2015年2月8日

 演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
  日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要約】
1.現在化粧の動向と視覚障害者
 化粧は,顔の容姿を美しく装うだけのものではなく,社会人女性としての「身だしなみ」と言われるまでになっている.現在では1人の成人した女性として社会に参加するには,「身だしなみ」の1つとして化粧することが習慣化されている.
 女性が美しくなることに関する研究や商品開発は止まることを知らず,綺麗な容器に身を包んだ化粧品や美容アイテムが次々と生産されて女性を魅了し続けている.昨今では若者女性の間で,目を大きく魅力的に見せるアイメイクの流行により,マスカラ,付け睫毛,アイライン,カラーコンタクトレンズなどを着用し,華やかで個性ある化粧を施す女性が多くなった.
 今や化粧は社会人女性としての「必須アイテム」となり,「アイデンティティ」の確立に寄与しているとさえいわれている.また化粧の本格的な習慣化は,成人としての社会参入条件であるとの指摘もある.これらの報告から現在社会における化粧は,女性にとって,自身の生き方や社会生活と大きく関連するものであることが指摘できる. 

2.化粧と視覚障害者の現状
 化粧社会と言われるなかで,視覚に障害を有することで自分自身の顔を鏡で見ることが不自由な女性は,化粧をしなくなる傾向がある.その背景には,視覚に障害を有しながらも化粧を試みるが,他者からの低い評価を受けたことで自信を失い,自己肯定感が低くなるなどの心理的な影響によるものが多い.低い評価の例として,「化粧がムラになっている」「チーク(頬紅)やアイブロー(眉毛)が右対称ではない」「口紅がはみ出している」「化粧が濃すぎる」などがあげられている.
 このような低い評価を受けたことで,化粧することに対して不安や恐怖を感じて,化粧をしなくなる傾向にある.また,化粧したくてもできないことでコンプレックスを持つ女性も多い.これらから,視覚に障害を有する女性にとって化粧をしたくてもできないことは,化粧社会の女性の中で疎外感を持つことにつながり,女性性を低下させる要因の1つになっているのではないかと考えた. 

3.視覚障害者に向けた化粧支援
 演者は化粧活動の中で,化粧したくてもできないことでコンプレックスを抱えている視覚障害者に多く出会った.この出会いがきっかけとなり,視覚障害者に化粧の色彩や仕上がりを音声にした情報を提供することに関心をもった.
 化粧品や色彩などの美容情報を口頭で伝えながら化粧施術をすることで,視覚障害者は自身が化粧により綺麗になっていく工程を化粧施術者の音声情報により認識して,化粧を楽しむことができた.また他者から「綺麗」「可愛い」「美しい」など女性特有の称賛を受けることで自信を取戻し,外出支援に繋がると期待された.
 しかし,この活動には限界があった.それは化粧技術者が視覚障害者に化粧を施した直後の場合では綺麗に仕上がった状態であるが,「食事をすると口紅が落ちた」「汗で化粧が崩れた」など化粧にはパーマネント性がないため,1度化粧崩れしてしまうと「化粧直し」という2次的な支援まで活動が行き届かないことであった. 

4.「ブラインドメイク・プログラム」の開発
 そこで演者は,視覚障害者に化粧施術者によって化粧すること自体を抜本的に見直した.視覚障害者が他者からの施しによって化粧されるのではなく,自分自身で化粧ができる「化粧の自己実現」に意義があると考えた.この考えから,2010年に鏡を見なくてもフルメイクアップができる「ブラインドメイク」の化粧技法を開発した.
 そして,化粧の仕上がりは結果主義や成果主義であることから,化粧工程に工夫とテクニックを組み入れた.化粧の仕上がりを「バランスの取れた自然な仕上がり」に見せることを課題として合理的かつ効率的な化粧技術を追求した.この研究から無駄な動きを省いて合理的かつ効率的に鏡を見なくても化粧することができる「ブラインドメイク・プログラム」.(映像視聴:12分30秒)を完成させた 

5.障害者ではなく,ひとりの女性として
 ブラインドメイクができるようになった視覚障害者の女性は,「自信が持てる」「外出したくなる」「人と話がしたくなる」(心理的有効性),「元気になる」「食欲が増す」(身体的有効性),「周囲の人が親切になった」「声掛けや手引きをしてくれる人が多くなった」(社会的有効性)と述べている.これらから,社会的視点では,視覚障害の女性を“障害者”ではなくひとりの”女性”として認識し,尊重した接し方をしていると考えることができる.また,視覚障害者からの視点では,ひとりの女性として社会的配慮ができるということ,そして社会へ参加する前向きな意思があるという周囲へのアピールになっていると考えることができた.このような取り組みが社会に向けた視覚障害者からの理解を深める1つの活動につながり,彼女たちの声掛けや手引きにつながっていると考えている.

 

追伸 「理美容ニュース」で,昨年,日本美容福祉学会で発表しましたブラインドメイクの研究が取り上げられて,記事になりました.ご一読いただけましたら幸いです.この発表がきっかけで,今年の秋から,美容専門学校のメイク科で,ブラインドメイクを科目に入れていただくことになりました(大阪市中央区)。私のもう一つの役割として,ブラインドメイクを通して,広く社会に視覚障害者を理解してもらうことと考えています.
 http://ribiyo-news.jp/?p=13994

 

【略 歴】
 1995年,中央大学 法学部法律学科 卒業
 2010年,大阪中央理容美容専門学校 卒業
 2012年,日本福祉大学 福祉経営学部 卒業
 2013年,日本福祉大学大学院 社会福祉学研究科 在学中
  日本ケアメイク協会 会長(2010年~2014)
 http://caremake.on.omisenomikata.jp/

【後記】
 大石さんは、理容師の資格を持ち、普段は司法書士として仕事をし、かつ福祉大学大学院で学びながら、目の見えない方のためのメイクを独自の手法で開発し、広めている方です。浪速っ子。講演は、パワーに溢れていました。ユニークでした。有意義でした。楽しかったですし、元気をもらいました。講演を聞きに来た方々を巻き込み、突っ込みをいれての熱演でした。初めから笑いの連続であっという間の90分でした。
 曰く、・女性には化粧が大事。・化粧のコツは、左右対称にするために両手を使う。・筆より指がいい。・メイクの中心は「目」。・目を大きく見せる・睫毛は長く見せることが大事。・褒める、でも悪いとこはしっかり伝えるも大事。・私は綺麗という自信(勘違い)が大事。・キレイニなることで、社会への参加の機会が増える。・いつまでも異性に対するワクワク感、トキメキ感が大事。・環境や周囲の理解が大事。・福祉関係の人にメイクに関心がない人が多い、、、、、、、、、「小じわが気になるんです」というと、よく「そんなの心配ない。私はもっとある」とか言われてしまう。そんなことを言われたら、(あなたはそれでいいのかもしれないけど、私は嫌だ)と思う。。。。。
 実際のところ、視覚障害者にとって先ずは日常の生活ができるようになることが求められ、化粧は次の段階であろうと思います。化粧品の購入にはお金もかかります。しかし視力を失い多くのことを諦めるようになった方々が、(特に女性の場合)「ブラインドメイク」によって、諦めた多くのものを取り戻せるきっかけになるのではないかと強く感じた次第です。
 大石さんの今後の益々の活躍を応援したいと思います。このプロジェクトが発展し、多くの視覚障害者に希望をもたらしてくれることを祈念します。

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015 細井順講演会』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと
 
     ~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 http://andonoburo.net/on/3412 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長) 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
                   
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士)) 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会) 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00   注)第1水曜日です
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会) 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定) 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  立神粧子 (フェリス女学院大学) 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県) 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 (予定)
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)

2015年2月7日

済生会新潟第二病院眼科では、どなたでも参加できる講演会を開催しています。今回はホスピス医の細井順氏をお招きして講演会を開催致します。
細井氏は、ホスピス医として死にゆく患者の傍らに立ち続けた日々が、一人の医師の心に豊かな「いのち」観を育んだといいます。自らのがん体験によってさらに深まった独自の死生観を語ります。良く生き、良く死ぬとは何か、また超高齢社会でどう看取り、死を迎えたらいいのか、、、、、、、
まだ席には余裕があります。多くの皆様の参加を期待しております。 

案内:済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」 
 講師:細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 演題:生きるとは…「いのち」にであうこと~死にゆく人から教わる「いのち」を語る~
  日時:平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  どなたでも参加できます。参加費無料
 要:事前登録 

【事前登録】 申込期限~平成27年2月21日(土)まで
 申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗
   e-mail gankando@sweet.ocn.ne.jp
   Fax 025-233-6220 

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 参加申し込み 済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
  氏名~  
   所属~
   職業~ 

 住所~都道府県名と市町村名のみお願いします
 連絡方法 
    e-mail アドレス~ 
   Fax番号~

  (可能な限り、メールでの連絡先をお願い致します) 

 付添いの方が一緒ですか? (はい、いいえ) 

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演題:生きるとは…「いのち」にであうこと~死にゆく人から教わる「いのち」を語る~
講師:細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市) 

【講演抄録】
 外科医として18年間勤めたあとにホスピス医となり、19年が過ぎようとしている。外科医の間は病気をみてきた。その時に病人(患者さん)を苦しめている病気を治すことばかりを考えて過ごした。点の勝負だった。ホスピスに転じてからは、患者さんのもつ苦悩につきあってきた。患者さんと時の流れを共に過ごした。外科医は自分の治せる病気を診療する職人だったので、かなり限られた範囲の人しか診なかった。ホスピスでは、治せない病気の人を診させていただき、結果として随分といろんな方々と出会うことができた。 

