報告:第195回(12‐05月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 西田 稔
演題: 「失明50年を支えた母の言葉」
講師: 西田 稔 (横浜市)
日時:平成24年5月9日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/6022
【講演要約】
昭和32年5月、私は左眼の眼底出血を起こし、眼病との闘いが始まった。当初、原因は結核性といわれていたが、最終的に大学病院の診察でベーチェット病であることが判明した。この時、私は病名がはっきりしたので、病気も良くなるのではないかと思った。しかし、実際は原因もまだはっきりしておらず、対症療法に頼る以外に方法もないことがわかった。しかし、ステロイド剤を使用することによって、かなりの症状を抑えることが出来た。入退院を繰り返しながら、ステロイド剤で病状を整えることが主たる治療法だった。
昭和34年9月、かかりつけの眼科医との相談の結果、職場復帰をすることにした。仕事も順調にすることが出来たが、その年の11月に入って、気温も下がり、寒さが体調を崩す引き金となり、身体の節々やそれまで何ともなかった右眼まで発作を起こすようになってきた。それでも、ステロイド剤の投与により数日間で炎症も治まった。
昭和35年1月17日、両眼同時に眼痛を伴った激しい発作に見舞われた。もちろん、一人での外出は不可能で、仕事も休みを取り、母の介添えで通院した。その時の発作は、ステロイド剤もよく効かなかった。その年の4月、再び休職となり、職場の勧めで大学病院に入院した。大学病院でも検査、診察、治療を受けたが、一向に症状の改善はみられなかった。その年の7月には、左眼の続発緑内障を起こし、激しい眼痛に耐え切れず、医師の勧めもあり、左眼球摘出を受けた。
この頃から、「もしかすると、失明するかもしれない」と思うようになってきた。定例回診の時には、必ず、主治医に、「私の目は、よくなるのですか?それとも、だめなのですか?」と尋ねた。しかし、主治医の返事は、「やるだけやってみないとわかりません。」というのが決まり文句だった。その年の10月、私の質問に対して、主治医が同じ返事をした場合、診察室に座り込んで、動くまいと考えた。私の順番が来て、一通りの診察が終わったところで、私は、主治医にいつものように質問した。やはり、同じ答えが返ってきた。私は、予定通り座り込んだ。「先生、今日ははっきりしたお答えをいただかない限り、私はここから動きません。」と言った。主治医は、黙って立っているだけだった。看護師さんたちが私を宥める言葉をかけてきたが、私は、頑として動かなかった。どれくらい時間が経過しただろうか?私の後ろに別の患者さんたちが並んで診察を待っていることに気がついた。あの患者さんたちには責任はない。少し、悪いなぁと思って、私は口を開いた。「先生、私は、どんなことを言われましても驚きません。ダメな時は、盲学校に行って新しい人生を歩む覚悟は出来ております。」と一気に言った。すると、主治医は、「西田さんが、そこまで考えているなら、盲学校に行かれた方がよいと思います。」と言ったのである。この主治医の言葉は、事実上の失明宣告であると受け止めた。「はい、わかりました。」と言って、私は立ち上がり、自分のベッドに戻って横になった。私の頭の中は、真っ白だった。「何を言われましても、驚きません。」と大見栄を切ったにも関わらず、このザマである。何とも情けなかった。
考えることは否定的なことばかりだった。目が見えないと、本が読めない、テレビや映画を見ることも出来ない、一人でどこへでも歩いて行くことが難しい、などと思うばかりだった。こんな考え方を続けていくと、絶望的になり、生きていく意味がないのではないかと考えた。このような時、母が病院にやって来た。「その後、目はどうかね?」と言うのがいつもの母の言葉であった。私は、「どうもダメらしいよ。」と言って、主治医との話のやりとりを母に説明した。母は少しがっかりしたような感じを見せながら、「私は毎日、あんたの目が良くなるように、神様や仏様に祈っているのだけどね。」と言った。さらに、続けて、「私は、目は二つも要らない。あんたに一つあげても良いけどね。」と言った。「今の医学では眼球の移植は難しいよ。」と私が言うと、母はさらに、がっかりしたような雰囲気を見せた。このとき、私は、私の失明を私以上に、母の方が悲しんでいるのではないかと思った。
少し時間をおいて、母は話し出した。「失明は誰でも経験することが出来るものではないよ。これを、貴重な体験と受け止めてはどうかね?そして、それを生かした仕事をしてはどうかね?そして、それがたとえ小さくても、社会貢献に繋がれば、大きな生きがいになるのと違うかね?」と言った。そして、母は、「また、来るからね。」と言って帰って行った。私は、母の言った、「貴重な体験」という言葉の意味を寝ても起きても考え込んだ。私は、失明を残酷な体験としか思っていなかったので、貴重な体験という母の言葉にいささか驚いた。いろいろと考えているうちに、失明という失ったことを通して何かを得て、それが社会貢献に繋がれば、生きがいになるかも知れないと思うようになってきた。
日本の目の不自由な人たちはどんな教育を受けて、どんな職業を身につけて、自立しているのか調べるために最寄りの盲学校を訪ねてみた。まず、点字を覚えることの大切さと必要性を教えていただいた。職業については、あん摩、鍼、灸の三療で、生活の自立を図っている人が多いこともわかった。昭和36年4月、社会復帰を目指し、母に伴われて上京した。三療の資格習得後、恩師や先輩の支援を得て、盲学校の教師になることが出来た。
平成12年10月、NPO法人を立ち上げて、主として中近東やアジア地域の視覚障害者への補助具の支援を行う活動を行っているが、おそらく、天国の母も私たちの活動を見て喜んでくれていると思っている。
【略 歴】
1932年 福岡県生まれ。
1956年 大分大学経済学部卒。
同年 福岡県小倉市役所(現北九州市)事務官。
1957年5月 ベーチェット病発症。その後入退院を繰り返す
1961年4月 国立東京光明寮2部3年課程入寮。
1962年3月 失明
1963年4月 日本社会事業大学専修科入学(夜間部)。
1964年3月 国立東京光明寮と日本社会事業大学同時卒。
1964年4月 大分県立盲学校教諭。
1972年4月 国立福岡視力障害センター教官。
1980年7月 同センター主任教官。
1984年4月 同センター教務課長。
1992年3月 同センター定年退職。
同年 埼玉県に移り住む。
1994年から1998年まで 国立身体障害者リハビリテーションセンター
理療教育部非常勤講師
2000年5月 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い
組織委員会副会長。
2001年10月 NPO法人「眼炎症スタディーグループ」理事長。
(2010年7月 NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」名称変更)
2011年3月 NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」理事長退任
現在、横浜市在住。
【後 記】
いくつも心に残るフレーズ・事柄がありました。曰く、「安静を保つように言われ、半年も風呂に入らなかった」「患者さんの毎日の出来事を書いてもらって診断に利用した」「真剣に対応し、よく調べてくれた医師の言葉は重い」「失明宣告には、患者さんへの対応(どのようにすべきか)が伴うべき、患者の対応は、どんどんネガティブになってしまう」「点字は必要」
障害を持った場合、本人の苦痛はよく語られますが、家族も同様にストレスを感じています。家族は世間の荒波から守ってくれる防波堤になってくれますが、裏返しの意味で、社会に出ていく時のハードルにもなってしまいます。庇うわけでもない、突き放すわけでもない西田さんのお母様の対応に感心しました。
今後の夢として、NPOを通して海外へ同胞(ベ-チェット患者)の支援を続けたいという志に乾杯です。
「学問のすすめ」第6回講演会 済生会新潟第二病院眼科
1)私の歩いた一筋の道 糖尿病と妊娠の分野を開拓しながら学んだ事
大森 安恵(海老名総合病院 糖尿病センター長)
(東京女子医科大学名誉教授 内科)
2)糖尿病網膜症と全身状態
-たとえば、どの位のHbA1cが何年位続けば網膜症は発症するのか?
