障害を負った自分がこのままで社会復帰もできずに人生を終えたくはないという人生の哲学、そして、自身のそれまでの技術と人脈を生かすとすれば、医学知識と臨床経験を生かした教育職で社会復帰を目指すべきではないかという目的。最後にその目的を達成する手段として音声読み上げソフトと通勤のための独立歩行の技術が必要と気づいてその訓練の場所を探したことが社会復帰に繋がりました。特にパソコンに記憶された情報を読み直す反復訓練は脳の可塑性をもたらして記憶障害の克服に役立ちました。
受傷6年後に教壇に上がって最初の講義を終えた時、生きていて本当によかったと思えた自分は、そこでリハビリテーション(人間的復権)の一段階を達成して初めて障害受容もできたのだと思っています。
私が今まで精神的な支えとしてきたことは、諦めるのではなく明らめる(障害を負った今の自分の可能性を明らかにする)こと。リハビリの内容を音楽や鉄道マニアといった自分の趣味などの楽しみに結びつけ、小さな結果の達成を喜んでリハビリを楽しむように心がけたこと。過去の自分を捨てて新しい自分を構築するのではなく、過去の経験と現在の可能性を重ね着して豊かな人生(重ね着人生)を築けば良いと思ったこと。瀕死の重傷から神様の導きで生かされた自らを『Challenged』(挑戦するよう神から運命づけられた人)と信じて、自分に与えられた仕事は神様から選ばれて与えられた試練と考えて決して諦めないと誓ったこと、などです。
これからも医師は一生勉強、障害者は一生リハビリと唱えて、常に楽しみと結びつけ、達成感も確認して心のリハビリを楽しみながら、より高い復権を目指した人生を進んで行きたいと思っています。
【佐藤正純先生の紹介】
1996年2月、横浜市立大病院の脳神経外科医だった佐藤正純先生(当時;37歳)は、医者仲間と北海道へスキー旅行に行った。スノーボードで滑っていて転倒、頭部を強打し意識不明、ヘリで救急病院に運ばれた。頭部外傷事故で大手術の末、1ヶ月後に奇跡的に意識を取り戻した。しかし、待っていたのは、皮質盲(視覚障害)、記憶障害(高次脳機能障害)、歩行困難(マヒ)という三重苦であった。
趣味の音楽を手始めに懸命なリハビリを続け、6年後の2002年、三重苦を乗り越え医師免許を活かして、医療専門学校の非常勤講師として再出発した。今でもリハビリを重ねながら講師以外に、重度障害を負った障害者のリハビリ体験について語る講演活動を行い、さらには横浜伊勢佐木町のジャズハウス「first」で健常者に交じってジャムセッションのピアニストとして参加している。
「障害を負ったからといって人生観を変える必要はありません。昔の自分に新しい自分を重ね着すればいい。1粒で2度美味しい人生を送れて幸せです。」と佐藤先生は語る。
参考:http://www.yuki-enishi.com/challenger-d/challenger-d19.html
【略歴】 佐藤正純 (さとう まさずみ)
1958年6月 神奈川県横浜市生まれ
1984年3月 群馬大学医学部医学科卒業、
4月 横浜市立大学付属病院研修医
1986年6月 横浜市立大学医学部脳神経外科学教室に入局
神奈川県立こども医療センター、横浜南共済病院、神奈川県立足柄上病院の脳神経外科勤務を経て
1992年6月 横浜市立大学救命救急センターに医局長として2年間勤務
1996年2月 横浜市立大学医学部付属病院脳神経外科在職中にスポーツ事故で重度障害
1999年12月 横浜市立大学医学部退職
2002年4月 湘南医療福祉専門学校東洋療法科・介護福祉科非常勤講師として社会復帰
2007年4月 介護付有料老人ホームはなことば新横浜2号館医療相談員として復職
湘南医療福祉専門学校救急救命科 専任講師
筑波大学附属視覚特別支援学校 高等部専攻科理学療法科 非常勤講師
神奈川県立保健福祉大学 保健福祉学部 リハビリテーション学科
ゲスト講師などを兼任して現在に至る。
・視覚障害をもつ医療従事者の会(ゆいまーる)副代表
http://www.yuimaal.org/
杉並区障害者福祉会館障害者バンド「ハローミュージック」バンドマスター
【公開講座 & 交流会に参加して】
佐藤正純(もと脳神経外科専門医;横浜市立大学付属病院
医療相談員:介護付有料老人ホーム「はなことば新横浜2号館」)
受傷から8年後、社会復帰から2年後の2004年に札幌にお招きいただいて最初の個人講演会をさせていただいてから年平均5件のペースで40件近くの講演を経験してきましたが、今回のようにリハビリテーションの専門家である先生方と並んでの本格的なシンポジウム形式は初めてだったので、開演前は柄にもなく緊張していました。
それでも、いつもの私のペースで冗談と雑談を交えながら訥々と話すうちに時間が足りなくなって予定していた内容のうち、どうにか60%の結果ではありましたが、最初に哲学ありきとする私のリハビリテーション理論、趣味などに結びつけ、達成感を感じることで楽しみながら進める心のリハビリ、神に生かされ、障害も神から与えられたものと悟る死生観と障害受容などはお伝えできたのではないかと思っております。
神奈川リハビリテーション病院入院中には担当医としてお世話になった仲泊聡先生を前にして、視覚と高次脳機能が合併した障害に対する神奈川リハビリの対応を批判しながら話すのはとてもやりにくかったのですが、一人の患者として率直にぶつけた思いを、仲泊先生がよく理解して受け入れてくださったのは有難かったです。
訓練開始前に白杖持参を受け入れていた私を評価して、自身の障害に合わせたリハビリテーションプログラムに沿って私の歩行訓練を担当してくださった東京都盲人福祉協会の山本先生もそうですが、野崎正和先生はリハビリテーションの中でも特に訓練生と生の会話をする時間が取れる立場を利用して、患者さんを丸ごと受け入れている温かさを感じました。
また、私がかつて所属していた高次脳機能障害者の団体「日本脳外傷友の会」でも何度か紹介されて名前だけは知っていた秘密の組織「ニューヨークRusk研究所の神経心理ピラミッド理論」について立神粧子先生から非常に貴重な情報をいただきました。そして、単なる私個人の理論ながら、私が心の拠り所として、相談を受けた方にも伝えていた「1粒で2度美味しい重ね着人生」は神経心理ピラミッド理論の自己同一性とも一致する点があることは自信に繋がりました。