 そこで気づいたことがある。外科医は病気を治すことはできるが、人を生かすことはできない。ホスピス医は病気を治すことはできないが、人を生かすことができる。つまり、ホスピスケアは人に生きていく力を与えることができるのだ。さらに言えば、死にゆく人から私自身が生きていく力をいただくのだ。 

 遺される人に生きていく力を与える。この力が「いのち」と呼ばれるものではないのだろうか。ホスピスでは生死を超えた「いのち」にであうことができる。死んでも途絶えることなく人から人へと伝えられる「いのち」、個人のものではなくてすべての人に共通する「いのち」に気づくときに、人は自分を閉じ込めている殻が破れ、平安な死に迎えられるのではないだろうか。ホスピスの真実がここにある。 

 阪神淡路大震災、東日本大震災やその後の度重なる災害の中で、多くの生命が前触れもなく絶たれていく。突然のかなしみに前途を失うことも多いことだろう。しかし、「いのち」はつながれていくのだと思う。かなしみを通して、誰もがつながる「いのち」から多くの生きていく力をもらっているに違いないと思う。 

 死の様は人それぞれで、それを選ぶことはできない。死の前では無力ではあるが、「いのち」のつながりの中で、生命もつながれていく。死にゆく人たちとのであいから教わったことを皆様と分かちあいたいと願っている。
 

【プロフィール】
 1951年、岩手県盛岡市の生まれ。小学二年生のとき、医師だった父の異動で京都に引っ越し、以来、大学卒業まで京都で育つ。クリスチャンホームで、物心つく前から教会に通い、中学一年生で受洗した。父親は法医学の大家、四人の叔父は外科医。
  1978年大阪医科大学卒業。自治医科大学消化器一般外科講師を経て、淀川キリスト教病院外科医長となった。その時父親を胃がんのために同病院ホスピスで看取っ た。このことをきっかけに96年ホスピス医に転向した。2年間研修後、愛知国際病院ホスピス長を経て、2002年よりヴォーリズ記念病院にてホスピスケアを行っている。
 2004年、自身も腎がんで右腎摘出術を受けた。その後、自らの体験を顧みつつ、「死の前では誰もが平等、お互いさま」をモットーにしてケアを実践している。その様子がドキュメンタリー映画「いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日~」として2013年春から全国公開され、ホスピスからのメッセージを多くの人たちに届けている。 

@淀川キリスト教病院 http://www.ych.or.jp/
 1973年に日本で最初にホスピスケアを行い、1984年には日本のホスピスの生みの親、柏木哲夫氏(現・同病院理事長、名誉ホスピス長、金城学院長)により国内二番目のホスピスが開設された。細井氏はホスピス医としての指導を受けた。
@ヴォーリズ記念病院ホスピス http://www.vories.or.jp/medical_dep/kanwacare.php
@ドキュメンタリー映画『いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日』 http://www.inochi-hospice.com


【著 書】
『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)
『死をおそれないで生きる~がんになったホスピス医の人生論ノート』(いのちのことば社、2007年)
『希望という名のホスピスで見つけたこと~がんになったホスピス医の生き方論』(いのちのことば社、2014年)
@当日は会場で、著書の書籍販売・サイン会を予定しております。
 

●済生会新潟第二病院眼科では、細井氏をこれまでに何度かお呼びし講演会を開催しています。
 
参考までに、これまでの細井順講演会の講演要旨を以下に記します。

@済生会新潟第二病院眼科 公開講座2005『細井順 講演会』
 演題:「ホスピスで生きる人たち」
 講師:細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
  期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 http://andonoburo.net/on/2548 

@済生会新潟第二病院眼科 公開講座2008『細井順 講演会』
(第144回(08‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
 演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
 講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
   期日:平成20年2月23日(土) 午後4時~5時半
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
 http://andonoburo.net/on/2573

2015年2月6日

「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)

  日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
1. 視力を失って
 小学6年の時、網膜色素変性症のため、視力を失いました。6年の初めころまでは野球や自転車に乗ることができるくらいの視力がありましたが、急激に下がっていきました。見えなくなったことは当然ショックでしたし、それと同時に、自分は目の見えないだめな人間なんだ、何もできないだめな人間なんだという気持ちも強く持つようになりました。そしてこのように見えなくなった自分の姿を周りの人に見られたくないという気持ちも強く、近所の人が家に来るとすぐに奥の部屋に隠れたりしていました。 

2. 盲学校入学
 中学から新潟盲学校へ進みました。周囲の生徒、教員、寄宿舎の先生方は視覚障がいというものに慣れており、私自身、見えない状態で生活を送ることに比較的早く順応できるようになりました。視覚障がい者用にアレンジされた野球やバレーボールなどのスポーツ、またギターを始めるなど、楽しい中学生活を送っていました。
 ただ、今では体の一部のようにして使っている白状を持って外を歩くことはとても屈辱的なことでなかなかできませんでした。 

 3. 盲学校の外の世界へのあこがれ
 楽しく過ごしていた中学生活が終わり、高校生になったころから、もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが膨らんできましたが、一方で目の見えない自分には何もできないと自分の気持ちを押さえつけていました。
 そして3年の進路相談の時、担任の先生から「外の世界を見てみないか、例えば一般大学に行ってみるとか」と言われました。当時の私には想像もできない世界であるとすぐに断りました。その後、私もその先生の言葉をじっくりと考え、自分自身も以前から外の世界を見てみたいという気持ちを持っていたので、どんなに失敗したとしても命まで取られることはない、後で後悔するよりもやれることをやった方がいいと思い、思い切って大学進学を決意しました。 

4. 大学進学への挑戦
 1年間視覚障がい者用の大学進学準備課程ある京都府立盲学校で受験勉強をし、そこでボランティアに来てくれていた大学生と交流したり、英語を専攻しようという目標も定まり、とても有意義な時を過ごしました。
 そして何とか目標校であった京都外国語大学英米語学科に入学することができました。入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」とまず念を押されましたがそれは自分が勝手に大学進学を希望したのだから当然のことと思いました。教科書の点訳などは自分でボランティアを探して依頼し、授業に間に合わせるようにしていました。周囲の学生たちとの関係では、お互いに最初はぎこちなく接していましたが、時間が経つにつれ、ごく自然に付き合えるようになりました。 

4. アメリカ留学
 卒業後については、入学当初に出会った先生の影響もあり、アメリカに留学したいという目標を立てていました。そして多くの方のご協力もあり、それを叶えることができました。
 アメリカでは、専攻の英語学を深めるということが一番の目的でしたが、それと同時に、障がい者の受け入れ態勢が進んでいるとも聞いていたので、どのようになっているのかその点にも興味がありました。大学では、スペシャルサービスという機関があり、そこが中心となって障がいのある学生に必要な支援を行うシステムになっていました。そのサポートを受け、障がいのある学生も他の学生と同じようにキャンパスの中で学び、生活をしていました。
 こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていましたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになりました。 

5.日本に帰国し市議会へ
 社会に対する疑問は、それを感じた当事者が、当事者の言葉で周りに伝えていかなければ社会は変わらないと想い、新潟に戻ってから様々な市民活動や障がい者運動に参加するようになりました。その中で、長年にわたって、この日本そして新潟でも、障がい当事者の運動を続け、様々なことを改善してきた実績に触れ、私のそれまでの世界の狭さを思い知らされ、反省させられました。
 私自身、就職の壁に突き当たり、試験や面会の機会すら与えず、視覚障がい者であるということを理由に門前払いする事業所の対応に本当に強い怒りと悔しさを覚えました。そして活動を通じて出会った友人から、やはり政策決定の場に、障がい当事者が参画していく必要があるとの話をもらい、紆余曲折を経て、市議会に立候補することになりました。そして多くの方のご支援とご協力をいただき、現在まで5期20年を務めさせていただいている次第です。 

6.進む法整備
 国連の場で、2006年に障害者の権利条約が採択され、その後、日本でも批准に向け、障がい者団体が国内法の整備を求め、広範な運動を展開してきました。そして2011年に障害者基本法が改正され、障がい者への差別の定義とその禁止が盛り込まれました。そして2013年には障害者差別解消法が制定され、2014年にはついに日本でも障害者権利条約が発効されました。
 私は2008年、国内法の整備と並行して、障害者の権利条約の理念を踏まえ、新潟市として市の実情を踏まえた条例の制定を目指すべきとの提案をし、市長から前向きな答弁がありました。その方針に沿って、現在(仮称)障がいのある人もない人もともに生きる新潟市づくり条例の検討がすすんでおり、来年度中の制定を目指しています。もちろん条例が制定されただけですべてが大きく変わるわけではありませんが、この条例とあわせ、各種施策を充実させながら、また市民から関心を持ってもらい、意識を高めてもらうための啓発活動も粘り強く進めていかなければなりません。
 こうした努力を積み重ねながら、新潟市が真に一人ひとりの存在を尊重し、安心して暮らせるまちであると実感できるように、多くの皆さんと今後とも活動を進めていきたいと思っています。 

【略 歴】
 1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
     新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、
     京都外国語大学英米語学科。
 1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
 1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
 1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
 2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
    現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、
    新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中

  http://www.aokimanabu.com/

 

【後記】
 青木さんとは長いお付き合いです。視覚障害者で市会議員ですから、いろいろな機会にお会いしていました。しかし、ご自身のことをお聞きしたのは今回が初めてでした。感動しました。どんな演説より雄弁でした。
 目が見えなくなったころの少年時代。盲学校での生き生きした生活。京都府立盲学校での受験勉強、京都外国語大学での生活。留学時代のお話、そして市会議員へ。サクセスストーリーではありますが、大いに共感し感動しました。
 幾つかのフレーズが印象に残っていますが、日本の大学での入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」と言われたこと。米国の大学に留学した時、スペシャルサービスという障害者のための支援をするところで、「あなたが学ぶために、私たちにできることは何ですか?どういうサポートが必要ですか?」と言われたとのこと。こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになったといいます。