廣瀬 晶(東京女子医大糖尿病センター 眼科)
日時:2012年3月17日(土)15:00~18:00
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
リサーチマインドを持つ臨床医が、新しい医療を創造することができます。難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。これからの医療を背負う人たちに、夢を持って仕事・学問をしてもらいたいと、平成22年2月から「学問のすすめ」講演会を開催しています。
今回は、元東京女子医大糖尿病センター長で現在も世界各国で活躍中の大森安恵先生(東京女子医大名誉教授;内科)と、糖尿病の全身管理と網膜症について精力的に仕事をしている眼科若手ホープの廣瀬晶先生(東京女子医大糖尿病センター眼科)に講師をお願い致しました。
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私の歩いた一筋の道 糖尿病と妊娠の分野を開拓しながら学んだ事
大森 安恵 (海老名総合病院 糖尿病センター長)
(東京女子医科大学名誉教授 内科)
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【講演要約】
「学問のすすめ」といえば誰しも福沢諭吉を思い浮かべ、「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云えり」という名文を想起するものである。しかし、私はよりじかに私の心に沁みているものとして、鹿児島県・蒲生八幡神社に掲げてあった福沢諭吉心訓が好きである。
一、世の中で一番ただしく立派なことは、一生を貫く仕事を持つ事
一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事
一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事
一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事
一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕し決して恩に着せない事
一、世の中で一番美しい事は、全てのものに愛情を持つ事
一、 世の中で一番悲しい事は、嘘をつく事
である。
さらに諭吉より62年先に生まれた江戸時代の儒学者、佐藤一斎の「学は一生の大事」と題する「小にして学べば 則ち壮にして為すことあり、壮にして学べば 則ち老いて衰えず、老いて学べば 則ち死して朽ちず」というこの小文が、学問の大切さを最も力説している名言ではないかと思い敬愛している。
学問を愛し、人類に貢献した人は、洋の東西を問わず、歴史上枚挙にいとまがない。解剖学者ヴェサリウス,彫刻家ミケランジェロ,野口英世,藤波鑑などなど。その中でも学者として私の好きな人物は、全身麻酔による乳がんの手術に成功した華岡青洲、東京慈恵会医科大学創始者高木兼寛、植物分類学者の牧野富太郎、産婦人科医の荻野久作、精神科医で著述家の神谷美恵子などである。
1851年検眼鏡を発明したヘルムホルツに至っては、医学生の頃から驚愕の大学者であった。どうゆう動機で体の外から内面を覗き見る方法を発見したのか、この医学生の疑問は昭和20年代、誰からも教えて頂けなかった。今回の講演に際し医史学酒井シヅ教授からヘルムホルツに関する文献を沢山紹介され、50年以上疑問に思っていた事が氷解出来た。これぞ学問であると楽しんだ次第である。
学問で名をなしたこのような人々の事を考えると私の出る幕ではないと思はれて仕方がないが、ご指名頂き大変光栄に存じている。一つの事柄を確立した人は,一つの病気を発見したに等しいと、恩師平田幸正教授に励まされてきた事に勇気づけられてお話させて頂いた。
1960年代まで、わが国は糖尿病患者が少なく,若年発症糖尿病も稀であったせいか糖尿病があると危険だから妊娠してはいけないという不文律があった。したがって,糖尿病があって折角妊娠しても人工流産をさせられるか,死産に終わる事が一般的であった。しかし、よく勉強してみると,欧米では糖尿病と妊娠の歴史は、1921年インスリンの発見を契機に始まっており、自分自身の悲しい死産の経験が動機になって、女性の苦しみは女性によって解決すべきであると考え、私の小さな道一筋の第一歩が始まったわけである。
糖尿病があっても血糖コントロールが良ければ妊娠は出来るという情報を発信すると、東京女子医大病院へ挙児希望の患者さんが全国から来院され、年を経る毎に階段的に急増した。昭和39年女子医大の糖尿病妊婦出産の第一例は、日本における「リリーインスリン50年賞」受賞者の第一例でもある。
糖尿病学を教わった恩師は中山光重、小坂樹徳、平田幸正教授他、多数いらっしゃるが、「糖尿病と妊娠」の分野を教わる先生は日本におらず子供らをおいて辛い留学をしたのは、この道を開拓し、先進国に並ばねばならない使命感があったからである。
「糖尿病と妊娠に関する研究会」を立ち上げ、「わが国における糖尿病妊婦分娩例の実態調査」を開始し、糖尿病妊婦治療の第一義は血糖正常化である事を叫び続けてきた。その結果、日本の周産期死亡率は1971年代10.8%であったが20年後には2.2%に減少した。しかし児の奇形率は依然として5?7%から改善していない。それは,糖尿病における奇形は妊娠7週までに形成され、主因はfuel mediated teratogenesisと呼ばれる高血糖であるのに、妊娠してからコントロールを良くしようとする医療が行われているからである。妊娠前からコントロールを良くする計画妊娠が未だ普及していないことを物語るものである。糖尿病妊婦の出産を正常者と変わりなく遂行する努力の傍ら、胎盤インスリンレセプターとインスリンの結合,臍帯血のCPR, IGF-1その他多くの臨床研究をCo-workerとともに行った。
糖尿病妊婦の臨床研究で最も大切なものは眼科とのチームワークであった。Urretzs-Zavalia著「Diabetic Retinopathy」という単行本の中に、「Diabetic Retinopathy and Pregnancy 」と題する一章があって読みたいが身近にその本が無い。昭和52年この本を持っているのは福田雅俊先生だけであることを知り、目白台の東大分院までお借りに伺った事がある。“学究の徒を同志に得て、僕はとても幸せだ”と言ってお貸し下さったときの嬉しそうなお顔は今でもはっきり覚えている。これをきっかけに眼科医との協同研究はさらに深まった。
妊娠による糖尿病網膜症の変化、妊娠中の光凝固率、妊娠中光凝固を実施した32例のうち20年以上追跡し得た6症例の単純網膜症化、などなど、光凝固治療法の素晴らしさにこころから敬意を表している。
医学の日進月歩は凄まじい。私は野口英世の「待て己、咲かで散りなば、何が梅」を座右の銘に,女性医師としての使命感を常に持ってきた。サムエル・ウルマンは「青春とは人生のある期間ではなく,こころの持ち方を言う。年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時初めて老いる」と言ったが、老年の現在、理想を失わない努力をしている。
福沢諭吉が、「世の中で一番正しく立派な事は、一生を貫く仕事を持つ事である」と述べている事を冒頭で紹介したが、まだやらねばならない糖尿病と妊娠の問題を一杯抱えているので死んでなんかいられないと思っている。講演の機会を与えて下さった安藤先生、ご清聴下さった皆様に深く感謝致します。
【略暦】
1956年 東京女子医科大学卒業 インターン研修
1957年 東京女子医科大学第2内科に入局
直ちに糖尿病の臨床と研究を開始
1960年 死産が動機で糖尿病と妊娠の分野を確立
小坂樹徳、平田幸正教授に師事。医局長、講師、助教授
1981年4月 同大学糖尿病センター教授
この間スイス、カナダに留学
1985年 「糖尿病と妊娠に関する研究会」の設立に関わり代表世話人
1991年 東京女子医科大学第2内科主任教授 兼 糖尿病センター長
1997年3月 東京女子医科大学定年退職、名誉教授
4月 東京女子医科大学特定関連病院 済生会栗橋病院副院長
1997年5月 女性で初めて第40回日本糖尿病学会会長
2001年 「糖尿病と妊娠に関する研究会」 学会に変革し理事長
2002年 海老名総合病院糖尿病センター長
現在にいたる
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2005年 「日本糖尿病・妊娠学会」名誉理事長
2008年 米国Sansum科学賞 日本に糖尿病と妊娠の分野確立の理由
2010年 Distinguished Ambassador Award受賞
ヨーロッパ糖尿病学会Diabetes Pregnancy Study Groupより
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糖尿病網膜症と全身状態
―たとえば、どの位のHbA1cが何年位続けば網膜症は発症するのか?
