2015年6月3日

 演題:「(仮称)障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされいかされる新潟市づくり条例検討会に参加して」
 講師:遁所 直樹(社会福祉法人 自立生活福祉会事務局長)
  日時:平成27年5月13日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要約】
「はじめに」
 障害者権利条約(Convention on the Rights of Persons with Disabilities)とは、あらゆる障害者(身体障害、知的障害及び精神障害等)の、尊厳と権利を保障するための人権条約です。
 このたび新潟市に障がいを持った人を差別しないでほしいという条例が 5月8日新潟市に提出されました。障害者の権利に関する条約(国連障害者権利条約)が国連総会で満場一致採択(2006年12月13日)。世界は障害者福祉について、障害者を保護・擁護するということから、権利を尊重するという方向に舵を切りました。わが国は、2007年9月28日に署名。6年半の歳月を要して2013年12月4日、日本の参議院本会議は、障害者基本法や障害者差別解消法の成立に伴い、国内の法律が条約の求める水準に達したとして、条約の批准を承認しました。
 2014年2月19日「障害者の権利に関する条約」が発効。千葉県を皮切りに各地で条例作りが進んでいます。新潟市も2年半をかけて条例づくりを行い、10月には条例公布・一部施行の予定という段階まで来ています(新潟県は着手していない)。この度、条例素案に対する意見募集(パブリックコメント)が、いよいよ始まりました。 

「日本が署名から批准に年月を要した理由」
 すべてのベースは国連障害者権利条約 ( 2006年12月13日国連総会で満場一致採択)から始まっています。日本は 2007年に署名を済ませすぐにでも批准を目指したいとこだったのですが、障害者団体が署名に待ったをかけました。なぜならば日本の障害者の法律が理念法にとどまり障害者権利条約の求めるものにほど遠いものだったからです。
 こどもの権利条約の時は署名をしてすぐに批准をしたのです。しかしその時は、日本のこどもの法律が理念法にとどまり深く議論されることなく、新潟市のこども権利条例も成立には至らなかった経過があります。
こどもの権利条約のときの経緯を踏まえ、今回の批准に向けた動きについて慎重に行うということで障害者団体が大きな力を発揮します。民主党の政権の波もうけ、内閣府で障がい者制度改革推進会議が開かれ 50人以上の委員が討論をしてその経過もオンデマンドですべての国民に公開するというものです。障害者基本法が改正され、手話が言語として認められ、障害者総合福祉法骨格提言を受け、障害者総合支援法、障害者差別解消法などの法的整備が整い署名まで至りました。 

「Nothing about us without us」
 “Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)というスローガンのもと千葉県が初めて条例を作ったのです。障がいを持った人が理不尽を感じたときそれを意思表明できる場所が必要です。新潟市でも条例を策定すべく施策審査会の委員で策定委員会を作りその骨子を市長に提出し条例部会が発足したのです。 

「条例の名称」
 新潟市では、条例の名称からいろいろ意見が交わされました。当初の仮称は「障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされいかされる新潟市づくり条例検討会」でした。それが「障がいのある人もない人も共に生きる新潟市づくり条例」と名称が提案されたのです。共に生きるという言葉についてもやもや感があったのですが、障がい者と健常者が対峙するかのように両輪のたとえではないか、一人ひとりが生かされるという言葉で当初条例の名前が仮として紹介されたのですが、ペアであってペアーズとならないというご指摘いただきました。 

「条例を審議するうえでの問題点が続出」
 新潟市の条例案は障害者差別解消法ができてからの条例となります。そのため十分な論議をしないと障害者差別解消法を踏襲してしまい特色ある条例とはならないことが心配されました。今回の検討会で不慣れなことがいっぱい出てまいりました。義務と努力義務、不当な差別行為と合理的配慮の不提供、新潟市の責務、新潟市民の責務など行政の提案通りに進めばシャンシャンとなりますが一つ一つ丁寧に検証していくと義務と努力義務では大きな違いがあります。 

「努力義務と法的義務」
 障害者差別解消法では民間事業者に対する合理的配慮を努力義務としています。しかし、努力義務では、障がいのある人に対する誤解や偏見を取り除く、話し合いのテーブルに着かないことが考えられるため、市条例では法的義務としています。ただし、法的義務であっても、条例に従うことを強制するのではなく、話し合いにより互いの理解を深めることで解決を目指します。 