 青木さんは、1995年に新潟市市会議員となり、現在5期を務めています。今後も新潟市のため、いや日本の障害者のために活躍して欲しいものと祈念しております。

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015 細井順講演会』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと
     ~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 http://andonoburo.net/on/3348

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)

 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士))

 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会)

 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00  注)第1水曜日です
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)

 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定)

 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  立神粧子 (フェリス女学院大学)

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)

 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 (予定)
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)

2015年1月26日

済生会新潟第二病院眼科では、どなたでも参加できる講演会を開催しています。今回はホスピス医の細井順氏をお招きして講演会を開催致します。多くの皆様の参加を期待しております

済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
 生きるとは…「いのち」にであうこと~死にゆく人から教わる「いのち」を語る
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
  日時:平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  どなたでも参加できます。参加費無料
 要:事前登録 

【事前登録】
 申込期限~平成27年2月21日(土)まで
 (ただし会場の関係で、100名に達しましたら受付を終了致します)
 申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗 
   e-mail gankando@sweet.ocn.ne.jp 
   Fax 025-233-6220 
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 参加申し込み 済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
  氏名~    
   所属~ 
   職業~
 @付添いの方が一緒の場合は、人数を教えて下さい。 

 住所~都道府県名と市町村名のみ、お願いします

 連絡方法  
    e-mail アドレス~ 
   Fax番号~
  (可能な限り、メールでの連絡先をお願い致します)

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当日は会場で、著書の書籍販売・サイン会を予定しております。 

【著書の紹介】
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1)「希望という名のホスピスで見つけたこと」 細井順 (著)
 出版社: いのちのことば社 (2014/10/1)
●内容 生きるとは、「いのち」にであうこと。がんになったホスピス医が、死にゆく患者さんから受け取った「いのち」のメッセージ。
●目次 : 第1章 ホスピスいのちがいちばん輝く場所/ 第2章 希望館の緑につつまれて―ホスピスの日々から/ 第3章 わが歩みしいのちの臨床への道/ 第4章 いのちについて/ 第5章 多死社会に向かって―私たちはどう死を迎えたらいいのか/ 第6章 心の中にホスピスを/ 付記 よく聞かれるホスピスへの質問に答えて 

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2)「こんなに身近なホスピス」 細井 順   (著)
 出版社: 風媒社( 2003/05)
●内容 ホスピスは、「座して死を待つ所」ではない。人々がその人らしく生ききるのを援助するプログラムなのだ。苦しみが少なく、自分なりに納得できた最期を迎えるためにはどうしたらいいのか――。がん治療に苦戦している人のための応援メッセージ
●目次 第1章 ホスピスはどのように役立っているか/ 第2章 緩和医療は、いま/ 第3章 心のケアについて/ 第4章 地域・家族とどうかかわっているのか/ 第5章 これからのホスピスに必要なこと/  おわりに 

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3)「死をおそれないで生きる―がんになったホスピス医の人生論ノート」 細井順   (著)
 出版社: いのちのことば社(2007/07)
 絶版

2015年1月21日

 演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
  日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

 済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。 

【抄 録】
 化粧は社会人女性としての「身だしなみ」であると言われている.身だしなみとは,自分自身の容姿を整える心がけとこれから会う人への思いやりを意味しており,化粧とは女性の美しさと優しさ,上品さや裕福さを象徴するアイテムになっている.

 2000年から2014年までの化粧の有用性に関する研究として,化粧には心理的・生態的効果があり,女性の社会性を促進し,QOLを高める効果があると報告されている.また女性を精神面でも支え,社会的コミュニケーションを円滑にするという重要な役割を担っていると示唆されている.

 近年,化粧社会のなかで視覚に障害があることで化粧に不自由を感じている女性はこれらを理由に化粧を諦める傾向にある.他者からの化粧評価が低いと自信を失い,化粧を施すことに不安を感じている女性が少なくない.これらは外出の減少,人や社会との交流減少に影響を及ぼしている.

 演者は,2010年に鏡を見なくても化粧が綺麗にできる化粧技法「ブラインドメイク・プログラム」を考案したことで視覚に障害のある女性が自分自身で化粧することが可能となった.化粧が綺麗にできるようになった女性からは「自信をもって外出し,人や社会に交わることに対して前向きになった」「自己肯定感,満足感,幸福感を得ることができた」と高い評価を得ている.ブラインドメイクは,“視覚障害者”ではなく,一人の“女性”として当事者や社会が認識・再認識することに意義を求めている. 

【略 歴】
 1995年,中央大学 法学部法律学科 卒業
 2010年,大阪中央理容美容専門学校 卒業
 2012年,日本福祉大学 福祉経営学部 卒業
 2013年,日本福祉大学大学院 社会福祉学研究科 在学中
  日本ケアメイク協会 会長(2010年~) 

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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。

 日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
 場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html
 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
    http://www.ngt.saiseikai.or.jp/section/ophthalmology/study.html
 3)安藤 伸朗 ホームページ
    http://andonoburo.net/ 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市) 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長) 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士)) 

平成27年6月10日(水)16:30~18:00
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
  吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会) 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定) 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  立神粧子 (フェリス女学院大学) 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県) 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
【目の愛護デー記念講演会 2015】 (予定)
(第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)

2015年1月17日

済生会新潟第二病院眼科では、どなたでも参加できる講演会を開催しています。今回はホスピス医の細井順氏をお招きして講演会を開催致します。多くの皆様の参加を期待しております・ 

済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
 生きるとは…「いのち」にであうこと
               ~死にゆく人から教わる「いのち」を語る
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
  日時:平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  どなたでも参加できます。参加費無料
 要:事前登録 

【事前登録】
 申込期限~平成27年2月21日(土)まで
 (ただし会場の関係で、100名に達しましたら受付を終了致します)
 申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗 
   e-mail gankando@sweet.ocn.ne.jp 
   Fax 025-233-6220 

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 参加申し込み 済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
  氏名~    
   所属~   
   職業~
 @付添いの方が一緒の場合は、人数を教えて下さい。
 住所~都道府県名と市町村名のみ、お願いします
 連絡方法  
    e-mail アドレス~ 
   Fax番号~
  (可能な限り、メールでの連絡先をお願い致します)

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済生会新潟第二病院眼科では、これまで2回細井順先生をお呼びして講演会を開催しています。今回は、2008年2月の講演会報告をお届けします。 

報告:済生会新潟第二病院眼科 公開講座2008『細井順 講演会』
(第144回(08‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
 演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
 講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
   期日:平成20年2月23日(土) 午後4時~5時半
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
 http://andonoburo.net/on/2573 

【講演要旨】
 4年前の2月、スキーから帰ってきて血尿がでた。疲れたせいかなと軽く考えていたが、その後も一週間に一度くらいの割で血尿は続いた。痛みのない血尿は、外科医として常識的には癌を考える。しかも、すでに血尿が出ているということから早期の癌ではないと考えた。一方、ホスピス医としての経験から、手術や化学療法をめいっぱいにやった患者さんより、治療らしい治療をしないでがんと共存して過ごしてきた人の方が楽に死ねる。このような二つの経験から、私は慌てないで様子をみようと考えた。 

 3月も後半になり(血尿が出てから1ヶ月半経過)、排尿の度毎に汚く濃い色の血尿がでるようになった。満足に排尿することができず、これでは仕事にならない状態となった。仕方なくCT検査を受けた。その結果、右腎臓に直径8cm大の腫瘍が写っていた。最初に思ったことは、手術をしたら簡単に取れそうだということだった。がんではないかもしれないと直感的に思ったが、泌尿器科医の友人に相談してこれはがんだと納得した。患者さんのフィルムならがんと診断したはずなのに、自分のことになると悪いことは否認することに気づき、これが、がん患者の気持だと理解できた。 

 家族にがんが見つかり、手術を受けることを打ち明けた時、当時高校3年の息子は、「ワァー、でかいな。素人でも判るわ」。妻は「お葬式はどうする?」という反応であり、私としては楽になった。ある意味、スーッとした。 

 これまで、がんは患者さんの問題であったが自分の問題となって気づいたことがあった。ホスピスに入れるのでホッとした(癌でなければホスピスには入れない)。また本(今度は闘病記)が書ける。やっぱり家族の支えが一番。そして手術がこんなにも大変だという経験を出来たこと。医療者の一言の有難さ、怖さを経験できたこと。特に「がん」があってもなくても同じことという気持になれたことが大きかった。 

 手術前に「患者の気持ち」という一文をしたため、主治医に渡すことにした。何故なら命を左右するような手術にはしたくなかった。外科医はとかく無理をしたがる。ついついやりすぎてしまうことがある。私は今やっている仕事を続けたい。手術して仕事が出来る状態(血尿を止める)にして欲しいことを主治医に告げた。こんなことをして嫌われたらとも思い、多少の勇気は必要だったが、、、。通常取り交わしている手術の同意書は、主治医からの一方的な押し付けであることが多い。自分の存在を大切にして、こういう手術を受けたいと患者サイドから申し出することは大事なことだと思っていた。 

 ホスピスの仕事を一人の患者さんの事例を紹介して、お話しする。76歳男性。前立腺癌、腰椎に転移があり腰痛があった。初診時は、苦痛に顔をしかめ、「ワニに食いつかれて、振り回されているように痛む」と訴えた。鎮痛剤を処方した。翌日、回診時「戒名」についてお話を伺った。(普通ならまだそんな話は早いと言うところかもしれない)私は「ほう、私にも教えてくれますか?、なるほどいい戒名ですね」。翌々日、痛みについてお尋ねすると、「すっかりよくなりました。この病院に来てキリストに出会ったようです」。この患者さんからホスピスの治療とはどういうものか教わった。がん患者の痛みは、身体的苦痛のみでなく、社会的苦痛(仕事や家庭)、精神的苦痛(不安や苛立ち)のみでなく、スピリチュアルペイン(人生の意味や死の恐怖等々)も 関係する。がん患者の痛みには鎮痛剤ばかりではなく、傾聴も重要な治療手段である。このおじいさんはホスピスで「キリストに出会う」という象徴的な言葉で生きかえったことを表現した。 