喫茶「マキ」での懇親会では、眼科医でありプロミュージシャンでもある佐藤弥生先生の登場に圧倒されて逃げ出したくなりましたが、私の要望に応じて集まってくださった地元のジャズバンド、小林英夫バンドとのセッションで、思いがけずジャズのメッカである新潟でのひとときの演奏を楽しむことができました。
【印象記】
仲泊 聡(国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部長 眼科医)
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1995年7月1日、私は神奈川リハビリテーション病院に赴任しました。医学部を卒業して7年目の夏でした。そのときの私は、障害者という概念について考えたこともない不届きな眼科医でした。大学の授業には障害の概念や社会の福祉システムについての項目はあったはずです。しかし、全く印象に残っていません。弟が脳膿瘍で片麻痺になり6歳で亡くなったことは自分の人生観に大きく影響していると思っていました。物心付いた頃には叔父の一人が失明し白杖を持っていました。従兄弟の一人が頸随損傷で四肢麻痺になっていました。それにもかかわらず、障害者は自分とはあまり縁がないような印象をもっていました。今となってはそれが不思議なくらいですが。
佐藤正純さんが同院に入院されていたのは、1997年1月からの約1年と伺いました。私も眼科の外来でお目にかかっているはずです。重度の高次脳機能障害の患者さんでピアノがとびきり上手な人がいるといううわさは、私の耳にも入ってきていました。当時、私は「その」世界に飛び込んでまだ二年生です。佐藤さんの症状を紐解くことはまだ難問中の難問だったと記憶しています。
1998年に私は放射線科の医師と一緒にファンクショナルMRIの仕事を始めました。通常のMRIではわからない大脳の機能低下を画像化するためです。2002年、国のモデル事業で高次脳機能障害の仕事が始まり、同院もその一員となり、リハ医師が中心となってガイドライン作成に向け高次脳機能障害の方のリハプログラムが試行錯誤で検討されました。私も研究要員としてファンクショナルMRIの仕事で参加させてもらっていました。そして、何と立神粧子先生の旦那様が同院に入院されていたのは、そのモデル事業が始まった頃だったのです。だから、私は眼科の診察をしていたに違いありません。佐藤さんに出会った頃よりはもう少し高次脳機能障害に対する知識も増えていたかもしれませんが、結局、あまりお役に立ててはいなかったようです。
お二人のその後の壮絶な戦いを知り、そして、今を知ることで、自分の無知無力を反省するとともに、「決して諦めない」ことへの勇気が湧きました。10余年の月日を経て、かつて神奈川県の七沢の森の中で、このお二人と袖触れ合ったご縁を噛み締めつつ今回のお話を伺うことができました。そして、改めてリハへの「動機付け」の重要性を感じました。今後の診療活動の糧とさせていただきます。ありがとうございました。
永井博子 (神経内科医:押木内科神経内科医院)
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特別講演 佐藤正純先生
私は神経内科医として日頃神経難病の方と御家族にどうやって病気を受容していただくかで悩んでおりますので、佐藤先生が自分の専門分野の病気になって、どうやって病気を受容していらしたのかに、とても関心がありました。このことに関してはあまり触れてはいらっしゃいませんでしたが、リハビリに目標を設定することにより、達成感を持ちながらリハビリを続けられること、楽しくリハビリをやること、など常にポジティブに考えて行動していらっしゃることに感銘しました。
全体を通して
最近、ようやく高次脳機能障害に少しずつ、関心が向けられるようになってはきましたが、まだまだ理解されていないというのが現状です。仲泊先生のお話にあったように、国も関心をもってくれるようになりましたが、対象となる高次脳機能障害を限定してしまっている状況です。そのような時期に、高次脳機能障害と視覚障害の重複障害の方のお話をうかがえて、かなり理解を深めることが出来たと思います。
最後に小林さんの、リハビリは必要なんでしょうか、というなげかけ、そして、佐藤先生の、90分の講義が出来た時初めて病気を受容出来ました、というお言葉は、我々医療従事者は常に心に留めておかなければならないと思いました。
野崎正和 (京都ライトハウス鳥居寮;歩行訓練士)
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懇親会の音楽会はとても楽しいものでした。残念なことは、私が演歌人間で、ジャズなどを聞いてもよくわからないという点です。それで何が楽しいのかといえば、演奏している皆さんが、長くされているすごく上手な方から、それほど長くない方までとても楽しそうに演奏しておられたことです。楽器を演奏できるのはいいなーと思いました。
さて、以前から佐藤正純先生のお話をお聞きしたかったのですが、安藤先生のお力でかないました。しかし、私はパネラーになっていなければ、2月の新潟まで聞きに来れたかどうか分かりません。 そういう意味では、たくさんの参加者の皆さんに恥ずかしい限りです。先日、佐藤先生のお話をCDにして当事者のB氏にプレゼントしました。最近B氏も地域の学校や老人会などでお話をする機会が少しずつ増えていますから、佐藤先生のこなれたお話がとても良い教材になると思います。
立神粧子(フェリス女学院大学教授)
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佐藤先生は、おひとりで自分と向き合う力をお持ちの方で、自らの能力を最大限に生かしていらっしゃるところが素晴らしいと思いました。Ruskの「自己同一性」の哲学と共通する哲学をもって、今もこれからも、重複障害を持って生きるということに真摯に取り組まれていかれるであろうと思います。
新潟市 精神科医