「合理的配慮」
 民間事業者に対する合理的配慮の不提供について法的義務としたことはこの条例の目玉の一つです。努力義務でよい事業所さんはもともと理解があり合理的配慮をしてくださいます。話し合いのテーブルについていただくために法的義務としたのです。中間まとめで8区をまわった時はこの部分は努力義務でした。議論を重ねていうちに上記の理由から法的義務と修正したのです。
 不当な差別行為とは障害そのものに対する差別、車いすでは電車に乗ることができないなどの拒否がありますが東京オリンピック、パラリンピックに向け新潟市だけでなく全国で街づくりをユニバーサルの視点で行い不当な差別行為を軽減していくことも期待されています。 

「バリアフリーよりユニバーサルデザイン」
 合理的配慮の不提供についてそもそも合理的配慮とは、障がいを持った人が世の中に出ていくためのスタートラインを平等にするという解釈を私はしています。その視点はやはりユニバーサルデザインであり、障がい者にだけ便利(バリアフリー)なということでなく、すべての人に便利であることが合理的配慮です。具体的には車いす利用者のためのリフトバスよりも高齢者から幼児、お祭りに行くため着物の人たちにも使いやすい低床バスが普及することにより、合理的配慮も抵抗なく受け入れられるということです。 

「おわりに」
 この条例が議会で可決され公布されたところから権利擁護が始まります。この条例で元気をつけた障がいを持った人が社会の理不尽さを自ら考え、人に発信していく。そして話しを聞いてくれる人を増やしていくこと。最終的にはこの条例が血の通ったものとなることを願っています。 

 

PS:お願い『声を届けましょう』
募集中『(仮称)障がいのある人もない人も共に生きる新潟市づくり条例素案に対する意見募集(パブリックコメント)』 
~ 締切:6月19日(金曜)
 http://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/shimin/public/publiccomment/fukushi/shogai/jyoureipabukome.html
【問い合わせ先】
 新潟市福祉部 障がい福祉課 共生社会推進担当 (市役所第一分館2階)
 〒951-8550 新潟市学校町通1番町602番地1
 電話:025-226-1248 FAX:025-223-1500
 Eメールアドレス:shogai.wl@city.niigata.lg.jp
 

【遁所 直樹:プロフィール】
 新潟大学大学院博士課程1年時頚椎 4番5番骨折頚髄損傷
 平成10年から介護老人保健施設ケアポートすなやま勤務
 平成12年から NPO法人自立生活センター新潟勤務
 平成23年から社会福祉法人自立生活福祉会事務局長
 新潟市障がい者施策審議会委員
(仮称)障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされいかされる新潟市づくり条例検討会委員

 

【後 記】
 先進諸国に遅れ、我が国でもやっと「障害者の権利に関する条約」発効し、新潟市も2年半をかけて条例づくりが行われ、今年2015年10月には条例公布・一部施行の予定という段階まで来ています(新潟県はまだ着手していません)。こうした状況は、案外多くの方に知られていないのが現状ではないでしょうか?今回、新潟市の条例作成委員の一人である遁所直樹氏をお迎えして、これまでの経緯、全国の状況、新潟市での状況をお聞きしました。
 こうした条例作りには、行政の思惑や、企業等の利害、障害者の人権に対する思い入れなどの違いなどがあり、策定上は様々な困難があることが予想されましたが、今回のお話をお聞きしてより具体的に、より深く知ることが出来ました。
 「障害者の権利に関する条約」に関する条例を策定するということは、障がいを持った人が理不尽を感じたときそれを意思表明できる場所を作ることと理解しました。すなわち、この条例が議会で可決され公布されたことから権利擁護が始まるという、遁所氏の主張が良く理解できました。
 新潟市での意見募集(パブリックコメント)は、もうじき締め切られますが、多くの声を行政に届けたいと思います。また、全国の皆様のお所でも行われているであろう条例作りに、多くの方が関心を持つことを期待しています。

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年6月3日(水)16:30~18:00
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
 http://andonoburo.net/on/3598
 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定) 

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平成27年8月1日(土) 午後
 新潟ロービジョン研究会2015 「ロービジョンケアに携わる人達」
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  主催:済生会新潟第二病院眼科
 要:事前登録
  主催:済生会新潟第二病院眼科 
 http://andonoburo.net/on/3569
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平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「人生いろいろ、コーチングもいろいろ
         