 ホスピスで生きかえることができる理由を「ホスピスの秘密」と名付けて紹介したい。
1)『You are OK.』 これまで患者さんが経験してきた治療や生き方を受け止めることである。一般的には病院というのは悪いところを見つけるために行くところである。ホスピスではそうではなく、 You are OK (あなたは、それで大丈夫)と言うことも 必要である。今ここで出会えたのも、あなたがこれまで頑張ってきたから、、、。
2)外科的に治すという事は、癌を小さくすることであるが、ホスピスでは一緒に患者さんの重荷を担いで上げることである。患者さんとの一体感。自分のパフォーマンスをするのではなくて、自分を殺して患者を浮かばせる。生きているということは、誰かに支えられているということを実感する。
3)『お互いさま』のこころ。今日という時間を共有している。死にゆくという点では、患者さんも医療者もない。時期が少しずれているだけである。そう思うとケアをすることは、結局将来の自分のためだと思われてくる。
4)『死を創る』。その人が亡くなると、私の中にその人のいのちが受け継がれている。そういう意味では、ホスピスはいのちのたすきリレーの場所でもある。 

 死にゆく人を支えるには、誠実・感性・忍耐・謙遜・祈りが必要。「今日はご飯が食べられません」という患者に、「おかゆにしましょう」では感性がない。その言葉の奥に秘められた患者さんの気持を聴き取ることが大切である。食べられないほど弱ってしまったという不安や孤独な思いを聴き取ることが必要である。まずはよく患者の悩みを聴くことである。 

 2007年の世相を表す言葉として「偽」が選ばれた。そんな世相の中でホスピスはオアシスの役割を担っている。ホスピスを動かしている力は先程の言葉(誠実・感性・忍耐・謙遜・祈り)である。この世の名声、金銭、栄誉で動いているのではない。死を前にしたとき、この世の価値観では戦えない。オアシスだからこそ、先程紹介した患者さんのように生きかえる。 

 ホスピスは死にゆくところと理解している人たちが多いと思うが、死にゆくことは、本人にも、家族にもケアにあたるスタッフにも決して容易いことではない。ホスピスの役割は、最期まで「よい生」を続けられる環境を整えることである。その中で患者さん・家族が主役となって「よい生」が叶えられて「よい死」が創られると感じる。 

 「豊かな生き方、納得した終わり方」を考えた時に浮かぶキーワードがある。『症状のコントロール』、『人生の満足感』、『死生観の確立』、『家族の支え』の4つである。このうち、ホスピスでできることは、最初に挙げた症状のコントロールだけである。ホスピスまでの人生が、ホスピスでの過ごし方を決めている。近頃の問題として、家族関係の希薄さがホスピスケアにも影響を及ぼしている。最後に大阿闍梨(だいあじゃり)の言葉を紹介しよう。「仏さまは、ぼくの人生を見通しているのかもしれないね」という一節を見つけた。修行の極みに達した生き仏と言われる人物の一言である。何ともホッとして、気持が落ち着く言葉だろう。我々を包んで、運んでいる大きな翼があることを覚えたい。 

【質疑応答】
質問:死にたくない、悔しい、苦しいと思う死は、「望ましくない死」なのだろうか? 「望ましくない死」を避けがたく迎える方、その家族にも満足感、敬意を抱いて頂きたいと思うし、現に何とか抱いて頂いているとも思うが・・・。
————–
答え:本人にとって納得できる死を迎えられるような環境を整えることしかホスピスではできません。本人が納得できなければ、その納得できないことに付き合うのです。決して納得できるように説得するわけではありません。人は生きてきたように死ぬと言いますから、普段の生き方がポイントでしょう。ホスピスでは、9回裏ツーアウト満塁での逆転サヨナラ満塁ホームランをねらっているわけではないのです。
 

質問:がんになって、突然、生の意味が語られることになる違和感は? 終末期以前で、病前期で、どうやって「豊かな生き方」を得ていくべきか?
————–
答え:「豊かな生き方、納得した終わり方」を考えた時、4つのポイント『症状のコントロール』、『人生の満足感』、『死生観の確立』、『家族の支え』があります。そのうち、ホスピスでできることは『症状のコントロール』(痛みからの解放)だけで、他の3点はホスピスまでに考えるテーマです。普段から終わりを意識した生き方を続けないとホスピスだけでは手遅れという場合も多々あります。昔からメメント・モリ(死を想え)という言葉があります。50才になったら人生の棚卸しをすることが薦められます。不用になったものを捨て、これから必要なものだけを残すことです。
 ホスピスは not doing, but being と言われる世界ですから、ホスピスに入りさえすれば「よい死」が待っていると短絡的に考えていると、失望します。そもそも死にゆくことは自分の問題で、医療の問題ではないからです。
 

質問:「豊かな生き方、納得した終わり方」には多くの手助け、コストが必須ではないのか?
————–
答え:日本ホスピス緩和ケア協会の資料から、豊かな経営をしているホスピスはありません。赤字を出さないように四苦八苦しているのが現状です。しかし、ホスピスの数は増加傾向にあり、経営的理由で閉鎖するところは数カ所だったでしょうか。
 ホスピスを動かす力は、誠実、謙遜、感謝、信頼、祈りなどですから、常識的な経営感覚では説明できない何かがあるのでしょう。私どものホスピスでも決して安泰ではありませんし、ホスピス賛助会を設けて寄付を募っています。ボランティアの働きももちろん大切です。これは誤解しないでください。ホスピスの労働力としてボランティアを使っているという意味ではありません。ボランティアとして活動する方にとってプラスになることが、ホスピスにとってプラスになるのですから。
 

質問:細井先生のホスピスはボランティアを入れていますか? もし入っていたらどんなボランティアですか?
————–
答え:ボランティアの方が活躍しています。しかし、まだ少ない人数なので、ティーサービスを担当してもらってます。また、季節の行事の準備(この季節なら雛人形の飾り付けや後かたづけ)などです。今後、人数も増えて、もっともっと充実した活動を行っていただきたいと願っています。ボランティアはホスピスに潤いを与えてくれます。
 

質問:ホスピスは見学できるのでしょうか?
————–
答え:見学はできます。しかし、見学者のためのプログラムを作っているわけではありません。建物の見学が中心です。地域に開かれたホスピスのためには、これも今後の課題の一つです。
 

質問:ホスピスでの一日の流れなど詳しい生活が知りたい。
————–
答え:ホスピスは痛みなどを少なくして、患者さんと家族に悔いのない1日を過ごして貰うための環境を整えることが役割です。家族にも参加してもらい、家庭での1日をホスピスで実現して貰います。従って所謂介護施設のように食事の時間、お風呂の時間、レクレーションの時間などのプログラムが用意されているわけではありません。
 

【細井順氏 略歴】
 1951年 岩手県生まれ。
  78年 大阪医科大学卒業。
    自治医科大学講師(消化器一般外科学)を経て、
  93年4月 淀川キリスト教病院外科医長。
  95年4月 父を胃がんのために、同院ホスピスで看取る。
       患者家族として経験したホスピスケアに眼からうろこが落ち、ホスピス医になることを決意。
        同院ホスピスで、ホスピス・緩和ケアについて研修。
  98年4月 愛知国際病院でホスピス開設(愛知県初)に携わる。
 2002年4月 財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長。
  04年4月 腎臓がんで右腎摘出術を受ける。
  06年10月 自らの闘病経験をふまえ患者目線の院内独立型ホスピスが完成。
      現在ホスピス長として患者の死に寄り添いながら、ホスピスケアの普及と充実のための啓発活動にも取り組んでいる。 

 現在、日本死の臨床研究会世話人
 著書:『ターミナルケアマニュアル第3版』(最新医学社、共著1997年)
     『私たちのホスピスをつくった 愛知国際病院の場合』(日本評論社、共著1998年)
     『死をみとる1週間』(医学書院、共著2002年)
    『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)
    『死をおそれないで生きる~がんになったホスピス医の人生論ノート』(いのちのことば社、2007年)
 財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院のHP
 http://www.vories.or.jp/

 

【後記】
 90名を超す大勢の方々に参加して頂きました。
 難い演題でしたが、細井先生は柔和な表情で、時に関西弁を交え、にこやかに語ってくれました。患者の心持は、繊細である。医療者の一言が心に響く。「患」という字は、串ざしの心とも読める。手術の同意書は医師からの押し付けになってはいないか?終わりを意識した生き方が大事、、、。講演もよかったのですが、最後の質疑応答も実のあるものでした。 

 著書『死をおそれないで生きる~がんになったホスピス医の人生論ノート』に以下のくだりがあります。患者さんや家族の持つ悩みは、ホスピスで過ごすわずかの間に解決できるはずがない。解決に至らなくても、共に悩みを分かち合うことは出来る。分かち合うことが解決の糸口になる。

 今回語られたのは「ホスピス」でしたが、心のケアという点では一般の医療の中に取り入れるべきものも多いと感じました。そしてこれまでの自分の生き様を考えるいい機会になりました。

2015年1月10日

 演題:視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~
 講師:小西 明(新潟県立新潟盲学校)
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  日時:平成26年12月10日(水)16:30~18:00 