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初めて参加しましたが、このような会が長年継続されていることが素晴らしい。医師・専門職・当事者・一般の色々な立場の方が一緒に集まり勉強できる会で、しかも全国各地から集まっておられる事に驚きました。今回は精神病とは違う脳神経的障害である脳機能障害に関心を持って参加しました。
佐藤先生は心身ともに強靱な方で両方の力が相俟って回復されたかと感じました。同業者としては特に意識が戻らないときに回復したきっかけが、ポケベルで「先生急患です」と呼ばれたことに反応したというお話は大変印象的でした。リハの途中で「これ以上は無理」と打ち切られたときに、逆に奮起してアクティブになり試行錯誤して自立的にリハを行ったこと、一日一日の変化は分からなくても一週間、一ヶ月前の自分と比べて「自分を誉める」こと、自分を高めて行く努力、そして遂に一人歩きできるようになる、その過程に感動しました。
耳からの情報は生の能力を喚起するような力があるのではないでしょうか。小さいときからの音楽的情緒的な豊かさが生きるのに役立った様に思います。 本日は哲学的な感慨も受け、「死は諦めで、生は明めである」という言葉など貴重な示唆を頂きました。病気ではなく事故で起こった高次脳機能の障害について学ぶ良い機会を与えて頂きありがとうございました。
新潟市 リハビリ医
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今回は、公開講座にお招きいただきありがとうございました。リハビリテーション医療に携わるものとして感じたことを簡単にまとめてみました。
佐藤正純先生の講演
高次脳機能障害と視覚障害という難しい障害の重複にも関わらず、目標をたてて、実行していくその力に感動しました。自らリハビリテーションプログラムを作ったことなど驚かせられることばかりでした。原動力は「明るさ」でしょうか。一方、リハビリテーション医療に対する鋭い批判にはリハビリテーション関係者としていろいろ考えされられました。リハビリテーション医療は、医療者がゴールを設定し、ゴールに到達したと判断した場合は終了とするのが普通です。しかし、医療者が判断するゴールは必ずしも正確ではないこと、利用者の希望や要望を聴いているのか疑問であることが佐藤先生の例からわかります。障害が変化していく可能性を念頭に、フォローして、状態に応じた適切な対応をしていくことの必要性を感じました。
質疑で出された意見について
リハビリテーションは必要ないのではというのは極端だと思いますが、リハビリテーション医療が高次脳機能障害に対応できていないのは事実だと思います。障害の評価も難しい上、検査の結果から活動(生活、仕事、自動車運転など)の制限を説明しにくいこと、さらに、職業リハビリテーションと医療が連携していないことなど問題点が多いのが現状です。今後の課題と受け止めます。
最後に、医療者、障害者が一同に会して勉強するという貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。
新潟市 病院ソーシャルワーカー
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この度はシンポジウムに参加させていただきてありがとうございました。とても実りのある会だったと思います。佐藤 正純先生の聡明さと素晴らしさにとても感動しました。障害の事を誰よりもご理解なさっている先生にとって、障害を受け入れる事がどんなに難しかったことかと思いますが、今の人生を楽しんでいらっしゃる姿が眩しかったです。
『新潟ロービジョン研究会2010』 2)シンポジウム
シンポジウム 『見えない』を『見える』に
シンポジスト:
稲垣 吉彦 (有限会社アットイーズ 取締役社長)
「見えないってどんなこと?」
永井 和子 (視覚障害生活訓練等指導員;長崎障害者支援センター)
「見えなくてもできる」
田中 宏幸 (教諭;新潟県立新潟盲学校)
「見える喜び・できる喜び~教育の立場から~」
柳澤 美衣子 (視能訓練士;東京大学医学部付属病院眼科)
「視野評価とロービジョンケア」
仲泊 聡 (眼科医;国立障害者リハビリセンター病院第二診療部長)
「とっても眩しいんです」
司会:加藤 聡 (東京大学眼科)
張替 涼子(新潟大学眼科)
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院眼科)
コメンテーター:
山本 修一(千葉大学大学院医学研究院眼科学教授)
林 豊彦 (新潟大学工学部福祉人間工学科・教授)
小田 浩一 (東京女子大学人間科学科教授)
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1.「見えないってどんなこと?」
稲垣 吉彦
有限会社アットイーズ 取締役社長
私が以前のように見えるようにはならない現実を知ってから今年でちょうど15年が過ぎました。この間、仕事を失い、家庭を失い、再度大学生活を経験し、再婚、再就職、独立起業と周りの環境はめまぐるしく変化しました。そして現在はパソコンをはじめとする視覚障害補償機器の販売とサポートを業務とする会社を経営する傍ら、医療機関や福祉施設からのご紹介を受け、ボランティアでいわゆるピアカウンセリングを行っています。
今回はその事例を2つほど挙げ、見えないってどんなことなのかを考えてみたいと思います。
(事例1) 30代前半女性(ぶどう膜炎患者)
4年ほど前拙著「見えなくなってはじめに読む本」を読んだという、50代中盤のお母様から「自分の娘もぶどう膜炎で、完治する見込はないと医者に言われている。娘がかわいそう
なので、これから娘を殺して自分も死ぬ。」という内容の電話を受ける。約3時間の電話カウンセリングを行い、私自身がお世話になっていた眼科医を紹介し、最悪の事態は回避した。毎年この時期になると、近況報告のお手紙をいただき、母娘ともに良好な関係を保ちながら、人生を楽しんでいる様子がうかがえる。
(事例2)
弊社の業務の一環として、就労継続支援を行う中で、様々な企業の人事担当者、役員など37名に対して「もし今あなたが見えなくなったら何ができると思います」という質問をした結果、28名については「書類を見ることができない。」「通勤自体ができない。」「コピーがとれない。」などできることではなく、できないことをその質問に対する回答とした。