高次脳機能障害と向き合うこと、ピアノを教えること」
  立神粧子 (フェリス女学院大学教授)
 -----------------------
  参考:新潟ロービジョン研究会2011~2011年2月5日(土)
  『前頭葉機能不全 その先の戦略』立神粧子
   http://andonoburo.net/on/3495
 ----------------------- 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題:街歩きを通して考える社会の視覚障害者観と当事者の心理
  講師:清水美知子(フリーランスの歩行訓練士) 

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平成27年10月10日(土)午後
 済生会新潟第二病院 眼科公開講座2015「治療とリハビリ」
 会場:済生会新潟第二病院10階会議室
 要:事前登録
 講演予定者
  五味文(住友病院)
  高橋政代(理研)
  立神粧子(フェリス女学院大学教授)
 http://andonoburo.net/on/3607
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平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題未定
  藤井 青 (ふじい眼科) 

平成27年11月11日(水)16:30~18:00
 第237回(15-11)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  郷家和子(帝京大学)

2015年4月30日

 演題:知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
    
―「慢性眼科患者」の経験から私が学んだこと―
 講師:阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員/社会福祉士)
  日時:平成27年4月8日(水)16:30~18:00
  場所:済生会新潟第二病院眼科外来 

【講演要約】
 両目のまぶたに先天的な症状を持って生まれた私は、生後まもなくの頃から眼科とのおつきあいが始まりました。以来、40数年経った今も年数回の眼科受診を続けながら日常生活を送っています。
 紆余曲折の末に辿り着いた大学院教育学研究科で学んだことが活かせる職種の職員募集が仙台市の市政だよりに載っていることを私に教えてくれた教官のおかげで、大学院修了後はさまざまな障害を持つ方の生活相談支援を担う部署に相談員として就職しました。人よりけっこう遅い「社会人1年生」のスタートを切ったことになります。

 そして、たまたま同じ時期に始まった仙台市の地域リハビリテーションモデル事業で視覚障害者支援に関するプロジェクトのいわば「現場スタッフ」の仕事も担当させていただくことになりました。このモデル事業が基盤となって仙台市中途視覚障害者支援センターが仙台市単独事業として2005年に始まりました。今年(2015年)の春でちょうど10周年です。

 支援センターでのもっとも中心となる業務は相談です。視覚障害を持つ方やその家族などから寄せられる相談に応じ、情報提供したり、福祉サービスの利用を円滑に受けられるようにするために福祉事務所等での手続きを支援したり、あるいは経済的な基盤を確保するために障害年金の請求手続きに必要な書類集めのサポートをしたり、病気や症状への適応の過程で生じる心理的葛藤につきあったり、見えない・見えにくい状況で生活する上でのちょっとした工夫(感覚の活用、道具の活用など)を助言したり……と、その内容はさまざまです。

 市民(視覚障害を持つ人ご本人や家族)から直接連絡をいただく以外にも、例えば病院の眼科や糖尿病内科などに勤務する医師や看護師から入院中の患者さんのことで支援協力の依頼が入り、病棟を訪問して本人・家族とお会いし、退院して後の自宅での生活再開に向けて必要な情報を提供したり手続きを支援したりすることもおこなっています。

 また、お互いになかなか出会う機会がなく、それゆえ、ともすると孤立しがちな中途視覚障害者やその家族を主な対象とした「目の不自由な方と家族の交流会」を毎月1回開催しています。さらに、支援者どうしが分野や組織の枠を超えて交流し、お互いの専門分野を話題提供して学びあったり人脈づくりをしたりすることを目的として2000年の夏に始まった「仙台ロービジョン勉強会」の事務局役割を2006年から引き受け、こちらも毎月1回開催しています。

 このようにさまざまな視覚障害者の生活設計・生活再建、あるいは眼科の患者さんやその家族が直面する心の動揺や葛藤を整理していく過程にソーシャルワーカーとして直接・間接にかかわる現在の業務を個人的なライフヒストリーを交えながら振り返ってみた時、「自分の体験だけでモノゴトのすべてを考えてはいけない」と思いつつも、ものごころつく頃からの眼科での患児・患者としての経験から得たこと、社会全体からみればマイノリティ(少数者)であるロービジョンの状態で育ち生活してきた体験から学んだことが今の私に少なからぬ影響を与えていると気づかされます。