【講演要旨】
Ⅰ 最近の障害児者をめぐる法整備
 平成26年(2014)2月19日「障害者の権利に関する条約」が発効しました。我が国において障害者等が積極的に社会参加できることや、相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型社会の形成への取り組みが、今後一層進展するものと期待されています。教育においては、こうした共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための様々な施策が推進されています。

 このことは平成18年(2006)国連総会において「障害者の権利に関する条約」が採択されたことにはじまります。我が国は、平成19年(2007)9月に同条約に署名し、6年半後に発効にこぎ着けました。この間、下記のとおり批准に向けて必要な国内法の整備が進められ、障害児者に関わる法制度改革がなされてきました。今後も整備の充実や一層の改善が求められています。
    平成23年(2011) 8月 障害者基本法の改正
   平成24年(2012)10月 障害者虐待防止法
   平成25年(2013) 4月 障害者総合支援法
   平成25年(2013) 4月 障害者雇用促進法の改正
   平成25年(2013) 4月 障害者優先調達推進法
   平成25年(2013) 6月 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律
   平成25年(2013) 9月 学校教育法施行令の一部改正 

Ⅱ トータルサポートセンター
 障害児者に関する教育や福祉等に係る法整備は、この四半世紀に大きく前進しました。遡って盲聾学校の義務制が布かれた戦後間もなくの頃は、まだまだ未整備であったことは周知のことです。今から140年ほど前、明治11年(1878)日本ではじめての盲学校、京都盲唖院の開校から現行法制度に至までの過程で、全国盲学校は教育に留まらず、視覚障害者にとってトータルサポートセンターとしての役割を担ってきました。例えば、三療や音曲などの職業教育、公立点字図書館設置運動、三療以外の職業開拓、視覚障害者のスポーツ振興など、ニーズに応じ積極的に支えてきた歴史があります。法整備が整うまでの長い間、盲学校は教育のみならず福祉・労働・文化・スポーツなど、様々な分野で先導的な役割を果たし、時代の先駆けを担ってきたのです。 

Ⅲ 視覚障害者を支えた組織
 1 御大典記念新潟県立新潟盲学校奨学会
 盲聾学校の義務制が、昭和23年(1948)4月より小学部1年生から学年進行ではじまりました。制度は整ったのですが、実際には家庭の経済的な問題、いわゆる貧困により、盲学校や聾学校に就学したくてもできない未就学が大きな課題でした。そこで、昭和26年6月に「盲学校、聾学校、養護学校への就学奨励に関する法律」が施行されました。教科書などの教材費、給食費、舎食費など就学に関わる費用の一部が国庫や県費から支出されるようになりました。これより以前、このような公的支援がない時代、昭和3年(1928)8月当校では独自の奨学金制度を立ち上げていました。それが御大典(ごたいてん)奨学会です。昭和天皇の皇位継承を記念して、篤志家から寄付を募りこれを基本金として、その利子を貸し与えるというものでした。当校には、奨学会設立趣旨書や定款が残されています。

 2 新潟県盲人協会
 現在の社会福祉法人「新潟県視覚障害者福祉協会」の前身である、「新潟県盲人協会」は、大正9年(1920) 6月19日に、刈羽郡柏崎町の中越盲唖学校で開催された県下盲唖学校出身者による連合有志会で設立されています。 設立時の会長は、新潟盲唖学校教員の高橋幸三郎、副会長は、中越盲唖学校教員の姉崎惣十郎の2人、理事8人の体制でした。事務所を、西堀通3番町にあった新潟盲唖学校内に置き、昭和5年(1930)に新潟盲学校が関屋金鉢山に移転すると、そこに移動しています。会長が新潟盲学校教員であり、事務局を所属学校としていたので、実質は盲学校で運営していたといえます。 事業として、設立当初から、点字雑誌を年4回発行。当時貴重だった点字図書を県内5カ所で巡回文庫として設置(大正15年より点字図書館に統合)。出張講演会の開催。点字の普及や三療など職業に関する座談会の開催など多岐にわたっています。 戦中、戦後の混乱期を経て昭和25年4月、県立第7代校長塚本文雄先生が、初代新潟県盲人福祉協会長として就任されました。会員の福利厚生を図り、視覚障害者相互の共励と親睦、研修に敏腕を発揮されました。

 3 新潟盲学校同窓会
 当校同窓会は、開校5年後の明治45年(1912)3月23日の第1回卒業式で4名の卒業生を送り出した日から始まります。同窓生が少なかったことから発足から、昭和2年(1927)までの15年間は、在校生も含めた組織でした。事務局は母校内とし、母校教員が事務処理を担当しました。この体制は同窓会設立から102年を経過した現在も変わりません。
 昭和10年(1935)からは、同窓会長を校長が兼務することとなり、県立第5代校長樋口嘉雄先生が就任されました。学校は同窓会を支え、あるいは一体となって、同窓生の福利厚生や就労の支援をしていたのです。点字機関誌「舟江の六光」の発行や総会の開催から懇親会、あるいは被災同窓生の募金まで手がけました。また、日常生活に欠かせない白杖、点字盤、点字紙、ゲーム用品、糸通し、醤油差し等々を当校購買部が同窓生に小分けしていました。現在のように宅配便やネット販売など無かった時代ですから、当校が視覚障害者用具の卸や販売部の役割をしていました。 

Ⅳ 就 労
 1 明治維新以後の視覚障害者
 明治4年、それまでの当道座が廃止され、同7年の医制発布により、鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることになりました。更には、明治18年の「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには、試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになりました。江戸時代までの視覚障害者は、当道座により男性は琵琶、琴、三味線等の音楽、鍼灸、あん摩、貸金業等、女性は瞽女等なんらかの仕事に就くことが可能でしたが、それができなくなりました。

  2 盲学校(視覚障害教育)のはじまりは職業教育
  ①<鍼灸、あん摩>  明治18年10月、新潟の鍼按業関口寿昌(としまさ)は、盲人教育と鍼灸師養成は、それまでの徒弟制度ではなく、学校教育によらなければならないとして「盲人教育会」を設立しています。関口の死後、盲人教育会は消滅してしまいましたが、これが当校の前身、新潟盲唖学校設置の母体といえるようです。一方、上越では中頚城郡高田町(上越市)に、明治19年(1886)訓盲談話会が組織され、同21年には、「盲人矯風研技会」に改名し、盲児に鍼按、琴などの指導を始めています。このように、学校設置により教育を行い、手に職(鍼灸・あん摩)をつけさせ、視覚障害者の生活を安定させたいというのが関係者の切なる願いでした。

  ②<音楽> 音楽は、盲学校の職業教育として鍼按とともに早くから取り上げられ重視されてきました。音楽科教育のはじまりは、楽善会訓盲院で明治14年、箏曲をはじめとする邦楽を教授したのが始まりです。次いで、洋楽の指導も始まりました。音楽科の設置は、全国十校ほどありましたが、昭和三十年代、四十年代に閉科し現在では2校となっています。

  ③<理学療法> 昭和三十年代半ば頃から、障害者に対する医学的リハビリテーションの推進策が政府をはじめ重要課題として取り上げられるようになりました。そこで、理学療法士、作業療法士の養成することが急務となりました。昭和39年(1964)4月に、現在の筑波大学附属視覚特別支援学校と大阪府立盲学校の二校に理学療法士養成課程が設置され、後に徳島県立盲学校にも設置されました。卒業生は国家資格を取得後、病院やリハビリテーション施設で活躍しています。

  ④<情報処理> 1990年代からIT機器の飛躍的な進展により、視覚障害者が使いこなせる情報機器やソフトの開発が活発になりました。これを受け平成3年(1991)4月筑波技術短期大学(現:筑波技術大学)に情報処理に関する学科が開設されるとまもなく、平成5年(1993)4月大阪府立盲学校高等部専攻科に情報処理科が設置されました。IT機器が各盲学校に導入され、自立活動の時間を中心に積極的に活用されるようになりました。この頃から情報処理技術の活用により、視覚障害者が一般企業へ就労するようになりました。

  ⑤<その他> 昭和36年度から、当時の文部省では視覚障害者にふさわしい新職業の開拓が始まりました。盲学校及び聾学校の特殊教育職業開拓費として、十学級(一学級十名)六百万円が計上され、盲学校では5校にそれぞれ一学級の新職業科が設置されました。 北海道庁立札幌盲学校(農産物栽培科―椎茸)岩手県立盲学校(養鶏科) 神奈川県立平塚盲学校(電気器具組立科)  大阪府立盲学校(ピアノ調律科) 徳島県立盲学校(養鶏養豚科)

 これらの新職業科の中で、ピアノ調律科以外は短期間で閉鎖され、ピアノ調律科も、後に山形県立山形盲学校にも設置されましたが、大阪府立盲学校ともに、平成に入る頃までに閉鎖されました。

 3 三療(あはき)業団体と盲学校
 三療業者は、視覚障害者、晴眼者を問わず三療に就業している人々が団体を組織し種々の活動しています。代表的な団体は、いずれも公益社団法人である「全日本鍼灸マッサージ師会」「日本鍼灸師会」「日本あん摩マッサージ指圧師会」です。これら三団体の設立や運営に、盲学校理療科教員が深く関わっていた経緯があります。戦後の盲学校理療科教員は生徒の学習指導とともに、卒業後に三療で自立した職業人として仕事が進められるように、法整備から社会への理解啓発まで、多彩な活動を展開しました。現在では、各団体組織が独自に法人運営を行い、教職員が関与することはありません。

 4 三療研修と盲学校
 三療の組織的な研修は盲学校がはじまりです。現在では使用されていませんが、当校は長い間、卒業生の三療研修の場、実習室等が研修会場でした。 歴史を紐解くと、休日に「鍼研究会」とか「スポーツマッサージ研修」 「卒後研修」等が学校開放され開催されていたようです。講師は盲学校理療科教員が担っていました。盲人協会と同様に、盲学校が職業教育(三療)の先頭に立って牽引していたのです。