廣瀬 晶 (東京女子医大糖尿病センター眼科)
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【講演要約】
目の前に座った糖尿病患者さんに、その方の今後の血糖コントロールと糖尿病網膜症の予後との関係をわかりやすくお示しできれば、治療のモチベーションが上がり、網膜症だけでなく他の糖尿病合併症の予防にも役に立つのでは?というのが、この研究を始めたそもそもの動機です。
HbA1cは、1回の採血で直近1~2ヵ月間の平均血糖を反映する指標であるため、血糖コントロールの良・不良を評価する上で大変便利かつ重要で、日常の臨床の場で広く使われています。しかし、HbA1cの値が高いのに網膜症が全くなかったり、逆に値が低いのに網膜症が進行している糖尿病の患者さんに接して戸惑った経験は、皆さん多かれ少なかれお持ちなのではないかと思います。糖尿病網膜症は、血糖コントロールが不良で糖尿病罹病期間が長いほど起こりやすいことが知られていますが、実は、どの位のHbA1cが何年位続けば網膜症は発症するのか?という素朴な疑問については、まだよく研究されていないようなので、調べてみることにしました。
ところが、実際に血糖(HbA1c)の網膜症に対する影響をできるだけ純粋に正確に見ようとすると、実に様々なことが問題になってくることがわかってきました。そこで、理想的な症例群のモデルについて以下のように考えてみました。
まず、糖尿病網膜症は糖尿病による全身状態の複合的な異常の総和によって起こる疾患であるため、血糖以外の全身的影響因子である血圧・脂質の関与をなるべく少なくする必要があります。これらは、一般に年齢とともに網膜症を悪化させる方向に向かうため、観察対象の糖尿病患者を若年者に限れば、ある程度影響を減らすことができると思われます。
また、過去の血糖がその後の網膜症に長く関与するメタボリックメモリーという厄介な現象があり、その影響を取り除くには、結局、そもそもの糖尿病発症の時期を特定し、以後の糖尿病罹病全経過中のHbA1cを把握するしかないと考えました。このためには、発症時期の特定が困難な2型糖尿病より1型糖尿病が適しており、また1型糖尿病の中でもゆっくり進行するタイプは除外し、特に発症時期がはっきりしている症例だけを選ぶ必要があります。
さらに、HbA1cの値は測定の方法・機種・年代により実はかなり誤差が大きく較正が必要なこと、網膜症もいろいろな検査法で判定が変わってくることを考えると、ほぼ同一の時期に観察をはじめて、同じ期間・施設で継続して検査したHbA1c値と網膜症の判定結果を用いるのが望ましいことになります。しかも糖尿病網膜症の進行は遅いため、血糖コントロールの違いによる差を見るためにはかなり長期の観察期間が必要になってきます。
これら全ての条件を満たすため、1988年~1990年の3年間(比較的同一時期)に東京女子医科大学・糖尿病センターを初診した(同一施設)糖尿病患者約9000人の中から症例を厳選しました。すると、30歳未満(若年者)での糖尿病発症(はっきり月単位で特定できるもののみ)後12カ月以内(20年の観察期間に比するとほぼ発症直後)に初診した若年発症1型糖尿病で、以後継続して同センターでHbA1c測定と眼底検査を行い(他施設でのHbA1c値・網膜症評価は使用せず、かつHbA1cが2年度以上測定できなかった症例は除外)、20年目(長期の観察期間後)に網膜症の評価ができた症例が15例残りました。男性6例女性9例、糖尿病発症時年齢は20±8 (平均±SD)(5~28)歳、糖尿病発症~初診までは3±3 (平均±SD)(0~11)ヶ月で、糖尿病発症後20年度に網膜症有は5例(33%)でした。
これらの症例では、20年目での網膜症の有無は20年間の通算平均HbA1c値が8%弱程度(JDS値)で分かれていました。症例数が少ないのでまだ確かな事とは言えませんが、かなり厳密に症例を選んだ結果ではありますので、どの位のHbA1cが何年位続けば網膜症は発症するのか?という疑問に対しての、現時点での答えであるようにも思われます。
また、20年目で網膜症有の群の毎年の年間平均HbA1c値の推移は興味深く、20年間を通じて一律に高いというばかりではなく、糖尿病発症後前半の約10年間は網膜症無の群にくらべて有意に高値なのに対し、後半の10年間ではその有意差がなくなっていました。目の前に座った患者さんの現在の網膜症の状態が最近のHbA1cと乖離していても、それは、その方の網膜症が糖尿病発症以来長期に渡る通算HbA1cの結果であるから(昔の血糖が効いているから)なのかも知れないわけです。
また、HbA1c値を用いた網膜症発症予測指数が有用である可能性があり、逆に網膜症からの指数の推定や、将来は血糖だけでなく種々の全身的因子と糖尿病合併症全般との関係の包括的な解析ができればなあ、と考えております。
【略歴】
1986年 東京医科歯科大学医学部卒業・同眼科研修医
1990年 出田眼科病院
1996年 東京医科歯科大学眼科助手
1996年 (東邦大学佐倉病院眼科国内留学)
1999年 (Johns Hopkins大学research fellow)
2003年 帝京大学眼科助手
2005年 東京大学眼科助手
2008年 東京女子医科大学東医療センター眼科講師
2009年 東京女子医科大学糖尿病センター眼科講師
報告 第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要旨】
1 はじめに
新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、開校から4年後の1911年(明治44)に最初の卒業生を世に送り出しました。この年に同窓会が創設され、平成23年をもって百年を迎えることができました。同窓生はじめ、御支援いただいた多くの皆様のおかげと感謝しております。
新潟盲学校百年の歴史は、県内視覚障害児者の教育・医療・福祉・労働等の変容を、かなりの部分映し出す鏡でもあります。ここでは、当校の学校要覧をもとに、沿革にはじまり、在籍者数と教職員数、眼疾患、教育等について概観し、今後の視覚障害教育の在り方について考てみたいとおもいます。
2 沿革略史
1903(明治37) 長谷川一詮らが、(1)新潟市東堀前通り8番町の私立蛍雪校の一部を借り「盲唖学校」を開設
1907(明治40) (2)新潟市医学町通1番町に借館し「私立新潟盲唖学校」として、盲生19名、唖生8名をもって開校する。
1910(明治43) 校舎を(3)新潟市西堀通3番町に新築移転する。
1922(大正11) 新潟県立新潟盲学校となり、ろう唖部は昭和2年まで存置する。校地校舎基本金一切を新潟県に寄付、財団法人新潟盲唖学校を解散登記。
1930(昭和 5) 校舎・寄宿舎が(4)新潟市関屋金鉢山町53に新築移転する。
1937(昭和12) ヘレンケラー女史が来校される。
1948(昭和23) 盲学校教育義務制が施行される。
1953(昭和28) 新校舎8教室(2,505㎡)が増築竣工する。
1957(昭和32) 創立50周年記念式を挙行する。
1963(昭和38) 現所在地の(5)新潟市山ニツ1117(現地27,044㎡)に校舎(3,667㎡)寄宿舎(1,750㎡)が竣工し移転する。
1977(昭和52) 創立者、前田恵隆殿と久保田清蔵殿の慰霊祭を創立70周年記念行事の一環として挙行する。
1980(昭和55) 校舎第4棟(1,448㎡)が竣工する。
2006(平成18) 新潟県立新潟盲学校高田分校が県立上越養護学校内に設置される。
2007(平成19) 新潟県立新潟盲学校創立百周年記念式典を挙行する。
2011(平成23) 新潟県立新潟盲学校同窓会創立百周年記念式典を挙行する。
* (1)~(5)は校舎等所在地
3 在籍者数と教職員数
「私立新潟盲唖学校」は、1907年(明治40)、盲生19名、唖生8名にて開校しました。開校後生徒数は徐々に増え、10年後の1916年(大正5)には68名となりました。唖生の教育を分離した1927年(昭和 2)には盲生132名を数えるほどになり、校舎が手狭となったため関屋金鉢山への新築移転となりました。その後、戦争の時代を迎え深刻な食糧難もあり、生徒数は横ばいでした。
戦後の教育改革により、盲学校は義務制となり就学奨励法による児童生徒への支援が始まると生徒数は飛躍的に伸び、1964年(昭和39)には189名を数えるほどになりました。 当校の在籍者はこれがピークであり、現在まで減少を続けています。医療・衛生の飛躍的な進展、出生数の減少がその背景にあるといわれ、当校に限らずほぼ全国的な傾向です。