 私の場合、「低い視機能(ロービジョン)のために生じる『見える・見えないを行ったり来たり』とどうつきあうか?」という要素と、「義眼の管理や人工涙液の頻回点眼、痛みや疲れの軽減対策など、いわば『目の内部障害』とどうつきあうか?」という要素に整理されるのではないか、と自分の状況をとらえています。そして、「症状の変化(進行)に対して、心理的に、あるいは具体的な行動技術や道具の活用の工夫などによってどのように適応していくか?」を考えなければいけない場面に直面した時、しんどかったりつらかったりすることがないわけではない、というのが正直な状況です。

 しかし、小児眼科(こども病院)時代に患児として眺めた医師をはじめとする多様なかかわり手どうしの連携と役割分担の姿や、国際障害者年(1981年)の1年間にテレビや映画で接した、国内・海外に暮らすさまざまな障害者が自身の障害とつきあいながらも社会の中でいきいきとその人・その人の役割を果たしている/果たそうとしている姿から学んだことは現在、私にとって「思考の基本・お手本」としてとくに強い影響を与えているように思います。

 そんな慢性眼科患者としての生活過程を振り返ってみて、疾患(やそのために生じる機能低下・喪失)とよりよくつきあいながら暮らしていくうえで重要なことを考えてみました。
(1)「私もあんなふうになりたい」「なれるかも…」と思えるような良き手本となる人の行動・生きざまに触れることによって気持ちの上で強くなれるように思います。
(2)世界の多様な多民族・多文化事情やマイノリティ事情、弱さに起因する社会問題を知ることによって、疾患や障害のために直面する課題を客観的・相対的にとらえる視点を育むことができるように思います。
(3)失敗や挫折、困難や苦労を「何事も経験」ととらえ直すことによって、心の余裕が生まれるように思います。
(4)教育の力・笑いの力は困難な状況をのりきっていくうえで重要ではないでしょうか。 

【略 歴】
 兵庫県出身。関西と関東を行き来しながら子ども時代を過ごす。
 1995年 同志社大学文学部文化史学専攻卒業
 2001年 東北大学大学院教育学研究科教育心理学専攻修士課程修了
 2001年 (財)仙台市身体障害者福祉協会に仙台市太白障害者生活支援センター相談員として入職
  この間、仙台市地域リハビリテーションモデル事業運営協議会ワーキンググループ委員(2002年~2004年)、中途視覚障害者への地域リハビリテーションシステム研究事業ワーキンググループ委員(2004年~2005年)を経験。
 2005年 視覚障害者を支援する会(現在のNPO法人アイサポート仙台)に仙台市中途視覚障害者支援センター相談員として入職 

@NPO法人アイサポート仙台
http://www15.plala.or.jp/isupport/


【後 記】
 阿部直子さんは、魅力いっぱいな素敵な女性でした。アイサポート仙台は、相談も患者さんのみでなく、医師や医療関係者が訪れるというのはビックリでした。
 行政と対決するのでなく、味方につけての活動は、時として制約もあろうかと思いますが、ことをなす王道です。今年創立10周年を迎えたということですが、色々な職種の方々が集ってここまで続けてこられたのは素晴らしいものです。「中途視覚障害者交流会」(毎月)、「仙台ロービジョン勉強会」(毎月)も充実しているようです。 

 「慢性眼科患者」としてのライフヒストリーでは、ご自身の障害のことをカミングアウトして頂きました。医師は病気の診断と治療を行いますが、生活上のご苦労はあまり知りません。貴重なお話を伺いました。
 最後に強調された、知る・学ぶ、ユーモアを忘れずに挑戦していくというくだりは、納得して聞くことが出来ました。阿部先生のお話をお聞きして、改めて魅力をいくつも発見しました。参加者から「軽い語りかけで救われる」という感想もありましたが、明るい語り口は魅力です。ご両親の愛情をたっぷりと受けて育ったのだろうと感じました。 

 蛇足になりますが、我が国におけるロービジョンケアの先駆者として、弱視学級設立に尽力した小柳美三東北大眼科教授(初代)が、日本眼科学会創立100周年記念誌に紹介されています。「1929年に小柳美三東北大眼科教授がLV児の特殊教育の必要性を訴え、1933年に南山尋常小学校(東京麻布)に全国初の弱視学級が開設された。」 加えて、東大眼科の原田政美先生が、1965年に東北大学教育学部教育心理学科の視覚欠陥学講座に教授として赴任し、視覚障害リハビリテーションに尽力されています。
 こうしたことから「仙台が日本のロービジョンケア発祥の地なのでは?」という思い
を強くしています。このような背景を知ると、阿部先生が作り上げてきたアイサポート仙台は、偶然ではないという思いがします。創立10年を迎え、これからますます飛躍の時だと思います。今後の活躍を祈念しています。
 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「(仮称)障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされいかされる新潟市づくり条例検討会に参加して」
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会事務局長)
 http://andonoburo.net/on/3555