 5 福祉作業所と盲学校
 平成25年4月1日から「障害者自立支援法」が「障害者総合支援法」へと移行されるとともに、障害者の定義に難病等が追加され、平成26年4月1日から重度訪問介護の対象者の拡大、ケアホームのグループホームへの一元化などが実施されました。福祉サービスは、通所サービス(就労継続支援A・B型、生活介護等)居住サービス(グループホーム等)に再編整備されました。

 振り返って、昭和40~50年代(1970~80)は障害児者の福祉や労働に係る法制度が未整備な段階でした。当時、全国の盲学校では高等部重複障害生徒の進路先が一部の施設に限られ、卒業後の在家解消が大きな課題でした。当時は作業所等の福祉施設が少なく、視覚障害者が入所できる機会に恵まれないケースが多かったのです。そこで、盲学校の保護者・教職員・卒業生が施設建設に立ち上がったのです。地元、新潟市江南区の「のぎくの家」をはじめ、現在では社会福祉法人として大組織となった福井県鯖江市の「光道園」や同千葉県四街道市の「ルミエール」など、当初は盲学校関係者の小さな力の集まりでしたが、次第に地域の理解・支援を得て、現在では安定した施設運営がなされています。 

Ⅴ 文化・スポーツ
  <文化>
 1 点字図書館
 現在の新潟県点字図書館(ふれあいプラザ内)のはじまりは、中越盲唖学校教員であった姉崎氏によるところが大きく、研究者によれば、わが国最初の点字図書館の可能性が高いといわれています。その後、当校内に設置されたり、県立移管後は当校校長が館長を兼務したりするなど盲学校とともに歩んできた歴史があります。
 大正 9年12月 中越盲唖学校教員(現:柏崎市)の姉崎惣十郎氏が自宅で「姉崎文庫」を開設する。
 大正14年10月 「姉崎文庫」新潟県盲人協会に引き継がれる
 昭和20年 4月  点字図書館が新潟県立新潟盲学校盲学校内に移転される
 昭和33年 4月 任意団体盲人福祉協会立の点字図書館が新潟県に委譲され
   同時に、新潟県立新潟盲学校(新潟市金鉢山)隣接地に移転し、塚本校長が点字図書館長を兼務する
 昭和44年 4月   点字図書館が新潟市川岸町一丁目に新設・移転される
 平成 9年 3月   点字図書館、新潟ふれ愛プラザ(亀田町向陽)内に移転
                           ~ 以下略 ~ 

 2 点字にいがた
 点字にいがたは、新潟県施策の広報を目的に、昭和44年(1969)第1号が発行されて以後、本年夏号で第253号となりました。現在は、編集・印刷を新潟県視覚障害者福祉協会が担当していますが、点字印刷が普及していなかった昭和の時代は、当校で点字印刷され配付されていました。亜鉛板を二つ折りにし製版機で点字を打ちます。折られた亜鉛板の間に点字紙を挟み点字印刷機と呼ばれる2つのローラーの間を通すと点字が打ち出される仕組みです。 その後、広報は「県民だより」となり、平成4年(1992)には点字版とともに音声版の「ボイスにいがた」も発行されるようになりました。当校は毎号「教育の窓」欄に新潟盲学校の様子や児童生徒の作文などを掲載しています。

 3 全国盲学生短歌コンクール
 コンクールは、岐阜盲学校高等部生徒会の主催で実施され、平成26年度で第58回を迎えます。目的は、短歌を通じて豊かな感性を育て、同じ境遇におかれた盲学生相互の心の交流を図ることです。全国盲学校の児童生徒からたくさんの応募があります。新潟県視覚障害者福祉協会では、例年秋に視覚障害者文化祭が開催され、その場で俳句・短歌の表彰がおこなわれています。今年で64回を迎えますが、伝統を築いたのは全国盲学校の教育です。当校も例外ではなく、戦前から俳句・短歌の指導に力を入れ、盛んに詠まれました。昭和30年代の当校「PTAだより」にも生徒や職員の作品が掲載されています。

  <スポーツ>
 4 グランドソフトボール(盲人野球)
 盲学校でおこなわれる野球、現在のグランドソフトボールのルーツについては、よく分かっていません。伝えられているところによると、昭和の初め頃(1926頃)今から約90年前、すでに各地の盲学校の体育の時間や放課後に行われていたようです。ただし、当時野球は、今のようにしっかりルールがあるものでなく「投げて、転がす」単純な遊びに近い野球だったようです。その後、改良され現在のルールに近いものとなりましたが、第二次大戦で中断します。戦後、盲学校生の間にも野球熱が高まり、昭和26年(1951)7月点字毎日創刊30周年を記念して、第1回全国盲学校野球大会が大阪府立盲学校グランドで開催されました。昭和42年から平成8年まで中断されましたが平成9年から再開され、平成18年度第21回の新潟大会を数えるまでになり、ルールも整備されました。こうして盲学校を中心として行われていた盲人野球は、盲学校の生徒だけでなく、卒業生にも浸透し、国体後に開催される全国障害者スポーツ大会の正式種目となり、各地において社会人チームが結成され、地区大会が開催されるようになりました。このように盲学校が築き上げてきた伝統を、これからも継承してほしいものです。

 5 柔 道
 わが国発祥の柔道や相撲は、盲学校では大正時代から遊びとして取り入れられていました。競技としては、昭和30年代から盲学校で指導されてからです。戦後、中学校で武道が授業で取り上げられるようになり盛んになりました。当校でも昭和30年代から課外活動として「柔道部」が創部され、北信越盲学校柔道大会で幾度も優勝しています。現在は、中高等部の体育授業で柔道の指導がおこなわれていますが、残念なことに北信越盲学校柔道大会は出場者減少により平成17年度で中断しています。盲学校での柔道経験をもとに、日本視覚障害者柔道連盟が主催する全国大会が毎年開催され、国際大会ではパラリンピックの競技種目となっています。視覚障害者柔道の特色は、競技規則で試合開始時(再開時含)に、対戦者同士が向かい合い、片手を相手の柔道着の袖、もう片手を反対側の襟をつかんでいることと、主審の始めの合図があるまで動くことが許されないことです。

 6 盲学校から始まった競技
 盲学校で考案され、改良された運動競技はたくさんありますが、紙面の都合で一部を紹介します。
(1)フロアバレーボール(盲人バレーボール) 北信越地区盲学校大会有
(2)サウンドテーブルテニス(盲人卓球)      北信越地区盲学校大会有
(3)全国盲学校通信陸上競技大会(単独・音源走、幅跳び、投てき競技)
(4)マラソン  日本盲人マラソン協会による各地の開催
(5)その他 現在、一部の盲学校でおこなわれているスポーツ
   ゴールボール、ブラインドサッカー、ブラインドテニス、スキー

【略 歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
 1995年 新潟県立高田盲学校教頭
 1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
 2002年 新潟県立高田盲学校校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校校長 

@新潟県立新潟盲学校
 http://www.niigatamou.nein.ed.jp/index.html

 

【後記】
 今回は、新潟県立新潟盲学校の小西明校長先生に、新潟盲学校が視覚障害児者の教育を担うと共に、福祉、労働、文化の牽引役として果たしてきた内容を時系列で紹介し、今後の盲学校(視覚特別支援学校)の在り方を展望して頂きました。膨大な資料を基に時間いっぱいの講演でした。長い歴史の中で盲学校の果たしてきたお仕事を拝聴し、まさに盲学校が我が国の視覚リハビリテーションの一翼を担ってきたのだということを理解しました。 

 小西先生は、前回平成24年1月は新潟盲学校の学校要覧をもとに、在籍者数、教職員数、眼疾患、教育内容、学校行事等について概観して下さいました。
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 参考 報告 第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
 講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
  日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 http://andonoburo.net/on/3324

 

2015年1月9日

 済生会新潟第二病院眼科では、どなたでも参加できる講演会を開催しています。今回はホスピス医の細井順氏をお招きして講演会を開催致します。
 多くの皆様の参加を期待しております。

済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
 生きるとは…「いのち」にであうこと~死にゆく人から教わる「いのち」を語る
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
  日時:平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  どなたでも参加できます。参加費無料。
 要:事前登録
 http://andonoburo.net/on/3348

【事前登録】
 申込期限~平成27年2月21日(土)まで
 (ただし会場の関係で、100名に達しましたら受付を終了致します)
 申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗 
   e-mail gankando@sweet.ocn.ne.jp
   Fax 025-233-6220 

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 参加申し込み 済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
  氏名~  
   所属~  
   職業~
 @付添いの方が一緒の場合は、人数を教えて下さい。
 住所~都道府県名と市町村名のみ、お願いします

 連絡方法  
    e-mail アドレス~ 
   Fax番号~
  (可能な限り、メールでの連絡先をお願い致します)
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済生会新潟第二病院眼科では、これまで2回細井順先生をお呼びして講演会を開催しています。今回は、2005年11月の講演会報告をお届けします。

【済生会新潟第二病院眼科 公開講座 2005】
 演題:「ホスピスで生きる人たち」 
 講師:細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
  期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室

【講演要旨】
 ホスピスとは死んでいくところと理解している人が殆どだと思うが、実際に中で働いてみるとホスピスとは生きるところだと感じる。そういう意味でタイトルは「ホスピスで生きる人たち」とした。 