教職員については、開校当初校長を含め僅か4人でした。4人で盲生と唖生を教育していたことになります。当時は、先生が盲聾教育について特別な指導を受けたり、資格があったわけではありませんでした。開校10年後には、生徒数増に伴い教職員は10人となりますが、唖部が分離し生徒数が132名にもなった1927年(昭和 2)になっても教職員は2人増えただけでした。大正時代に県立移管となった後も、学校経営は経済的に厳しく、職員を確保する財源がなかったことが原因としてあげられます。そこで、生徒同志で教え合ったり、高学年の生徒が年少児童の世話をしたりして、学校や寄宿舎で過ごしていたことが同窓会誌等に綴られています。
1948年(昭和23)の義務制以後、義務教育標準法により教職員が確保され、定数改善が継続され、在籍者1名当たりの教職員数は増えています。
4 眼疾患の推移
眼疾患に関する記録では、1936年(昭和11)の新潟県立新潟盲学校一覧に掲載されている「失明原因調」が現存する資料で最も古いものです。栄養不良、その他、角膜炎、麻疹、先天性等が上位を占めています。残念なことに、1941年(昭16)から1951年(昭和26)までの記録が残されていません。戦中戦後の混乱期に紛失したのか、そもそも診察や調査が実施されなかったのかについては不明です。
戦後は、1952年(昭和27)の学校要覧から「眼疾」として記載されています。眼球癆、角膜疾患、牛眼、白内障、網膜色素変性症等が疾患の上位を占めています。
その後、1970年(昭和45)からは、筑波大学心身障害学系による「全国盲学校児童生徒の視覚障害原因等調査」が開始されました。調査は5年ごとに実施され、当校の学校要覧眼疾患の項目は、70年以後当該調査の形式に則っています。
5 盲学校教育百年に学ぶ
(1)学校運営
1872年(明治5)学制発布により「小学校、人民の一般必ス学ハスンハ・・・」とありますが、障害児(ここでは盲聾児)の就学については触れておらず、「廃人学校アルヘシ」とあるのみでした。盲聾学校義務制が施行されたのは、戦後の1948年(昭和23)であり、明治初期に学校教育が始まって75年を経過した時でした。
この間、先達たちは崇高な志を掲げ、盲聾者への教育の必要性や可能性を説き、心血を注ぎ学校開設や運営に尽力しました。この活動を財政面で協力した支援者として、髙橋助七氏(高助)や中野貫一氏(中野財団)の名が上げられます。少額ではありますが、資金援助をされた市民の方々もありました。盲学校教育が公教育として、公的負担がなされるまで、学校の経済的困窮は開校からの最も大きな課題でした。
(2)教育制度
2011年(平成23)7月29日、障害者基本法の一部改正により、可能な限り障害児が障害のない児童生徒と共に学ぶという考え方、いわゆるインクルーシブ教育が法令上明記されました。「廃人学校アルヘシ」との一文から140年の時を経て、ようやく学ぶ場が共有されたことになります。二元論から一元論へ、ノーマライゼーションの進展です。今後は、ますますユニバーサルデザインの教育推進が求められると共に、盲学校においてはその専門性の確保が求められることになります。
(3)これからの盲学校に期待されること
○視覚障害は最も少ない障害であるからこそ、教育ニーズに的確に対応できる核となる場(盲学校)が必要ある。
○盲学校には、地方自治体で唯一の視覚障害教育の資源・支援センターであることの自覚や使命感が求められる。
○盲学校は「指先を目としながら学ぶ」子どもから大人に、高い専門性と特別に工夫された教材・教具を提供し、教授する指導者を育成する。
○盲学校は、医療・福祉・労働など、教育以外の分野との連携により、視覚障害児者の多様なニーズに対応しQOL向上に寄与する。
【略歴】
1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
【追記】
新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、明治40年(1907年)の開校です。4年後の明治44年(1911)に最初の卒業生を世に送り出しこの年に同窓会が創設されました。平成23年(2011年)は開校104年、同窓会創立百年となるということです。同窓会創立100周年は、あまり聞くことはありません。しかし小西先生のお話を伺い、同窓会の存在の大きさを改めて感じました。
新潟盲学校設立は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれた時代と重なります。「全ての人が共に学び、自立に繋がる力を育てる」という創立者長谷川一詮、鏡渕九六郎、荒川柳軒、前田恵隆の四氏の願い、、、盲学校100年を振り返る時、先人たちの献身的な活動に感動です。財産を蓄えることが大事という今日、盲学校のために財産を差し出すという志の深さに圧倒されます。日本人にはこういう気概があったのだと誇らしく、懐かしく思います。
同窓会が学校に大きな力となったということにも感慨が深いものがあります。予算が少ない、教員数も足りないという状況下、同窓生が生徒の面倒を見て、就職先まで世話していた、、、、ということです。何よりも100年前の学校要覧が残っていたこと、貴重なことです。決算が毎回大きなスペースを占めています。借金のために必要だったのでしょうか?ヘレンケラー女史が来校した時の写真も感激でした。
失明原因疾患もとても興味深いものでした。小児の失明原因を調べたことがありますが、こうした盲学校のデータは戦前からのデータも揃っており大変貴重なものです。興味深い話題満載の講演でした。小西先生、ありがとうございました。
報告:第190回(11‐12月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 (山口 俊光)
演題:「新潟市障がい者ITサポートセンター4年間の活動報告」
講師:山口 俊光 (新潟市障がい者ITサポートセンター)
日時:平成23年12月14日(水)16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【抄 録】
新潟市障がい者ITサポートセンター4年間の活動を紹介します.
障がいのある人々の学習や生活に役立つ支援技術の導入・活用を支援する新潟市障がい者ITサポートセンターは2011年度で開設から4年目を迎えました.
開設初年度に行った調査で,新潟市内では支援技術が障がい者に「使われていない」のではなく「知られていない」という状況が明らかになりました.その後,大きな方針転換を迫られた我々は障がい者の多くが通過していく病院と学校に照準を定め積極的な「営業活動」を行いました.つまり,病院や学校に直接出向きリハビリテーションや特別支援教育の現場にいる人々に支援機器を紹介して歩くわけです.
この「営業活動」は功を奏し,初年度には月に十数件電話がある程度だった当センターは,常時20件ほどの支援課題を抱え,電話やメールなどによる問い合せは月50件を越えています.2011年6月には開設以来初めて訪問サポートの依頼が月20件を越えました.
我々が行っている活動には,重度の肢体不自由の方が使う意志伝達装置の導入支援,視覚障害者のためのPC教室,リハビリテーションにおける作業療法士等への支援,特別支援教育現場における個別の指導計画の立案と機器選定の支援,病院・特別支援学校における研修の講師などがあります.支援技術だけを取り扱っているのではなく,周辺環境の整備にも関わって活動しているのが特徴です.支援対象は就学前のお子さんから70代の高齢者までと幅広く,障害種別も視覚障害,肢体不自由,知的障害と多様です.
大学教授と兼任のセンター長,非常勤事務員,そして常勤の私.3名で運営されている小さなITサポートセンターとしてはまずまずのサポート実績ではないか,と思えるほどに成長したわけです.ITサポートセンターは2010年度末で第一期を終え,2011年度から第二期に入りました.増え続ける支援依頼を効率よく処理するための仕組みづくりが第二期の大きな課題です.
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*新潟市障がい者ITサポートセンター
http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/
新潟市障がい者ITサポートセンターは,新潟市から業務委託を受け新潟大学内に設置された組織です.市内在住の障がい者の方や病院,特別支援教育からの求めに応じて,支援機器の利用・活用を円滑に行うための支援活動を行っています.新潟大学工学部福祉人間工学科教授をセンター長に,支援員と事務員からなる組織です.また外部から当センターのあり方について評価する評価委員会と内部でセンター運営を支援する運営委員会を設置しています.