上記2つの事例に共通することは、見えなくてできないことは想像しやすいが、見えなくてもできることはなかなか思い浮かばず、考えれば考えるほど負のスパイラルに陥るということなのではないかと思います。ではなぜこのようにマイナスのイメージしか思い浮かばないのか?様々な要因が考えられると思いますが、私は見えないことに関する情報不足や知識不足に起因する部分が大きいのではないかと思います。
見えないことは決して何もできないこととは違います。長い人生のある時期に、たまたま科せられた現実でしかありません。見えていても、見えなくても一度きりの人生です。見えない人生のひとときをただ単に悲観して過ごすのではなく、希望を失わず、自信と誇りを持って、ともに力強く生き抜きましょう。
略歴
1988年 明治大学政治経済学部経済学科卒業、株式会社京葉銀行入行
1994年 ぶどう膜炎(原田氏病)および続発性緑内障発症
1996年 視覚障害のため同行退職、筑波技術短期大学情報処理学科入学
1999年 株式会社ラビット入社
2006年 有限会社アットイーズ設立
2009年 視覚障害者情報総合ネットワーク「サピエ」ポータルサイトプロジェクト委員
2010年 筑波技術大学 保健科学部情報システム学科 非常勤講師
2.「見えなくても出来る」
永井 和子
視覚障害生活訓練等指導員;長崎こども・女性・障害者支援センター
「見えなくても出来る」ということを、相談に来られた方やそのご家族、その他より多くの方々に理解して頂くことが、私たちの仕事であると日頃から思っております。人生の途中で目が不自由になった方は、日常生活をスムーズにする為に、かなりの努力をされます。しかしご本人の努力だけでは難しいところがあります。周囲の方の理解が必要です。私はご本人に始めてお会いした時、いかに保有感覚を使うかというお話をします。でもただ話しただけではどなたも納得しません。実感して頂くことが一番良いようです。
入院中の男性です。「何かご不自由はないですか?」と尋ねたら、「みなさん良くしてくれるので何もありません。でも入院してから10個の湯呑みを割りました。湯呑みは買い換えればよいのですが、忙しい看護師さんに申し訳なくて」とおっしゃいました。そこで机上探索方法をお知らせしました。一ヶ月後「あれから一個も湯呑みを割ってません。ありがとうございました」 そして、「玄関まで行きたいのですが・・・」とおっしゃいました。私は心の中で「ヤッター」と叫びました。玄関で目にしたパンジーの花に私は「うわー、きれい」と思わず声が出ました。その方の手を花に誘導すると、その指先はひとひらひとひら花びらを触れていきました。「この花の色は?」「黄色です」「この花は?」「紫です」「思い出しますねー、きれいですねー」と言われました。まさに「見えない」から「見える」への瞬間でした。その後は順調に進みました。
次は盲ろうの方です。弱視難聴の方です。白杖はまだ必要ないと思っている方で、訓練の時間はお話をして過ごしていました。ある日その方から言われ、屋内の階段から自動ドアがある玄関まで歩きました。数回そのルートを歩いた後のことです。「空気で分かるんですね、外に出たことが」と言われました。そして、「嬉しい、自分で分かったことが嬉しい」と。これもまた「見えない」から「見える」への瞬間でした。この時私は思いました。「歩行訓練士は喋りすぎないこと」自ら感じることの尊さ。この喜びは彼女の大いなる次へのステップになることでしょう。
また研修会の時は周囲の方の理解を深めて頂くために、紙幣弁別封筒をお渡しし体験して頂きました。「見えなくても出来る」ということを理解して頂けたと思います。
略歴
1951年 長崎市に生まれる。
1971年 長崎県立保育短期大学校卒業
1984年 長崎県立啓明寮勤務
厚生省委託歩行指導者養成課程修了
1998年 厚生省委託リハビリテーション指導者養成課程修了
2004年 厚生省委託視覚障害生活訓練等指導者養成課程2年生修了
2007年 長崎こども・女性・障害者支援センター勤務 現在に至る
3.「見える喜び・できる喜び~教育の立場から~」
田中 宏幸
新潟県立新潟盲学校教諭
「見る」という働きは視覚を通じてのものだけなのだろうか、視覚以外の感覚に頼る幼児児童生徒は、「見えない=できない」のだろうかという疑問があるとしたら、答えは間違いなく「No」です。新潟盲学校に勤務していて、実際、点字を使用している当校の幼児児童生徒は他の感覚を上手に使って、十分「見て」います。このようなことから、「見る」「見える」というのは「わかる」「できる」ということばに置き換えて考える必要があるのではないか考えています。
実際、見えづらさから漢字の学習を苦手としていて、漢字学習に消極的な生徒がいました。「自信を持ってほしい」と願い、そのためには成功体験を積むことが必要だろうと考え、漢字検定の受検・合格を目指して、取り組みました。また、教科書の音読についても拡大読書器を継続的に使用して音読練習に取り組んだ結果、最初は1分間に40字程度の速度でしたが、1年間経つ頃には1分間に200字程度読むことができるようになりました。また、将来一人でいろいろなところに出かけ、自立した生活を送りたいという強い希望を持っている生徒にATMの活用・切符購入・身辺整理(掃除機・ほうき・ちりとり)・援助依頼(コンビニ・駅)・単独帰省など、家庭からのご協力をいただきながら意図的・系統的に進めていきました。
当時を思い返しつつ、現在感じていることとして「いろいろなことに対して最初はうまくできるか不安だったが、回を重ねるごとになれてきた。何とかできるんじゃないかという気がしてきた。ATMの活用は今でも継続しているので自信がある。援助依頼についてはその必要性は十分理解しているが、自分の意志を伝えるのはまだ難しい。」と感想を述べています。
「見える喜び・できる喜び」のためには、適切な支援(専門機関との連携)、本人の「できるようになりたい」「やってみたい」という意欲、そして保護者とのよりよい連携が必要なのではないかと考えています。
経歴
1991年 日本大学文理学部 教育学科 卒業
1991年~ 県内中学校 勤務