 現代は「自分の死を創る時代」といわれている。がんが死因の第一位を占めるようになって四半世紀が過ぎ、2人に1人はがんの宣告を受け、3人に1人はがんで死ぬ時代である。私自身も昨年腎癌と診断され手術を受けた。病を知り、死を意識して生きる時間が長いのも、がんという病気の特徴の一つである。そのような時代の中で、ホスピスは「がんと診断され残り時間が半年以内と予測された人たちの、人生の残りをその人らしく悔いのないように過ごしてもらうために、多職種のスタッフがチームを組んで全人的なケアをするところ」として広く認識され、その重要性が高まってきている。自分の死を創ることの意義を考えさせられた一人の例を紹介する。 

 50才代男性。咳が続いた。開業医に行くと、胸のレントゲンを撮って、肺に影があるからと大学を紹介された。 大学の内科で精査すると肺癌であることが判り、外科に紹介され手術を受けた。外科で手術が終わると、放射線治療のために放射線科を紹介された。放射線治療が終わると、今度はホスピスを紹介された。ホスピスで余命一ヶ月言われた。このストーリーのどこが間違っているのだろうか?誰の責任だろうか?各担当の医師は誠実に自分の行なうことをしっかり行ない、次に担当すべき医師に託しているのだが、、、。自分の命に自分で責任を持つ、すなわち、死生観を持つことが求められている。

 ホスピスとは何だろうか?ある人がこのように定義した。「患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」。自分で経験した3名のお話を紹介する。 

 50歳半ばのギャンブラー(相場師)。頸部の癌患者。ある日、点滴を眺めて点滴のカロリーが43Calであることを見つけた。患者(筆談):「これで充分なのか?」 細井:「これで充分ですよ」 患者は泣いた。何とかしようと考えた。聖書の言葉に「鳥の声・野の花」という一節がある。空を飛ぶ鳥は自分で種を蒔くわけでもなく、収穫物を刈るわけでもない。それでも日々空を飛んでいる。野の花も明日は摘まれて炉に投げ込まれるかもしれない。それでもその日一日は可憐な美しさを誇って咲いている。つめり何を食べようが、飲もうか、何を着ようかと思い煩わずとも、その日その日に生きる力を神から与えられているものなのだ。それを話すと患者はまた泣いた。今度は彼の心の琴線に触れたのだった。その後意識が朦朧とするまで3週間、彼と毎日筆談した。 

 50歳代女性。小売店経営。大腸癌で肝転移あり。患者:「先生にとって人間とは何ですか?」 細井「人間とは、誰かにあらしめられるもの」 翌日見舞い客に患者は「ホスピスではこんなことも教えてくれるのよ。お金以外に大切なものがあることがわかった」と嬉しそうに話していたという。翌日亡くなった。 

 80歳目前の元女医。患者:「私は嫁にここに追いやられた」 嫁:「おばあちゃんとどう接したらいいか判らない」 元女医は昔ミッションスクールに通っていた。そこで毎日聖書を一緒に読んだ。その効果かどうか分からないが、あまり他人の悪口を言わなくなった。ある日の夜「世界の平和を祈って、私は眠ります」と言って床に就いた。翌日亡くなった。 

 これらは、通常の医師・患者の関係では生まれない会話である。人間同志の関係において成り立つ会話である。上記の3名とも、それまで自分を支えてきた価値観から新たな価値観を見出すことが出来た。自分の死を創った人たちだ。 

 私は外科医として18年間がんと闘ってきた。しかし、父が胃がんのために淀川キリスト教病院ホスピスで亡くなったことをきっかけに、外科医を辞めホスピス医となった。それ以降多くの患者さんの最期に関わることが赦された。こうしてホスピスで学んだ5つの事がある。 

1)死は予期しない時にやってくる。
 病気知らずに中高年となり、ある日がんを宣告され、怖れ戸惑うのが多くの現代人の姿である。何事も願うようにはならないものである。 

2)病気で死ぬのではない。人間だから死ぬ。
 人間の仕事は子孫を残す事であり、死は生物学的にプログラムされたことである。病気にならなくても死は訪れる。 

3)死ぬことは、生きている時の最後の大仕事。
 人間は生まれた時から、死に向かって歩んでいる。ある時から死に向かって歩みだしているわけではない。引越しに例えると判り易い。引越し前夜は徹夜になることもある。それくらい、死ぬ前にやっておくことは沢山ある。 

4)生きれない時、死ねないときが来る。
 ホスピスで痛みの治療や、心のケアを受けると、生き返るように思い、大きな希望を抱く。しかし病状はがんの進行と共に悪化する。その時に、「早く死なせて欲しい」「生きていても仕方がない」と呟くようになる。生きたいけれど生きれない、死にたいけれど死ねない。そんな時にその人がこれまで生きてきた姿が出る。人は生きてきたように死んでゆく。 

5)生きているのでない、生かされているのだ。
 死は平等にやってくる。頑張っている人にも、そうでない人にもやってくる。頑張っているから生きているとは思えない。何かしらの力で生かされているように思える。 

 医師として臨終の場面に立ち合う時、どこかに暖かみがあり、心が洗われるような時間を経験する。しかし、他方では切ない看取りの場面に遭遇することもある。ホスピスでは、人生最後の1ヶ月間を過ごして旅立って行く患者さんが多い。そのために、ホスピスの時間はその人の一生を凝縮した時間だといわれる。ホスピスでよい時間を過ごすためにはそれまでが肝心ということであろう。ホスピスができることは、患者さんの苦痛を軽減し、人生を振り返ってもらうことである。 

 私は外科医として18年、ホスピスで10年勤めた。外科医の経験とホスピス医のそれとを比べて、ホスピス医は外科医より患者さんを生かしていると、今思えるのである。人はホスピスで生きかえると思える。私達は「何か」を求めて、日々、あくせくと生活している。その「何か」がホスピスにはあるように思える。外科医は、例えるなら、患者さんに100kgの重しがかかっていると、切り刻んで50kgや30kgにしようとする。時には失敗して200kgにしてしまうこともある。ホスピス医は、100kgの重しを一緒に支えようとする。そんな違いを感じる。ホスピスには人間同士として向かい合う姿がある。 

 「患者の死」は、外科医にとっては「苦い経験」である。ホスピス医にとっては、「生きる力」になる。「いのち」は死ぬことでは終わらない。自分の死を創った人は、残された遺族、また連なるすべての人の心の中で生きている。その人たちが生きる力になる。 

 どうしたらそのような死を迎えることができるのか?「手放すことができる」人は、自分の死を創るように思える。何かを掴もう掴もうとする人は、何も得ることは出来ない。手のひらを天に向けて手放す人は、空から降ってくるものを得ることが出来る。外科医はある意味では、悪いところを切り取り現状を維持しようとする。現在に留まろうとする。これでは手放すことが出来ない。ホスピスでは、今の現状を引き受けて、悪いところも含めた新しい自分に気づくことが出来る。手放すことが出来るのだ。 

 養老孟司によると、人間の体は1年間で70%の細胞は替わってしまう。3年もすると殆んどの細胞は替わってしまう。変わること、拘らないことが自分の死を創ることにつながる。自分の死を創った人は遺された人の「いのち」を創る。これを実感出来た時に、人は安心して死ねるのであろう。その時、死は優しく我々を迎えてくれるに違いない。

 

【細井順氏 略歴】
 1951年岩手県生まれ。
  1978年大阪医科大学卒業。
   自治医科大学講師(消化器一般外科学)を経て、
  1993年4月から淀川キリスト教病院外科医長。
  1995年4月に、父親を胃がんのために、同病院ホスピスで看取った。その時に患者家族として経験したホスピスケアに眼からうろこが落ち、ホスピス医になることを決意
   同ホスピスで、ホスピス・緩和ケアについて研修。
  1998年4月より、愛知国際病院で愛知県初のホスピス開設に携わる。
  2002年4月から、財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長として、
             地域住民の生活に溶け込んだ新しいホスピスの建設を推進している。
  2004年10月 第27回日本外科学会(盛岡)市民講座で講演
       「安心してがんの治療を受けるために~最新の治療法から終末期医療まで~」 

 現在、日本死の臨床研究会世話人
 著書:『ターミナルケアマニュアル第3版』(最新医学社、1997年)(共著)
     『私たちのホスピスをつくった 愛知国際病院の場合』(日本評論社、1998年)(共著)
    『死をみとる1週間』(医学書院、2002年)(共著)
    『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年) 

【後記】
 「竹馬の友」と呼べる友人がいる。彼は私の一歳年上、2歳上の兄と私の間の学年である。当時盛岡に住んでいた私達兄弟と彼は、毎日お互いの家を行き来して遊んだ。私が幼稚園から小学1年生時代の3年間である。3人兄弟のような関係であった。
 学生時代に3人で一緒に旅行した。彼の結婚披露宴に兄弟で招かれた。私の結婚式に参列してもらった。時を経て彼は外科医になり、新潟で学会があった時、一緒に飲んだ。大学の講師になりそれなりに活躍しているようであった。名古屋で眼科の学会があった時、一緒に飲んだ。その時には彼はホスピスで仕事をしていた。もとから彼はクリスチャンで、彼らしい選択と思った。その後彼は滋賀に移り、京都の学会の折に時々会った。
 彼に会うといつも不思議な感覚を味わう。タイムスリップして一気に盛岡時代に戻ってしまう。互いに50歳を過ぎ、バーのカウンターで互いに「順ちゃん」「伸ちゃん」と呼ぶ。それ以外の呼び方をお互いに知らない。中年男性がそんな呼び合いをしながら、仲良さそうに会話をしているのだから、さぞや周囲の人からは変に思われたかも知れない。
 そんな彼を新潟に呼んで講演会を開いた。「ホスピスに生きるひとたち」という演題で、約一時間の講演だった。最初は彼に講演など大丈夫かなと心配であったが、5分も経たないうちにそれは杞憂であることが判った。「ホスピスは、患者にあと一日の命は与えないが、その一日に命を与える」「病気で死ぬのではない、人間だから死ぬ」「死ぬことは、生きている時の最後の大仕事」『患者の死』は外科医にとっては『苦い経験』だが、ホスピス医にとっては、『生きる力』」、、、、、。
 彼の講演は、間違いなく満員の聴衆を魅了した。嬉しかったが、正直チョッと不思議だった。なぜなら私にとって「順ちゃん」は、立派なホスピス医ではなく、今でも「やんちゃな遊び友達」であるからだ。
http://andonoburo.net/off/2209