【後 記】
参加した人は皆、大満足でした。「障がい者ITサポートセンター」、福祉関係の方がやっているのは多いと思いますが、工学部の方、すなわち物作りの方が行うことに特色があると思いました。
工学部と、福祉人間工学部の違いを感じる場面もありました~スイッチひとつを変えようとする提案も、患者さんは病気のステージが上がったのではないかと心配してしまうという、ためらうことがあるとのことでした。
ニーズを知ることは難しいことです。インタビューだけでは知ることはできません。しかし、ひとつできると、次から次へとニーズもより深くなり、変容してきます。
技術的な正解が、利用者の求めているものとは限らないことを知ることも必要です。そして何より支援は、組織的対応が大事であrことを学びました。
この活動は、多くの人が知るべきものと思いました。
『報告:シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」2011』
2011年12月に、第17回日本糖尿病眼学会総会(会長~安藤伸朗;2011年12月2日~4日:東京国際フォーラム)を主催しました。
この学会は、糖尿病の眼の合併症に対して、眼科医・内科医・医療スタッフが討論するという学術的な学会でありますが、患者さんに寄り添うことを目的に下記シンポジウムを行いました。ここで改めてその内容を紹介致します。
「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
第17回日本糖尿病眼学会
シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
日時:2011年12月3日16:30~18:00
会場:東京国際フォーラム ホールB7-1)
オーガナイザー:
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
【オーガナイザーの言葉】
私たち医師は、データに基づいたEBM中心の医療を実践していますが、患者の心のうちをどこまで理解して診療しているのか、疑問に思うことがしばしばあります。
医者と患者の接点は病気であり、病院(医院)では医者も患者も病を治そうと思っています。しかし患者にとって病気は、幾つもある気掛かりなことの一部であり、他に沢山の悩みも抱えています。時に経済的なこと、時に対人関係、時に会社や学校のことであったりします。
病気を治す主役は患者で、医師はサポーターであると言われます。その意味では患者と医者は対等ですが、本当にそうでしょうか?英語で患者は「patient」ですが、「patient」という単語には「耐える」、「辛抱する」という意味がありま、「be patient」とは、「耐えなさい」、「辛抱しなさい」ということです。患者patientとは、洋の東西を問わず、耐えることを強いられた存在なのかもしれません。
病院hospitalが、患者にとって安らぐことのできる場、ホスピタリティーを感ずることのできる場となるためには、何よりも医療従事者が、患者の気持ちを理解する(理解しようとする)ことが大切ではないかと考えます。
本シンポジウムでは、患者さん・ご家族に、病との闘い方・付き合い方、そして本音をご自身の言葉で語って頂きました。登場するシンポジストは、ご自身あるいは家族が病と闘っている3名の現役医師と1名の大学教員(教授)です。ご自身の物語を客観的に述べることができる方々でした。
患者・家族の声に耳を傾け、想いを共有し、現場の医療を見つめ直す機会に出来ればと思います。
【パネリストの講演要約】
S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
南 昌江 (南昌江内科クリニック)
http://andonoburo.net/on/4165
S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
http://andonoburo.net/on/4171
S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
http://andonoburo.net/on/4203
S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
http://andonoburo.net/on/4206
もう4年も前のことですが、第17回日本糖尿病眼学会総会を主催しました(会長~安藤伸朗;2011年12月2日~4日:東京国際フォーラム)。
本来、糖尿病の眼の合併症に対して、眼科医・内科医・医療スタッフが討論するという学術的な学会でありますが、あえて下記シンポジウムを行いました。ここで改めてその内容を紹介致します。
シンポジウム「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
オーガナイザー:
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター、
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
南 昌江 (南昌江内科クリニック)
S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
報告(その1)オーガナイザーの言葉、南先生講演要約
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【オーガナイザーの言葉】
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター、
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
私たち医師は、データに基づいたEBM中心の医療を実践していますが、患者の心のうちをどこまで理解して診療しているのか、疑問に思うことがしばしばあります。
医者と患者の接点は病気であり、病院(医院)では医者も患者も病を治そうと思っています。しかし患者にとって病気は、幾つもある気掛かりなことの一部であり、他に沢山の悩みも抱えています。時に経済的なこと、時に対人関係、時に会社や学校のことであったりします。
病気を治す主役は患者で、医師はサポーターであると言われます。その意味では患者と医者は対等ですが、本当にそうでしょうか?英語で患者は「patient」ですが、「patient」という単語には「耐える」、「辛抱する」という意味がありま、「be patient」とは、「耐えなさい」、「辛抱しなさい」ということです。患者patientとは、洋の東西を問わず、耐えることを強いられた存在なのかもしれません。
病院hospitalが、患者にとって安らぐことのできる場、ホスピタリティーを感ずることのできる場となるためには、何よりも医療従事者が、患者の気持ちを理解する(理解しようとする)ことが大切ではないかと考えます。
本シンポジウムでは、患者さん・ご家族に、病との闘い方・付き合い方、そして本音をご自身の言葉で語って頂きました。登場するシンポジストは、ご自身あるいは家族が病と闘っている3名の現役医師と1名の大学教員(教授)です。ご自身の物語を客観的に述べることができる方々でした。
患者・家族の声に耳を傾け、想いを共有し、現場の医療を見つめ直す機会に出来ればと思います。
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S-1. 1型糖尿病とともに歩んだ34年
南 昌江 (南 昌江内科クリニック)
【講演要旨】
私は34年前の夏に1型糖尿病を発症しました。当初は親子とも落胆し将来を悲観しましたが、その後尊敬する医師との出会いによって人生が変わってきました。
16歳で小児糖尿病サマーキャンプに参加しました。本心は参加したくなかったのですが、主治医から半ば強制的に参加させられました。そこで、病気に甘えていた私たちに、ボランティアのヘルパーから、「糖尿病があるからといって社会では決して甘く見てくれない。これから糖尿病を抱えて生きていくなかで沢山の壁にぶつかるだろう。その壁を乗り越えられる強さを持ちなさい。」と話をされました。これまで病気を理由にいろいろなことから逃げていた自分に気がつき、その頃から病気とともに生きていく覚悟が出来、将来は「医師になって糖尿病をもつ人の役に立ちたい」と思うようになりました。
医師になって念願の東京女子医大糖尿病センター、平田幸正教授の下で医師の第1歩を踏み出しました。医師になったばかりの私に、平田先生は「あなたは貴重な経験をしている。同じ病気の子供たちのためにも、是非自分の経験を本に綴ってみてはどうかね?」というお話をいただきました。しかし研修医時代は不規則な生活が続き、糖尿病のコントロールも良くない状態で、こんな自分が糖尿病の患者さんを見る資格はないのではないかと内科医をあきらめかけた時もありました。医師になって3年目、今度は肝炎を患いました。糖尿病になって、一生懸命に頑張ってきたのにどうしてまたこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろうと、本当に辛い時期でした。3か月の休養をいただきましたが、その時に、ふと、以前平田先生からいただいたお話を思い出し、「こんな状態の自分でも、少しずつ自分の体験を綴ってみることはできるのではないだろうか」と思い、その後福岡に帰って勤務医を続けながら、私の経験が糖尿病の子供たちに勇気と希望を与えることができればと思い、「わたし糖尿病なの」を出版しました。
1998年に糖尿病専門クリニックを開業し、多くの糖尿病患者さんと接しています。診療の傍ら、講演や糖尿病の啓発活動を行っています。2002年に初めてホノルルマラソン(フルマラソン)を完走することができました。その時の感動は、今でも忘れられません。30kmを過ぎると本当に辛かったですが、最後のゴールを前にした時には、これまで生きて来て、辛かったことが走馬灯のように思い出され、一気に消えていきました。出会ったすべての方々への感謝と、本当に生きてきて良かった、という思いを天国の父に伝えたくて、涙を流しながらのゴールでした。
それまでは、合併症の危険性など自分の10年先の将来に自信がなかったのです。「将来、目が見えなくなるかもしれない、透析になるかもしれない。」という糖尿病の合併症の心配がどこかで自分を臆病にしていました。フルマラソンを完走できたことで、自分の体力・精神力に自信がつきました。この体験をきっかけに、(大きな借金をして)新たにクリニックを新築し、自分が長年理想としてきた糖尿病の診療をしています。
そして、“No Limit”をモットーに、“糖尿病があっても何でもできる”ことを一人でも多くの患者さんに理解して体験して頂きたいと思い、“TEAM DIABETES JAPAN”を結成し、毎年患者さんや医療関係者と一緒に参加しています。今年も無事に10回目のホノルルマラソン(2011年12月11日)を完走することができました。
自分の人生を振り返った時に、生き方や考え方を教えてくれたのは両親です。 父からは、高校生の頃に 「お前はハンディを持っているのだからその分、人の2倍も3倍も努力しなさい。」 「嫁には行けないだろうから、一人で生きていくために資格を取りなさい。」 「病気があると金がかかる。自分の医療費は自分で払えるように経済力を持ちなさい。」 と病気がある私にあえて厳しく育てられました。
私が大学受験で国立大学医学部に失敗して、浪人させてほしいと父にお願いした時には、「人より人生が短いのだから、1年でも無駄にするな。私立大学に合格したのだからそこで勉強して少しでも早く良い医者になりなさい。」と言われました。小さな電気屋を営んでいた我が家の家計では私立の医学部は到底難しかったと思いますが、両親は私のために必死で働いて卒業させてもらいました。それまで父には反抗していましたが、その時に父の愛情を深く感じました。そんな父が、2001年に癌で亡くなる前に、「もうお前は一人で生きていけるな。お母さんのことは頼んだよ。」と逝ってしまいました。
病気を持つ私に、強く生きていきなさいと育ててくれた父、いつでも「ありがたい、幸せ。」と感謝の言葉が口癖の母、そしてこれまで私が出会った方々や医学から受けた恩恵に感謝し、一日一日を大切に「糖尿病を持つ人生」を明るく楽しく自然に、いつまでも夢を持って走り続けていきたいと思っています。
最後に、私にとって1型糖尿病とは? “素敵な試練”でしょうか?