2003年 上越教育大学大学院 臨床心理分野 修了
2003年~ 新潟県立新潟盲学校 勤務
4.「視野評価とロービジョンケア」
柳澤 美衣子
東京大学医学部付属病院眼科 視能訓練士
視野は網膜全体の機能を反映するだけでなく、網膜の情報を脳に伝える視神経および脳の視覚中枢の機能にも関係している。そのため、視野障害の程度はどの部位が、どの程度障害されたかなどによって異なる。
実際に視野障害といっても求心性視野狭窄、中心暗点、輪状暗点など様々な形、広さがあり、保有視野の位置も異なるので視野障害者における見え方や日常体験する困難な行動は一人一人異なる。視野障害のために、生活に不自由が生じているにもかかわらず、自分の眼は「どのように見えているのか」という「見え方」、「どのようにしたら見えるのか」という「見かた」をしっかりわかっている人は少ないように感じる。
視野障害者が自分の「見え方」を理解する、つまり自分の視野の状態を正しく、自分の行動の困難の問題と関係づけて考えられるかが重要である。保有視野を効率的に利用するための「見かた」を習得することが今回のテーマである「見えない」を「見える」に変える一歩だと考えた。視野障害者に自分自身の見え方、見かたを理解して頂くためには日常生活空間での実際の見え方を具体的に説明し、実際の見え方を体験して頂き納得してもらう必要がある。そのためには、まず保有視野の活用に重要な「距離と見え方の関係」について理解しておく必要がある。
今回は代表的な視野障害である求心性視野狭窄、中心暗点の距離と見え方について述べた。視野狭窄の場合、見える範囲の面積だけを考えると距離が遠くなるほど見える範囲は大きくなる。しかし、遠方では見る対象物自体が小さく網膜に投影されることになり、対象物を判断するには、「眼の高い解像度」が要求される。近くになるほど見える範囲が狭くなるので、近くのものは視界からはみだしてわかりにくく、そのため「近くのものにぶつかる」ことが多くなる。また中心暗点の方は、同じ対象物を見ている場合、見る距離が遠くなるほど暗点で隠れる範囲が大きくなるので、遠くにあるものは気づきにくくなる。同じ対象物を見る場合は、近づいて見た方が、対象物に対して暗点で隠れる割合が少なくなる、つまり暗点の影響が小さくなる。さらに中心暗点をもつ視野障害者の「見かた」である偏心視の簡単な評価法と訓練法について述べた。
視野障害者が自分自身の見え方を理解することは、どこを見れば眼を最大限活用できるのかという「見かた」を習得することにもつながり、さらには自分自身の視野を理解した方は、周囲に自分の見え方を伝えることができるようになり、視野障害を理解してもらえることで、助けてもらえることも自然と増えるのではないかと思われる。
略歴
2004年 大阪医療福祉専門学校 視能訓練士学科 昼間部 卒業
2004年~東京大学医学部付属病院 眼科 勤務
2007年 北里大学大学院医療系研究科臨床医科学群眼科学 博士課程入学
2010年 博士課程修了 医学博士学位取得
5.「とっても眩しいんです」
仲泊 聡
国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部部長
ロービジョンの患者さんには、普通の明るさであるにもかかわらず、とっても眩しがり、あまりに眩しくて目を開けていられないというほどの人もいる。ところが、この「まぶしい」という感覚のメカニズムは未だに解明されていない。そこで、最近出会ったとくに眩しがった患者さん3名の症例報告を行い、羞明のメカニズムについて考察する。
症例1:54歳女性、網膜色素変性症。視力は両眼手動弁。オレンジ系の遮光眼鏡を好む。
視神経乳頭の色は悪くなく、OCT(光干渉断層像)でも神経線維層の厚みは保たれていた。
症例2:38歳男性、糖尿病網膜症。視力は右0.02(n.c.)、左光覚無し。レーザー治療・硝子体手術後。
羞明に対し、現在、遮光眼鏡CCP400TR/TS(透過率20%-91%のグラデーション)を試用中。
この症例の視神経乳頭も視力低下のわりに萎縮が目立っていなかった。
症例3:19歳女性、緑内障。視力は右0.01(0.2)、左0.01(0.02)。遮光眼鏡CCP400FR(22%)を常用。
緑内障としては視神経乳頭の陥凹はほとんどなく、OCTでの神経線維層厚はむしろ健常者より厚いくらい。この患者は驚いたことにFRだけでなく、550nm以上をカットするブルーフィルタでも羞明が軽減するという。
眼疾患がもとで視細胞の変性が生じると神経節細胞への入力が減る。この結果、もしかすると神経節細胞に脱神経過敏’※1)が起きているのかもしれない。S錐体や杆体が変性するとBistratified神経節細胞(※2)にそのような変化が生じるかもしれない。仮にそうなら、このメカニズムで生じる羞明には青い色をカットするフィルタが有効かもしれない。症例1では、網膜色素変性症の発生過程から充分その可能性が考えられる。症例2においても、レーザー治療後に羞明が生じているので同様だ。しかし、症例3では、むしろM, L-錐体の最大吸光度に当たる530-570nm付近の光(FRとブルーフィルタの共通部分)を充分に遮光するフィルタが有効で、前二者とは異なるメカニズムの存在が示唆された。症例3は、主症状に不眠や頭痛があり、ipRGC(※3)の障害(または過敏)ではないかと考え、精査中だが、その決定的証拠はまだ得られていない。
羞明の発生にはおそらく複数の原因といくつかの発生メカニズムが関与していると考えられるが、その実態は全くつかめていない。今回のような強度の羞明をきたした症例の詳細をさらに検討することでその原因、発生メカニズムを突き止めることができるかもしれない。
発表の最後に平成22年4月から変更になった視覚障害者用補装具としての遮光眼鏡の支給対象者要件について紹介した。
※1 脱神経過敏 ~ 入力がなくなった神経細胞は、時間とともに僅かな入力にも反応するようになるという神経細胞の一般的な特性のこと
※2 Bistratified神経節細胞 ~ S-錐体系の信号を運ぶ神経節細胞のこと。S-錐体と杆体から促進性のM, L-錐体から抑制性の信号を受ける。色の信号を処理する神経細胞としてはその守備範囲(受容野)は大きい。