平成27年6月3日(水)16:30~18:00
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)


平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定)


平成27年8月1日(土) 午後
 新潟ロービジョン研究会2015 
  会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
  主催:済生会新潟第二病院眼科
 要:事前登録
  主催:済生会新潟第二病院眼科 
 テーマ:「ロービジョンケアに携わる人達」
特別講演 
1.世界各国と比べた日本のロービジョンケア(仮題)
   仲泊聡(国立障害者リハビリセンター病院 眼科部長)
2.眼科医が行うロービジョンケア(仮題)
   加藤聡(日本ロービジョン学会理事長 東大眼科准教授)
3.NPOオアシスで行ってきたこと、行っていること(仮題)
   山田幸男(新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)
パネルディスカッション ~ 「ロービジョンケアに携わる人達」(予定)
 司会:安藤伸朗 (済生会新潟第二病院)
 1)視能訓練士
    西脇 友紀(国立障害者リハビリセンター病院)
 2)盲学校
    小西 明 (済生会新潟第二病院;前新潟県立盲学校)
 3)盲導犬
    多和田 悟(盲導犬訓練士)
 4)看護師
    橋本伸子(看護師/石川県)
 5)患者さんから
    大島光芳(上越市)
 コメンテーター
   仲泊聡(国立障害者リハビリセンター病院)
   加藤聡(日本ロービジョン学会理事長)
   山田幸男(新潟県保健衛生センター;信楽園病院 内科)


平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「人生いろいろ、コーチングもいろいろ 高次脳機能障害と向き合うこと、ピアノを教えること」
  立神粧子 (フェリス女学院大学教授)
 -------------------------
  参考:新潟ロービジョン研究会2011~2011年2月5日(土)
  『前頭葉機能不全 その先の戦略』立神粧子
   http://andonoburo.net/on/3495


平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題:街歩きを通して考える社会の視覚障害者観と当事者の心理
  講師:清水美知子(フリーランスの歩行訓練士)


平成27年10月10日(土)午後
 済生会新潟第二病院 眼科公開講座2015
 会場:済生会新潟第二病院10階会議室
 テーマ:「治療とリハビリ」

 要:事前登録
 講演予定者
  五味文(住友病院)
  高橋政代(理化学研究所)
  立神粧子(フェリス女学院大学教授)


平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題未定
  藤井 青 (ふじい眼科)

2015年3月20日

 演題:「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長:注1)
  日時:平成27年03月11日(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要約】
Ⅰ 琵琶法師・按摩師~「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で
 古来日本の盲人は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作し、琵琶法師や按摩師などの業を獲得して来ました。江戸時代、当道座(注2)が自治権を認められ、幕府に重用される盲人も現れました。1682年(天和2)、盲人に鍼を教える学校「杉山流鍼治導引稽古所」(注3)も開設しました。バランタン・アユイが、世界最初の盲学校であるパリ青年訓盲院を設立した1784年よりも100年以上早かったのです。 

Ⅱ 明治政府の施策
 明治政府は長年続いた当道座を廃止します。状況を打開する第一着手は教育でした。1878年(明治11)京都盲唖院発足、2年後、東京楽善会訓盲院も授業開始。京都の古河太四郎は「自己食力」を構想し、楽善会はその基調に自助論を据えていました。いずれも古い徒弟教育を否定し、普通教育の上に職業教育を築きました。中村正直(注4)の「天は自ら助くる者を助く」論は自我形成と生存競争、二つの課題を盲人に課しました。 

Ⅲ 初期の日本盲教育
 京都も東京も、点字がない現実から始まりました。木に刻んだ文字、紙を用いた凸字、紙にカナカナをプレスしたイソップ物語、鍼理論を漢字・仮名交じりに成形した凸文字教科書などが作られました。墨字の書き方の練習もしました。しかし、明治10年代の盲生にとって学習は著しく困難でした。退学が相次ぎました。 