【略 歴】
1988年 福岡大学医学部 卒業
東京女子医科大学付属病院内科 入局
同 糖尿病センターにて研修
1991年 九州大学第2内科糖尿病研究室 所属
1992年 九州厚生年金病院内科 勤務
1993年 福岡赤十字病院内科 勤務
1998年 「南昌江内科クリニック」開業(福岡市中央区平尾)
2004年 福岡市南区平和に移転
現在に至る
第17回日本糖尿病眼学会 (2011年12月3日)
シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(東京国際フォーラム ホールB7-1)
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S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター病院 眼科)
【講演要旨】
誰に頼まれた訳でもないが、私の生い立ちが私を眼科医にしたように思う。私の父は、25歳でベーチェット病を発病し、30歳で完全失明した。父は、私たち家族の顔を全く知らないし、私も父の見えている時代を知らない。幼少時、父は盲学校で勤務しており、母が父の送り迎えをしていた。幼い私はよく同行し、盲学校の生徒さんや教職員の方々に大変可愛がってもらった。そんな頃、父は見えていないのかな?と思うことが増えてきた。父は、幼い私にも、ものの色や向きを尋ねたし、母といつも一緒に歩いているし、他の家のお父さんと違うことが多かったからだ。就学前、今でも鮮明に覚えているが、母に父はどうして見えないのか?と聞いたことがある。母は、「ベーチェット病という病気のせいよ。」と答えた。幼いながらも、「どんな病気なの?」と聞くと、母は、「原因が分からない病気よ。」と教えてくれた。その時の母との会話が大きなきっかけとなり、私は医師になろうと思うようになった。短絡的で幼い発想だが、眼科医になれば、父の病気が治せると考えていた。
その後、私は本当に医学部へ進学し、医師になった。しかも、大学卒業後、ベーチェット病を専門にしている大野重昭教授率いる横浜市立大学の大学院へ進学することができた。当時の私は、これでベーチェット病について取り組めると意気揚々としていた。しかし、その反面、疑問に思うこともあった。それは、大学時代や医師となった後の研修でも、種別を問わず、障害や福祉などに関して学ぶ機会がほぼ皆無だったことだ。父や周囲の方々の話を聞いていると、医療と福祉はとても近接しているように思えていたが、実際に医療の中に自分の身を置いてみると、意外なほどに福祉との接点がほとんど見えてこなかった。そのような疑問を感じながらも、当時の私にとっては、ベーチェット病に取り組めるということで、やっと長年の敵と向かい合えるような心境でもあった。
大学院修了後には、米国留学の機会も与えられ、研究を手がける医師として恵まれた環境にいたと思うが、やはり私にとっては、医師になった当初の疑問が逆に大きくなってきた。臨床経験を積むにつれ、「見えにくくなる」というテーマについて、患者と医師のやり取りに接する機会も増えた。ほぼ全ての患者は、見えないということは、恐ろしいことで、何もできないという、ネガティブな言葉で終始していた。それに対する医師側のコメントも「見えなくなったら、大変でエライことですからね」という程度の言葉で会話が終了しているのが大半だった。
私にとっては、何か違うと思うことが増える一方だった。身近で、幼少時から多くの視覚障害者が明るく、前向きに頑張っているのを知っている私にとっては、たとえ全盲になっても、こんなこともあんなこともできるという、前向きなコメントを患者にしてあげたいと思うようにもなってきた。つまり、私はたまたま身近に知る機会があったが、多くの患者や眼科医は、視覚障害者の日常を知る機会がないのだろうとも考えた。そして、医師こそ、障害や福祉について目を向けないと、包括的な本当の医療はできないのではないか?とも思えた。
振り返って考えてみれば、少なくとも私の時代には、各種診断書の書き方ひとつ大学時代や研修でも習ったことはないし、患者が見えにくくなったら、どういうところに行って、どのようなリハビリテーションを受ければいいのかなど、全く眼科の中でも学んだことはない。私も、父がいなければ、このような領域について、全く想像もできないし、わからないことばかりだっただろう。
「失明を 幸に変えよと 言いし母 臨終の日にも 我に念押す」
これは、父が詠んだ短歌である。父がいよいよ失明するのか!?という絶望の淵に立たされていた頃、祖母が入院中の父のところにお見舞いに来た。病状を聞いた祖母は、「失明はだれでも経験することのできるものではないよ。これを貴重な体験として、これを生かした仕事をしてはどうかね。たとえ、それが小さくても社会貢献につながれば生きがいになるのではないかね」という言葉をかけた。すぐには父も言葉を受け入れることはできなったようだが、徐々に祖母の言葉を理解することができ、それが視覚障害者として再出発を果たした父の大きな原動力になった。父は、盲学校勤務の後、自分と同様に中途視覚障害で再出発を目指す人のための施設で、定年まで長きに渡って勤めた。自分が担当する利用者の皆さんにも、折に触れて、祖母の言葉を紹介してきたようだ。今、私も縁が重なり、同系列の病院眼科で勤務をし、ロービジョンケアを必要とする患者と接している。
祖母の言葉は、そのまま私にも当てはまる。中途視覚障害の親を持つ私は、眼科医として何物にも変えがたい貴重な経験をさせてもらっていると思う。今、私は、患者がロービジョンだからと構えることなく、その方が以降の人生をどれだけ満喫できるか、患者に夢を与える眼科医としてサポートしていきたいと考えている。今は、この仕事を選ぶ礎を築いてくれた父と、これまで出会った多くの視覚障害者の方々に深く感謝している。
参考:第9回オンキヨー世界点字作文コンクール 国内部門 成人の部 入選佳作
横浜市 西田 稔 「忘れることのできない母の言葉」
http://www.jp.onkyo.com/tenji/2011/jp03.htm
【略 歴】
1991年 愛媛大学医学部 卒業
1995年 横浜市立大学大学院医学研究科 修了
1996年 ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所 留学
2001年 横浜市立大学医学部眼科学講座 助手
2005年 聖隷横浜病院眼科 主任医長
2009年 国立障害者リハビリテーションセンター病院眼科 医長
現在に至る
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「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
日本糖尿病眼学会シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(2011年12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
オーガナイザー:
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
南 昌江 (南昌江内科クリニック)
S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
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第17回日本糖尿病眼学会 (2011年12月3日)
シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(東京国際フォーラム ホールB7-1)
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S-4.「夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト」
立神 粧子 (フェリス女学院大学・大学院 音楽芸術学科 教授)
【講演要約】
命が助かった喜びの後に訪れたものは脳損傷という難解な障害であった。2001年秋に倒れた夫の病名は解離性右椎骨動脈瘤破裂による重篤なくも膜下出血。コイル塞栓術、脳室ドレナージ術、V-Pシャント術を経て命は助かったものの、高次脳機能障害が残存した。長年ヨーロッパで世界最高峰の音楽家たちと楽器開発の仕事をしてきた夫が、自分から話すことも動くことも感じることもできず、1分前の記憶が留まらず、今いる場所の感覚がなくなり、簡単なことも混乱してできない。私たちの日常は一変した。喪失感に打ちのめされていた時、New York 大学付属Rusk 脳損傷通院プログラムを知った。
Rusk通院プログラムは、脳損傷に対する神経心理学リハビリテーションで世界一と言われる。主に前頭葉の認知機能不全に対して、対人コミュニケーションを中心とした全人的なアプローチによる機能回復訓練が行われる。この障害を、英語ではBrain Injury(脳損傷)、日本の行政用語では高次脳機能障害と呼んでいる。創設者で所長のBen-Yishay博士(2011年に退官)は、脳損傷はエベレストに匹敵する手ごわい障害と語った。2004年春から夫と私が訓練を受けた時、Ben-Yishay博士は、「私たちスタッフはエベレスト登山のためのツールや登り方を授けることができるが、登るのは君たちだ。訓練して自分の力で登りなさい。」と説明した。