 

2015年1月4日

「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)
  日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

 済生会新潟第二病院眼科で、1996年(平成8年)6月から毎月行なっている勉強会の案内です。参加出来ない方は、近況報告の代わりにお読み頂けましたら幸いです。興味があって参加可能な方は、遠慮なくご参加下さい。どなたでも大歓迎です(参加無料、事前登録なし、保険証不要)。ただし、お茶等のサービスもありません。悪しからず。 

【抄 録】
 小学6年の時、網膜色素変性症のため視力を失いました。その後、新潟盲学校中学部に入学し、高等部を卒業するまでの6年間をそこで過ごしました。その間、見えない状態で生活することにも慣れ、好きな音楽や野球部の活動に勤しみながら、楽しく学校生活を送っていました。ただ高校生になったころから、盲学校の外の世界はどんなところなのか。もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが強く湧き上がってきました。しかしそのようなことを思っても、目の見えない自分に何ができるわけでもないと常に自分の気持ちを押さえつけていました。 

 そのような時、高校3年の担任の先生との進路相談の際、先生から「外の世界を見てみないか。」と言われ、それがきっかけとなり、京都の大学への進学、アメリカ留学そして帰国後の市議会議員選挙への立候補へと繋がっていきます。こうした経験の中で、「見えない」ということに対する自分の中での捉え方、社会との向き合い方が大きく変わっていきます。 

 日本でも障害者の権利条約が批准され、差別解消法も制定されました。また新潟市においても、現在差別解消を目的とした条例づくりが進められています。こうした動きを踏まえながら、障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされ、共に生きていける新潟市を築いていくため、さらに活動を進めていきたいと思っています。 

【略 歴】
 1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
     新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、京都外国語大学英米語学科。
 1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
 1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
 1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
 2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
    現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中。

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 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力によりネット配信致します。以下のURLにアクセスして下さい。下記のいずれでも視聴できます。
   http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai 
   http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/
 当日の視聴のみ可能です。当方では録画はしておりません。録画することは禁じておりませんが、個人的な使用のみにお願いします。
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『済生会新潟第二病院 眼科勉強会』
 1996年(平成8年)6月から、毎月欠かさずに続けています。誰でも参加出来ます。話題は眼科のことに限らず、何でもありです。参加者は毎回約20から30名くらいです。患者さん、市民の方、医者、看護師、病院スタッフ、学生、その他興味のある方が参加しています。眼科の外来で行いますから、せいぜい5m四方の狭い部屋で、寺子屋的な雰囲気を持った勉強会です。ゲストの方に約一時間お話して頂き、その後30分の意見交換があります。
 日時:毎月第2水曜日16:30~18:00(原則として)
 場所:済生会新潟第二病院眼科外来     

*勉強会のこれまでの報告は、下記でご覧頂けます。
 1)ホームページ「すずらん」
  新潟市西蒲区の視覚に障がいのある人とボランティアで構成している音声パソコン教室ホームページ
  http://www11.ocn.ne.jp/~suzuran/saisei.html
 2)済生会新潟第二病院 ホームページ
    http://www.ngt.saiseikai.or.jp/section/ophthalmology/study.html
 3)安藤 伸朗 ホームページ
    http://andonoburo.net/ 


【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月4日(水)16:30~18:00
 第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 大石華法(日本ケアメイク協会) 

平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00 @事前登録
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室  『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市) 
 http://andonoburo.net/on/3348

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長) 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士))
 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
 清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)

2014年12月31日

 済生会新潟第二病院眼科では、どなたでも参加できる講演会を開催しています。今回はホスピス医の細井順氏をお招きして講演会を開催致します。
 細井氏は、ホスピス医として死にゆく患者の傍らに立ち続けた日々が、一人の医師の心に豊かな「いのち」観を育んだといいます。自らのがん体験によってさらに深まった独自の死生観を語ります。良く生き、良く死ぬとは何か、また超高齢社会でどう看取り、死を迎えたらいいのか、、、、、、、
 多くの皆様の参加を期待しております。

案内:済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」 事前登録開始
 講師:細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 演題:生きるとは…「いのち」にであうこと~死にゆく人から教わる「いのち」を語る~
  日時:平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室(予定)
  どなたでも参加できます。参加費無料
 要:事前登録 

【事前登録】 申込期限~平成27年2月21日(土)まで
 (ただし会場の関係で、100名に達しましたら受付を終了致します)
 申し込み先:済生会新潟第二病院眼科 安藤伸朗
   e-mail gankando@sweet.ocn.ne.jp 
   Fax 025-233-6220 
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 参加申し込み 済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」
  氏名~  
   所属~
   職業~

 住所~都道府県名と市町村名のみお願いします
 連絡方法 
    e-mail アドレス~ 
   Fax番号~
  (可能な限り、メールでの連絡先をお願い致します)

 付添いの方が一緒ですか? (はい、いいえ) 

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生きるとは…「いのち」にであうこと~死にゆく人から教わる「いのち」を語る~
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)

【講演抄録】
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 外科医として18年間勤めたあとにホスピス医となり、19年が過ぎようとしている。外科医の間は病気をみてきた。その時に病人(患者さん)を苦しめている病気を治すことばかりを考えて過ごした。点の勝負だった。ホスピスに転じてからは、患者さんのもつ苦悩につきあってきた。患者さんと時の流れを共に過ごした。外科医は自分の治せる病気を診療する職人だったので、かなり限られた範囲の人しか診なかった。ホスピスでは、治せない病気の人を診させていただき、結果として随分といろんな方々と出会うことができた。

 そこで気づいたことがある。外科医は病気を治すことはできるが、人を生かすことはできない。ホスピス医は病気を治すことはできないが、人を生かすことができる。つまり、ホスピスケアは人に生きていく力を与えることができるのだ。さらに言えば、死にゆく人から私自身が生きていく力をいただくのだ。

 遺される人に生きていく力を与える。この力が「いのち」と呼ばれるものではないのだろうか。ホスピスでは生死を超えた「いのち」にであうことができる。死んでも途絶えることなく人から人へと伝えられる「いのち」、個人のものではなくてすべての人に共通する「いのち」に気づくときに、人は自分を閉じ込めている殻が破れ、平安な死に迎えられるのではないだろうか。ホスピスの真実がここにある。

 阪神淡路大震災、東日本大震災やその後の度重なる災害の中で、多くの生命が前触れもなく絶たれていく。突然のかなしみに前途を失うことも多いことだろう。しかし、「いのち」はつながれていくのだと思う。かなしみを通して、誰もがつながる「いのち」から多くの生きていく力をもらっているに違いないと思う。

 死の様は人それぞれで、それを選ぶことはできない。死の前では無力ではあるが、「いのち」のつながりの中で、生命もつながれていく。死にゆく人たちとのであいから教わったことを皆様と分かちあいたいと願っている。

【プロフィール】
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 1951年、岩手県盛岡市の生まれ。小学二年生のとき、医師だった父の異動で京都に引っ越し、以来、大学卒業まで京都で育つ。クリスチャンホームで、物心つく前から教会に通い、中学一年生で受洗した。父親は法医学の大家、四人の叔父は外科医。
  1978年大阪医科大学卒業。自治医科大学消化器一般外科講師を経て、淀川キリスト教病院外科医長となった。その時父親を胃がんのために同病院ホスピスで看取っ た。このことをきっかけに96年ホスピス医に転向した。2年間研修後、愛知国際病院ホスピス長を経て、2002年よりヴォーリズ記念病院にてホスピスケアを行っている。
 2004年、自身も腎がんで右腎摘出術を受けた。その後、自らの体験を顧みつつ、「死の前では誰もが平等、お互いさま」をモットーにしてケアを実践している。その様子がドキュメンタリー映画「いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日~」として2013年春から全国公開され、ホスピスからのメッセージを多くの人たちに届けている。 

@淀川キリスト教病院」http://www.ych.or.jp/
 1973年に日本で最初にホスピスケアを行い、1984年には日本のホスピスの生みの親、柏木哲夫氏(現・同病院理事長、名誉ホスピス長、金城学院長)により国内二番目のホスピスが開設された。細井氏はホスピス医としての指導を受けた。
@ヴォーリズ記念病院ホスピス」http://www.vories.or.jp/medical_dep/kanwacare.php
@ドキュメンタリー映画『いのちがいちばん輝く日~あるホスピス病棟の40日』http://www.inochi-hospice.com
 

【著 書】
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『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)、
『死をおそれないで生きる~がんになったホスピス医の人生論ノート』(いのちのことば社、2007年)
『希望という名のホスピスで見つけたこと~がんになったホスピス医の生き方論』(いのちのことば社、2014年)

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●済生会新潟第二病院眼科では、細井氏をこれまでに何度かお呼びし講演会を開催しています。
 参考までに、これまでの講演会の講演要旨を以下に記します。 

@済生会新潟第二病院眼科 公開講座2005『細井順 講演会』
 演題:「ホスピスで生きる人たち」
 講師:細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
  期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
  場所:済生会新潟第二病院10階会議室
 http://andonoburo.net/on/2548

@済生会新潟第二病院眼科 公開講座2008『細井順 講演会』
(第144回(08‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
 演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
 講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
   期日:平成20年2月23日(土) 午後4時~5時半
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
 http://andonoburo.net/on/2573