※3 ipRGC ~ 概日リズムや明所視での縮瞳の持続に関連し、いわゆる「見る」ため以外の視覚情報を伝えていると考えられている、最近発見され注目されている神経節細胞である。S-錐体から抑制性の、M,L-錐体から促進性の信号を受け、自ら485nm付近をピークとする波長帯を感受するメラノプシンと言う視物質を有している。
略歴
1983年3月 学習院大学文学部心理学科卒業
1989年3月 東京慈恵会医科大学医学部卒業
1995年7月 神奈川リハビリテーション病院眼科
2004年1月 Stanford大学留学
2007年1月 東京慈恵会医科大学眼科学講座准教授
2008年2月 国立身体障害者リハビリテーションセン ター病院 第三機能回復訓練部部長
2010年4月 国立障害者リハビリテーションセンター病院 第二診療部部長
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【後記】
全国21都府県から140名を超える方が参加し、会場は熱気に溢れました。
地域別にみると、新潟県内から92名(うち新潟市80名)、新潟県外から50名(東京都14名、三重県4名、埼玉県4名、兵庫県3名、福島県3名、山形県3名、高知県2名、長野県2名、栃木県2名、長崎県、大阪府、京都府、岐阜県、愛知県、静岡県、石川県、富山県、千葉県、宮城県、青森県)。
職種別では、医療関係者(医師・視能訓練士・看護師など):52名、当事者・家族・ボランティア:45名、その他(教育・福祉・医療関係・市民・学生):45名。
今年のテーマは、「『見えない』を『見える』に」でした。眼の疾病を治療して視機能を改善するのは、眼科の仕事です。しかし、眼科でもはや治療できないと言われた多くの人が、社会で活躍しています。眼科だけではなく多くの分野の方々との関わりにより、視覚に障がいを持つ人が、自立し社会で活動することを可能としているのです。
「『見えない』を『見える』に」は、字義通りの視機能の面からの意味と、もう一つの意味が含まれていたように思います。それは、フロアから発言された方の「見えなくなったけれど、先の見
通しが立った」という言葉に象徴されていると思います。私達の仕事は、その双方をサポートすることなのだと改めて感じました。
「『見えない』を『見える』に」するために全国的に活躍している医療関係者と当事者、教育・福祉の方々に集まって頂き、可能性と現在での問題点について語って頂きました。「自分に何が出来るのだろうか」が、問われた研究会だったと思います。
今回も多くの収穫と、出会いがありました。
『新潟ロービジョン研究会2010』 1)特別講演
テーマ:「『見えない』を『見える』に」
日時:平成22年7月17日(土) 14時~18時20分
場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
1)「前進する網膜変性の治療」
山本 修一 (千葉大学大学院医学研究院眼科学教授/
日本網膜色素変性症協会副会長)
2)「ロービジョンで見えるようになる」
小田 浩一 (東京女子大学人間科学科教授)
3)「障がい者が支援機器を活用できる社会に」
林 豊彦 (新潟大学工学部福祉人間工学科・教授)
【特別講演】 1
「前進する網膜変性の治療」
山本 修一
千葉大学大学院医学研究院眼科学教授
日本網膜色素変性症協会副会長
網膜色素変性を代表とする網膜変性疾患は、長らく「不治の病」とされてきたが、最近の研究の急速な進歩により、臨床応用間近になりつつある。
1.網膜色素変性治療の方向性
1)遺伝子治療:遺伝子異常によって生じる網膜色素変性では、本質的治療と考えられるが、既知の遺伝子異常が少ない。また発症初期に治療を開始する必要がある。
2)神経保護:網膜色素変性の本質的治療ではないが、視機能の延命が目的。
3)人工網膜:視細胞が消滅した場合には、人工網膜か網膜移植が適応となる。
4)網膜再生・移植:網膜の再構築が最終目的であるが、まだ道は遠い。
2.レーベル先天盲における遺伝子治療
1)レーベル先天盲はRPE65遺伝子の欠損が原因であり、幼少期から重度の視力障害、眼振を生じる。イヌの実験モデルを対象に、アデノウイルスに正常遺伝子を結合させ網膜下に注入したところ視機能の改善がみられた。
2)初期の第1相臨床試験は米英の施設で、年齢の高い症例を対象に、安全性確認のために行われた。硝子体手術を行い、ウイルスベクターを網膜下に注入した。黄斑円孔などの手術関連合併症はあるが、ウイルス関連の合併症はみられなかった。視力、網膜感度、薄暮下での行動改善が得られ、この結果は米国の3大ネットワークや英国BBCのニュースで大々的に報じられた。
3)現在は第2相臨床試験が米英の施設で31例に施行中で、最長2.5年の経過観察が行われている。全例で視機能の改善がみられ、視野の拡大、ウイルス注入部分の網膜感度の改善、補助具なしで字を読む、すたすた歩く、などの効果が得られている。
4)遺伝子治療の展望:遺伝子治療を行うには、原因遺伝子の特定が必須である。また視機能の改善を得るには、比較的発症早期に治療に取りかかる必要がある。また優性遺伝では、異常遺伝子の働きを停止させる必要があり、干渉RNAによる臨床試験が計画されている。
3.毛様体神経栄養因子による神経保護
1)毛様体神経栄養因子(CNTF)は13種類の網膜変性モデルマウスで網膜保護効果が得られており、原因となる遺伝子異常に無関係に保護効果を示す。CNTFを作るように遺伝子操作したヒトの網膜色素上皮細胞を特殊なカプセルに入れ、このカプセルを眼内に埋植する。カプセルからはCNFTだけが放出され、細胞に対する免疫反応も起こらない。
2)安全性を確認するための第1相臨床試験は、10名の網膜色素変性を対象に6ヶ月間行われた。合併症はみられず、視機能が改善する症例もみられた。
3)現在は第2相試験が133例の網膜色素変性を対象に米国と欧州で進行中。視力、視野、網膜電図(ERG)などの視機能の改善はみられていないが、OCTで視細胞核厚の増加や、AO-SLOで錐体密度の減少の抑制がみられている。萎縮型加齢黄斑変性に対する臨床試験も並行して行われており、視力の維持や網膜厚の増加が観察されている。
4.ウノプロストン点眼による神経保護