当時日本でお手上げだった夫の症状は、1サイクルを経ただけでも日本の先生方が驚くほどの回復を見せた。Rusk通院プログラムの見事に構造化された訓練は神経心理ピラミッドを核として、各症状への戦略を身につけるために工夫・統合されている。神経心理ピラミッドは前頭葉機能の中でも主に認知の神経心理機能の働きを9つの階層に分けて表している。下から順番に以下のとおりである:1.訓練に参加する主体的意欲、2.神経疲労(覚醒・厳戒態勢・心的エネルギーの問題)、3.抑制困難症と無気力症(制御と発動性の問題)、4.注意と集中、5.情報処理(情報を処理するスピードと正確性の問題)、6.記憶、7.論理的思考力と遂行機能、8.受容、9.自己同一性。
ピラミッド型であることは、上位の機能はそれより下位の機能が働いていないとうまく機能しないことを示している。実際は諸機能が連動したり組み合わされて様々に複雑に絡み合うことになる。グループや個人での訓練、カウンセリングなどあらゆる角度から当事者は家族と共に症状と戦略を学ぶ。
Kurt Goldstein は、「患者が適正かつ主体的に参加して初めて、脳損傷のリハビリテーションは成功する」ため、「自分の問題をできるだけ詳細に理解させる」必要性を説いている。Goldsteinの療法哲学を受け継ぐBen-Yishay博士は次のように説明した。脳損傷を得て、「誰でもはじめは深い絶望を感じるだろう。しかしそこから自分で立ち上がってこなくてはいけない。自分の欠損に気づき、訓練の環境に順応しながら、訓練の必要性を理解する。そして欠損の補填戦略を学び、日常生活の中で様々な調整を行いながら、習慣化するまで練習する。そのあたりまで進むと、脳損傷を得た自分を受容できるようになる。」受容ができるようになったら、「脳損傷を得た自分」を新しい自分として認め、そこから再び自己を構築する必要がある。そこまで目指さないと、社会の中や家族の間において、自己の存在価値を自分で認めることは難しい。家族も同様である。脳損傷を得た患者とのかかわり方を学んで、この事実を受け入れ、家族の立場から自己を再構築することで、自分自身も幸せになるように考える必要がある。
「高次脳機能障害はエベレスト登山のように難しい」という話から始めた。Rusk 通院プログラムから伝授されたツールをまとめると次のようなことだった。
1.症状をよく知り、真に理解すること。
2.戦略の使い方を学び練習し、マスターして習慣化すること。
3.失敗から学ぶこと。
4.成功体験は、本人のみならず家族にとっても明日への活力だ。
5.感謝の言葉や気持ちを表すことによって、患者は相手への共感をもつことができるようになり、家族は苦労が報われる気持ちになる。
Ruskで夫が何かができるようになったとき、大喜びでBen-Yishay博士に報告に行くたびに博士からこう言われた。「Shoko, patience!(粧子、決して焦ってはいけない!)これは先の長い問題だ。いちいち一喜一憂せずにどっしり構えなさい。そして困難に耐える力を身につけなさい。」 夫も私もRuskでの訓練から、受動的ではない、能動的な生き方を教わったと感じている。 そしてRuskでの訓練を徹底的に学んだ私に、Ben-Yishay博士は門外不出だった資料の公開の許可を与えてくださり、その結果、2010年11月に医学書院から『前頭葉機能不全 その先の戦略』という本を出版することができた。
高次脳機能障害を持つことになった夫との生活から、症状を真に理解しなければ、相手を支援することはできないことを学んだ。また、夫を助けるばかりでなく、夫にも私を助けてもらうような関係にならなければ、これからの人生を共に幸せに過ごすことはできないだろう。真の自己同一性は、自分のためではなく、隣にいる人、それが家族であろうと社会の中の他人であろうと、自分の隣にいる人を幸せにすることではないか。現在も、夫との生活で毎日のように困難に直面する。しかし、Ruskから授かった戦略とツールによって、何とか一歩ずつ、二人でこのエベレストを前に進んでいきたいと思っている。
【略 歴】
1981年 東京芸術大学音楽学部卒業 音楽学士号取得
1984年~86年 国際ロータリー財団奨学生として米国シカゴ大学大学院に留学
1988年 シカゴ大学大学院人文学科修了 音楽学修士号取得
1991年 南カリフォルニア大学大学院演奏研究修了 音楽芸術博士号取得
1993年 フェリス女学院大学 専任講師
1998年 フェリス女学院大学 助教授
2006年 フェリス女学院大学 教授
現在に至る
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「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
日本糖尿病眼学会シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(2011年12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
オーガナイザー:
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
南 昌江 (南昌江内科クリニック)
S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
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第17回日本糖尿病眼学会 (2011年12月3日)
シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(東京国際フォーラム ホールB7-1)
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S-2.「母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに」
小川 弓子 (福岡市立あゆみ学園 園長 小児科医)
【講演要旨】
平成18年5月に1冊の本が出版されました。「視力3cm~それでも僕は東大に~」という本です。視力および色覚に障害をもつ私の長男 明浩が成人を機に出版した本です。抜粋を紹介します。「弱視であるがゆえに、これから進んでいく道のりを見失ったり、道幅がよく見えずにはみ出てしまったりすることも多々あるでしょう。それでも、みんなのおかげで、きっと私は頑張れます。今の私を作ってくれた、すべての人たち、これまで私を育ててくれてありがとう。私を誇りに思ってくれてありがとう。私を支えてくれてありがとう。私のそばにいてくれてありがとう。私は元気です。これからも頑張って生きていきます。そのための力をくれたこと、ほんとうにありがとう」
私は書店でこの本を手に取った時、涙でほとんど読み進めることができませんでした。私はけっしていい親でも、りっぱな親でもなかった。仕事を最優先にして、早産。その後の子育てでも、障害のある子どもと向き合えず、子どもに対する期待、見栄、そして現実を受け入れる勇気、忍耐等々自分自身の気持ちと闘うのに必死だった未熟な弱い親でした。ただただ目が悪くとも「見せてあげたい」「経験させてあげたい」「いきいきと生きて欲しい」「人生の楽しみを知って欲しい」という必死の思いだけで療育を開始していきました。単眼鏡、ルーペなどの補装具訓練、そして知識を補うための膨大な本と拡大作業、ピアノ、折り紙、切り絵、字の練習。いいと思うものを息子に与えようとする私の気持ちは、もしかすると空回りもし、子どもにとって負担だったかもしれない。きっと辛いこと、悔しいこともいっぱいだったに違いない。そんな私の手探りの子育てだったのに、息子が自分を卑下せず感謝の気持ちを持って成人となったことは、有り難く、また多くの支えてくれた人たちのお陰と感謝の気持ちで一杯です。
「身体が悪くとも立派に生きている人間はおる、そのように育てればいい」といった祖父。「私が代わってでも育てちゃる」といった祖母。「障害があることと幸せ、不幸せは全く別のことです」と諭してくれたカウンセラー。「あなたの必死さが通じないはずはない」と励ましてくれた友人。「変えられるものを変えていく勇気と、変えられないものを受け入れていく冷静さと、そしてそれを見分けられる知恵を私にください」「親はこどもと代われないが最高の応援団にはなれる」「生きるとは運命を引き受けること」「笑顔があればきっと大丈夫」といった本や歌の中の言葉達。そして「明浩の人生は明浩のものだが、明浩だけのものではない、家族みんなで支えていく」といった主人。障害に遭遇したけれど、これらの多くの人の励ましや人生を生きるメッセージに私たちは出会い、力をもらいました。人は弱い、けれど支えがあれば強く大きく変わっていくこともできると、心から思います。