Ⅳ 点字の登場
 事態を根本から変えていくのが点字です。人類の文字は凹字から始まりましたが、紙の発明によって平らな字に変わり盲人が読み書きし難くなりました。盲字用凸字から12点点字に飛躍し、ルイ・ブライユが6点方式に改革したことを通じて、世界の盲人にとって自由に読み書きできる文字が獲得されました(注5)。私は、アーミテージの「盲人に対する最善なるものの唯一の審判者は盲人」という提言も重要であったと考えています。
 わが国では、英国の盲人アーミテージによる『盲人の教育と職業』という書籍がそれを持ち帰った手島精一から小西信八東京盲唖学校長の手に渡り、石川倉次の点字研究が始まります。その出発点で、高田出身の小林新吉少年がアルファベット点字の読み書きを円滑に行ったことが決定的な駆動力となりました。 

Ⅴ 小西信八の功績
 明治期後半からの盲教育においては、東京盲唖学校長・小西信八の認識がもたらした影響が重要です。彼は1896年(明治29)から1898年(明治31)にかけて、欧米の障害児教育を視察しました。国家による教育を受ける権利が、盲児、聾唖児にもある(「天賦人権論」に立った認識であったかどうかは吟味を要しますが)と、はっきり主張しました。
 1906年(明治39)聾唖教育全国大会 3校長(小西信八・古河太四郎・鳥居嘉三郎)の「文部大臣建言」『上申書』・・・盲ト聾トハ全ク性情ヲ異ニシ盲者ノ為ニ考慮ヲ尽シタル成案モ之ヲ聾者ニ適用スベカラズ聾者ノ為ニ工夫ヲ凝ラシタル良案モ之ヲ盲者ニ利用ス可カラズ・・・・ 

Ⅵ 盲・聾 教育の義務化と分離
 明治から戦時中にかけて続けられた帝国盲教育会などによる運動の結果、盲・聾教育の義務化と分離は、1947年(昭和22)教育基本法、学校教育法によって果たされました。最後に盲・唖分離が行われたのは石川県で、それは1965年(昭和40)でした。特別支援教育制度の下、今後の視覚障害教育はどのような方向に向かうのか、気にかかっています。 

Ⅶ 日本盲人会
 1906年(明治39)には日本盲人会も結成されました。東京と京都の教員とその教え子たちが呼びかけ人に名を連ねました。メンバーの一人、左近允孝之進は点字新聞「あけぼの」を創刊し、『盲人点字独習書』という書物も発行しています。文部省が『日本訓盲点字説明』を出すより6年も早く当事者である左近允がこの仕事をしたのです。 

Ⅷ 同窓会
 それらに先立って、同窓会作りが1902・3年(明治35、6)に東京でも京都でも始まり、全国の盲唖学校へと広がって行きます。自らの団体を結成して歴史を一歩前に進めようという動きの基盤になったことは間違いないと考えられます。京都府立盲学校の同窓会は、昭和の初めに国産第1号として点字タイプライターを製造・販売しました。点字盤も「京盲同製」と彫り込んで販売しました。状況に対応して生きるだけでなく、状況を変える主体者として、当事者集団が立ち現れてきたことの意義は大きかったと思われます。木下和三郎の盲人歩行論にももっと注目すべきでしょう。
 自己実現を求め続ける「主体」が形成・確立されてきた過程を掘り起し、公助の範囲を縮小していくかのような今日の流れを超える力はどこから生まれてくるのかを考察したいと思っております。 

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注1)「日本盲教育史研究会」
 2012年10月13日発足。全国各地方・学校などに埋もれている史料の発掘、保存、活用を追求し、調査・研究の成果を交流・共有。日本の明治期以降の歴史を研究することにより、今後の盲教育の方向を示唆することを企図して有志により作られた。
@「日本盲教育史研究会公式サイト」
http://moshiken.org/index.html 

注2)「当道座」
 江戸時代に幕府から承認された視覚障害者の組織(西洋諸国のギルドにあたる)。自治権が与えられ、検校・別当、勾当、座頭の位があり、さらに細かく全部で73階級に分かれていた。当時3000人くらいがこの組織に属していた。 

注3)「杉山流鍼治導引稽古所」
 小川町邸の後、本所一つ目弁財天社内に開設(江戸時代後期より本社二の鳥居の手前、南側に四間余り五間の教育施設)。 この場所は、杉山和一が徳川綱吉から拝領した。現在江島杉山神社(東京都墨田区)。1682年(天和2)9月18日、家塾を改め杉山流鍼治導引稽古所を設立。アユイによる視覚障害者教育(パリ・1784年)より100年以上前のこと、世界の教育史上特筆すべき初の盲人教育である。
@「杉山流鍼治講習所」
http://www13.plala.or.jp/sugiyamakengyou/kousyuujyo.html 