1)0.12%ウノプロストンはすでに緑内障点眼薬として長い歴史があり、ヒトで点眼によりエンドセリン1の抑制を介して、脈絡膜血流を増やす。ラット光障害モデルでは、硝子体内投与で視細胞の変性が抑制される。
2)千葉大で30名の網膜色素変性患者を対象に予備試験施行。半年間点眼により、平均視力は若干低下したが、中心部の網膜感度は有意に上昇した。
3)千葉大でのパイロットスタディの結果を受けて、0.15%オキュセバ点眼の無作為二重盲検試験を全国6施設で109名が参加して施行された。プラセボ、一回1滴点眼、一回2滴点眼の3群に無作為に分割。網膜感度の悪化は、プラセボ群21.2%に対し、2滴群は2.6%で有意に抑制された。この他に、視覚関連QOLの有意な改善もみられた。今後は早期の承認を目指す。
略歴
1983年 千葉大学医学部卒業
1989年 富山医科薬科大学眼科講師
1990年 米国コロンビア大学眼研究所研究員
1994年 富山医科薬科大学眼科助教授
1997年 東邦大学佐倉病院眼科助教授
2001年 東邦大学佐倉病院眼科教授
2003年 千葉大学大学院医学研究院眼科学教授
2007年 千葉大学病院副病院長、日本網膜色素変性症協会副会長
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【特別講演】 2
「ロービジョンで見えるようになる」
小田 浩一
東京女子大学人間科学科教授
昨年2009年の日本眼科医会では、ロービジョンの人口は144万人、視覚障害全体で164万人、その経済損失効果は年間約9兆円にもなり、ロービジョンが社会に与えるインパクトは小さくないという報告がなされた。ロービジョンが社会に与えるインパクトが小さくないわりには、ロービジョンという問題はあまり知られていない。一般の人がロービジョンという概念を受け入れるのに時間がかかっているのにはいろいろな理由があるだろうが、キラーアプリがないこと、これという核になる売りがないからではないのだろうか。
ロービジョンという言葉は、見えないことの代名詞であり、障害者というレッテルを貼られることを意味し、持ちたくもない白杖をもたされることを意味している。一般の人から見れば、視覚障害福祉といえば点字の情報サービスや、点字ブロックなどの誘導サービスということになるだろうが、多くのロービジョンの人からすれば点字も点字ブロックもあまり有効なサービスとは言えない。ロービジョン外来に行ったところで、虫眼鏡や安い便利グッズを紹介されて、好きなものを貸出してくれるだけで、見えるようになるわけでもないということになっていないだろうか。虫眼鏡なら文房具屋でも売っているし、100円ショップで便利グッズを探す事ができる。高度な他の眼科医療サービスと比べて、ロービジョン(ケア)は非常に素人っぽい、専門性の低いサービスとして患者の目には映るはずである。こういう状態ではロービジョン(外来)にまた行こうとは思わないし、たいしたサービスも恩恵もないのに障害者のラベルを貼られるのは御免だと思うのはごく自然なことと思われる。
では、これまで眼科の治療でも見えるようにはならなかったのが、眼科でロービジョン(ケア)というのをしてもらうと見えるようになるらしいよということになればどうだろうか?眼科に来る患者さんは、自分の目の視力がどのくらいだとか、視野がどれくらいだとかは知らないけれど、たいてい何か大事なものが読めなくて困難を経験している。それが患者にとっての「見えない」ということの意味である。眼科医療では、視力がいくつで治療できない病気の状態だという専門的な診断で終わってしまうような場合もあるだろう。言い換えれば、これまでの眼科の治療では「見えない」ままだということになる。一方、ロービジョンの専門家は、多くの場合、拡大鏡1つきっちり処方すれば患者さんは読めるようになることを知っている。きっちりした処方とは、多種多様な虫眼鏡を紹介することとは違う。読めるようになる適切な拡大鏡はこれだとフィッティングするのである。眼鏡処方と良く似ている(ロービジョンの眼鏡処方も通常の場合とは異なり専門性が必要になる。なぜなら、患者はもともと視力が低かったり使える視野が狭かったりして、自覚的に良く見える方を応えるのが困難だからである)。
ロービジョン(ケア)で読めない困難が解消すれば、患者からすれば「見える」ようになったということになる。これまでの医療では視力が低いままで病気が治らなくても、ロービジョン(ケア)という新しい医療では患者が「見える」ようになって帰って行く。これは、一般人の言葉では治る、見えるようになるということだろう。屈折異常は治療しないで眼鏡で見えるようにするというのと基本的に同じ発想だ。実際には視力があがるわけでもないが、患者さんには眼鏡で0.01から1.0に見えるようになったという印象を与えている。もちろん、それだけですまない人もあり、さまざまなサービスや他の補助具への橋渡しも非常に重要だが、コアになるポジティヴな概念=「ロービジョンで見えるようになる」ことが重要であるように思える。
略歴
1984年 東京大学大学院人文科学研究科・博士課程(実験心理学)中退
1984年 国立特殊教育総合研究所・視覚障害教育研究部・研究員
1987年 NYU心理学部へ在外研究員
1992年 東京女子大学・コミュニケーション学科・専任講師
1994年 同助教授
2001年 同教授
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【特別講演】 3
「障がい者が支援機器を活用できる社会に」
林 豊彦
新潟大学 自然科学系 教授
工学部福祉人間工学科/
大学院自然科学研究科・電気情報工学専攻
新潟市障がい者ITサポートセンター長
視覚障がい者であってもパソコンを使用し、テキストデータであれば文字を音声化ソフトで読むことができる。携帯電話を使用すれば、インターネット接続によって文字・画像を送ることができる。電子情報通信技術は、障がい者の「不可能」を「可能」に変えてしまった。機器・システムという環境要因の変化によって、障がい者の「参加」と「活動」を大きく拡大できるようになった。あとは、使うべき人が使えるようになることと、どう利用するかである。
1.支援技術とは何か?