今、息子は1人の社会人として大都会東京で、将来の夢をかけてITベンチャー企業を起こしています。就職に際して「僕は目が悪いから、どんなに立派な会社のビルか、どれほど会社のロゴマークが社会にあふれているか見えない。僕にとって大事なのは、握手してくれる温かい手、肩をたたき一緒にやろうと言ってくれる誠実な言葉、気持ち。この価値観を作ってくれたのは生まれたときからつきあってきたこの視力だよ。」といってこの選択をしました。なまじ目が見える私は立派な物、大きな物、きれいな物に心惹かれますが、視覚障害の息子は本質をのみ見つめて生きて行こうとしているようです。そこには視覚障害があるからこその豊かな価値観があるのかもしれません。
「辛い」という言葉があります。この言葉は驚くほど「幸せ」という言葉に似ているとある本に書いてありました。もしかすると辛いことのすぐ傍に幸せはあるのかもしれません。辛いからこそほんの小さなことに喜びを感じたり、感謝の気持ちが生まれたりもするでしょう。辛いからこそ寄り添ってくれる人、励ましてくれる人、心配してくれる人の優しさが身に染みることもあるでしょう。そして、その人々の支え合い、生まれた絆こそが幸せに導くのかもしれません。
この文章を目にされた方々の中の一人でも、障害や病気など困難を抱える人の「辛い」状況にも小さな「幸せ」を感じられるように支えとなってくださることを祈りながら、筆を置きます。
【略 歴】
1983年 島根医科大学(現島根大学医学部)卒業
九州大学医学部付属病院 小児科勤務
1984年 福岡市立こども病院勤務
1985年 東国東地域広域国保総合病院 小児科勤務
1986年 福岡市立子ども病院勤務
1987年 長男(視覚障害児)出産を機に育児・療育に専念
1994年 福岡市立心身障害福祉センター 小児科に復職
2002年 福岡市立肢体不自由児通園施設あゆみ学園 園長就任
現在に至る
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「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
日本糖尿病眼学会シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
(2011年12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
オーガナイザー:
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)
S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
南 昌江 (南昌江内科クリニック)
S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
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演題: 「視覚障害五年生、只今奮闘中 学んだ事、得た事、今思う事」
講師: 田中 正四 (新潟県胎内市)
日時:2011年11月9日 (水) 16:30 ~ 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
【講演要旨】
2003年 6月 腎不全により透析開始
2004年 4月 右眼緑内障により失明
2005年11月 休職
2007年 7月 退職
2007年 8月 左眼視力障害にて障害一級
私のほぼ六十年の人生において2003年6月からの環境は、長い会社員生活からはまったく想像すらできなかった病との闘いの日々となった。
「会社は人を育て、人作りにより発展する」この会社の基本理念に全力投球した37年間の会社員生活から、私の環境は一転した。休職を開始した私には、それまで築き上げてきた人のつながりや、多くの技術、誇りさえ無くしてしまう事となった。休職の段階からは、リハビリ外来を受診して、アドバイスを受けていたが、自身の将来に向けたスタートを切ることができず、人のつながりを失った絶望感と視力障害を受け止められない自分がそこに存在していた。
一方、家族の前では、障害を覚悟したかの様に振る舞い、勤めて明るく前向きな自分を演じていた。しかし、家族の薦めや協力により、多くの病院に診察を受け、視力回復への望みは無くさずにいた。そんな家族の献身的な協力を感じた時、私には、ここに一番大切な人のつながりが残っていたことに気がついた。
大切な家族のために何が出きるのだろうかと真剣に考え、私が取った行動は、家のリフォームと妻の将来生活の確保であった。結婚し、子供を育て、住まいを築いてきた今までの人生。今私に残された宿題のように思っていた。
リフォームと生活設計をなしとげたが、心は晴れず目標を見つけられない自分にやり場のないむなしささえ覚えた。そんな時、リハビリ外来で女神様と出会うことができた。その女神様は、とても明るく暖かい雰囲気をかもし出していた。女神様の魅力に心ひかれた私は、「どうしてそんなに明るくしていられるのですか」と訪ねた。女神様は「あんた、悲しいんでしょう、辛いのでしょう、悔しいのでしょう。泣きなさい、泣いていいのよ。」と素直に自分を表す事の大切さを教えてくれ、私を抱きしめてくれた。その女神様の言葉に我慢し耐えてきた自分の封印が解かれ人目もはばからず号泣してしまった。
さらに、身内にも女神様が存在していた。孫娘である。3歳の孫は、結婚式でベールガール役を務めたあとのインタビューで、「大きくなったら、ジジの目目治すの。」と答えてくれた。こんなに近くにいた女神様に、大きな夢をあたえていただいた。素直になること、夢を持ち続けることの大切さを教わった。もっとも女神様には、こわい女神様もいるのでした。そのこわい女神様は、家の中の私に最も近い所にいて、いつも私を叱咤激励してくれた。
私には、多くの仲間がいる。毎週通っているパソコン教室の仲間達である。それぞれの人生を歩み、同じ障害者仲間と接している仲で、私に無い生き方や考え方を学び聞くことができた。そんな仲間の勧めもあり、盲導犬の魅力にひかれた私は、盲導犬の貸与に向け舵を切った。体験会に参加し、さらに盲導犬のすばらしさに感激した私にその夢は現実のものとなった。昨年の夏。待望の盲導犬が貸与されたのである。グティ号である。風を切り歩く快適さを数年ぶりに取り戻し、日々相棒と胸を張って歩行している。
現在私は、多くの仲間達と盲導犬グティ、それに、多くのボランティアの皆さんの理解に囲まれて前向きな日常を送っている。今、こうしてすばらしい人生の門を開けることが出来た私であるが、今後の夢がある。それは、障害の理解と盲導犬の普及と啓蒙活動に取り組み、より多くの視覚障害者の掘り起こしである。さいわい、地域の小学校等への訪問機会に恵まれ、その夢は実現しつつある。今回の私の経験や、挫折と立ち直りのエピソードを参考に、一人でもおおくの障害を持った仲間がつどえることを願ってやむない。
ここで、今後の行政に望むことを書き添えたい。それは、障害が現実となった人に、県内や、地域の教育、訓練、仲間達と過ごせる場所の情報の提供である。情報弱者の私達である。より多くの人たちが明るく前向きな生活を送ってもらえるように、なっていただきたいと切に願っています。
最後に孫娘の成長を紹介したい。一昨年5歳になった彼女は、お医者様からプリキュアに夢を変更したが、今年一年生の彼女は、「やっぱりお医者さんになるよ。でも少なくても20年かかるんだって。だから、じいちゃんそれまで生きていなくちゃいけないよ」ですって。頑張らなくてはいけない五年生の私です。
【略 歴】
1953年 新潟県長岡市生まれ(旧越路町)
1968年 日立製作所入所
1974年 移転により胎内市に転居
2003年 腎不全により透析開始
2007年 視覚障害1級 退職
2010年 盲導犬貸与される
【追 記】
勉強会当日、会場には5頭の盲導犬も含め、参加者が溢れていました。田中さんは、張りのある声で低音ながらはっきりとした口調で話し始めました。
「絆」が東日本大震災復興のテーマですが、田中さんのお話にも、「絆」は満載でした。「会社は人を育て、人により発展する」という会社のモットーで、多くの仲間を得て、頑張ることが出
来た勤務時代前半。人事担当になり、それが一変してしまいました。「同志」「仲間」に退社を勧める仕事になり、かなりのストレスだった勤務時代後半。眼の病と闘うなかで、家族の協力。リハビリ外来での女神との出会い等々。
女神様:「思いっきり泣いてごらん」、 孫娘:「将来はジジの目を治して上げる」、 お孫さん:「おじいちゃん、目が見えないのなら心の目で見ればいいよ」、、、、 涙あり笑いありの、あっという間の50分でした。
田中さんとは不思議な縁です。医者と患者は「病気を治してなんぼの関係」ですが、結局私は田中さんの目の病気を治すことが出来なかった眼科医です。2007年に他院からの紹介で私の前に現れた田中さんは、右眼は緑内障にて失明、左眼は胞状網膜剥離。各地の医者を転々としており、医者不信の固まり状態でした。左眼の続発性網膜剥離(uveal effusion)の手術目的で入院したものの、入院時には網膜は復位(網膜萎縮・視神経萎縮)しており手術適応はありませんでした。結局、手術せずに退院となりました。手術に一縷の望みを掛けていた田中さんには申し訳ない結果でした。
そんな田中さんにお話して頂ける事、感謝しています。田中さんは現在、いろいろな小学校での総合学習で講演する機会が多いとのことですが、私たちのところにもまた来て頂き、多くのことを教えて欲しいと思います。田中さんのますますの活躍、祈念しています。