疾病や事故で心身の機能が損なわれると、社会への「参加」や「活動」に制限が加わる。しかし、それを補う機器・システムを利用すれば、その制限をなくしたり、軽減したりすることができる。義肢や車いすはその典型だ。障がい者のリハビリテーションを支援する技術分野を「リハビリテーション工学」という。高齢者は必ずしも障がい者ではないため、心身機能が単に低下した人の支援は含まない。そこでより広い意味をもつ「支援技術」(assistive technology)という用語が使われるようになった。機器からサービスまで含む広汎な概念である。支援機器の使用で大切な点は、「残存する身体機能をうまく利用して、機器・システム・環境にアクセスできるようにすること」であり、人との接点である「ヒューマンインタフェース」の選択と適合がポイントとなる。
2.支援機器に関するアンケート調査
2008年10月に、障がい者支援を目的として「新潟市障がい者ITサポートセンター」を開設した。新潟市内の障がい者を対象として、現状とニーズの調査を実施し、約800票の有効回答を得た。驚いた。障がい者は、自立・生活・就労に有効な支援機器をほとんど知らない。視覚障がい者では、拡大読書機を80%が、スクリーンリーダーを92%が知らない。支援機器を知らないのだから、それを利用したいという社会的ニーズは存在しない。知られていなければサポート体制をいくら充実しても、利用してくれる人は限られる。一時期、障がい者ITサポートセンターは、国の支援によって全国各地に誕生したが、しだいに閉鎖された。理由がわかった。ニーズがない訳ではない、知られていないだけなのだ。「ニーズの顕在化、および顕在化後の広汎なサポート体制の確立」、これが障がい者ITサポートセンターの課題だ。
3.新潟市障がい者ITサポートセンター
当センターは、新潟大学自然科学系附置・人間支援科学教育研究センターが新潟市から受託した。職員は、兼任のセンター長である私、専任の支援員、非常勤事務員の3人のみ。関連機関との連携が必要であるため、協力関係にあった新潟県障がい者リハビリテーションセンター、新潟県難病相談支援センター、新潟市視覚障がい者福祉協会の代表に、運営委員として参加頂いた。外部から活動を評価いただくために、新潟県立高等養護学校、日本ALS協会新潟県支部、新潟市ろうあ協会、自立生活センター新潟などの代表に、評価委員を委嘱した。
事業は「支援環境整備事業」と「支援事業」だ。支援環境整備事業では、「支援機器が知られていない、使われていない」という事実から、障がい者が必ず通過する「病院」と「学校」にターゲットを絞り、積極的に介入した。教師、リハスタッフ(OT、PT、ST、医療SWなど)、保護者、地域のボランティアを対象として、月1回以上のペースで説明会・研修会・体験会を続けた。いわば合法的な「押し売り」だ。その甲斐あって、2007年4月には13件しかなかった相談件数は増加し、現在では、50件前後で推移している。さらに、16の組織・機関との協力体制も確立できた。
関連機関との協力体制は、IT サポートセンターの課題のひとつ「ニーズ顕在化後における広汎なサポート体制の確立」に多くの示唆を与えてくれた。センター職員3人では、広汎なサポートなど不可能だ。解決策は、センター機能の分散化および支援の階層化だ。病院のリハスタッフや教員の一部に支援技術に関する基本的な知識・技能を身につけてもらえれば、簡単なケースは学校や病院の現場で解決することができる。難しいケースだけ、サポートセンターと恊働で対応すればよい。
もうひとつは、専門家集団によるチームアプローチの有効性だ。病院では、リハスタッフ、医療SWとの連携が不可欠だ。単に医療リハビリの質向上だけでなく、退院後におけるQOL向上にもつながる。支援技術には、医療と社会福祉とのインタフェースとして機能があることがわかった。特別支援教育でも、教師、保護者、リハスタッフとの恊働が不可欠だった。多くのケースで、当センターはコーディネーター役も果たした。ITサポートセンターといえば、PCを中心とする情報通信機器や支援機器の選択・適合、それにPC教室を思い浮かべるかもしれない。しかし実際に始めてみると、学校でも病院でも、他の専門職と恊働しながら「利用者にとって最良の支援とは何か」という本質的な課題に取り組むことになる。
これこそが、障がい者ITサポートセンターの本当の仕事であると信じる。
略歴
1979年 新潟大学大学院工学研究科修士課程修了,新潟大学歯学部・助手
1986年 歯学博士(新大歯博第50号)(新潟大学)
1987年 新潟大学歯学部附属病院・講師
1989年 工学博士(工第1613号)(東京工業大学)
1991年 新潟大学工学部情報工学科・助教授
1996年 米国Johns Hopkins大学客員研究員
1998年 新潟大学工学部福祉人間工学科・教授
2008年 新潟市障がい者ITサポートセンター長(兼任)