注4)「中村正直」  1832年〈天保3年〉- 1891年〈明治24 年〉
 西国立志編(自助論)~1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなる。自助論の序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳した。
@「中村正直 | 近代日本人の肖像 – 国立国会図書館」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html
@
「中村正直 – Wikipedia – ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4 

注5)「ルイ・ブライユ Louis Braille」 1809年~1852年
@アルファベット6点式点字の開発者
「ルイ・ブライユ – Wikipedia – ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A6


==========================
追補 「新潟の先達たち」
1.小西信八 (こにし のぶはち)1854年(嘉永7)―1938年(昭和13)
 長岡藩医小西善硯の次男として越後国古志郡高山村(現・長岡市高島町)に生まれ、1876年(明治9)東京師範学校中学師範科に入学し、1877年(明治10)、東京高等師範学校教諭(付属幼稚園主任を兼務)、1878年(明治11)には文部省四等属に任ぜられて訓盲啞院掛事務となります。そして1879年(明治12)に東京盲啞学校教諭兼幹事となり、さらに1882年(明治15)の同校校長心得を経て、1885年(明治18)に39歳で同校校長となっています。そして、1902年(明治35)に東京盲啞学校が東京盲学校と東京聾啞学校に分離した際、後者の校長として1925年(大正14)まで務めました。
 盲唖学校・聾唖学校校長、初期聾唖教育・盲教育の充実に努め、欧米歴訪で国家の教育を受ける「権利」・義務制の主張を明確化する。石川倉次と共に6点点字の開発。盲・唖分離論を唱えました。明治・大正という、障害者教育の黎明期に大きな足跡を残しました。
@「点字教育と新潟 – 博物館学を読む – Yahoo!ブログ」
http://blogs.yahoo.co.jp/rekitomo2000/64943722.html

2.大森隆碩(おおもり りゅうせき)1846 年(弘化3)―1903 年(明治36)
「医学と英語の英才」
 1846 年(弘化3)高田藩医の長男として誕生。15 歳からは江戸で眼科の勉強をし、1864 年(元治1)に高田で眼科医を開業します。そしてさらなる医学の上達を志し、英語を学ぶため大学南校(現・東京大学の前身の一つ)に入学します。ヘボン式ローマ字で知られる医師ヘボンにも師事し、ヘボンの和英辞典編さんを手伝うまでに英語が上達しました。

「訓盲談話会」の設立
 再び高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験したことから、目の不自由な人たちの教育について考えるようになります。1886年(明治19)には医師や視覚障害者たちとともに「訓盲談話会」を設立し、幹事長に就任。翌年には早くも高田寺町の光樹寺(寺町2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器などの授業を始めることになりました。この光樹寺の学校が、のちに高田盲学校へと発展していくのです。この間、隆碩は「医事会」「高田衛生会」などの医療団体の設立にも尽力しています。

「高田盲学校」
 1891 年(明治24)、隆碩は再三の申請の末ようやく県から認可を受けて、私立高田訓矇(くんもう)学校を設立し、校長に就任します。日本で三番目の盲学校の誕生です。隆碩はその私財の多くを訓矇学校の運営費に充てていました。またこの頃、隆碩は中頸城郡立産婆養成所の設立にも貢献し、その所長も務めています。1903 年(明治36)、療養中だった東京で亡くなりました。享年57 歳
@「日本3番目の盲学校を開校 大森隆碩」 
https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/92476.pdf#search=’%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E9%9A%86%E7%A2%A9′
@「開学の精神」後世に
http://www6.ocn.ne.jp/~oasisu/igyouden.htm
@「高田盲学校の設立に尽力した眼科医・大森隆碩』
http://andonoburo.net/on/3488

3.大森ミツ(大森隆碩の次女 東京盲唖学校訓導。高岡清次と結婚し、高岡光子)
 1904年(明治37)国定教科書「地理書」に挿入する『内国地図』を亜鉛版に打ち出し発行(初の触地図)。翌 1905年(明治38)8月には『外国地図』を発行。1914年(大正3)には辞書『言海』の点字訳を成し遂げました。夫・高岡清次は東京帝大を卒業後に中途失明した法学徒であり、光子はその学問をも支えました。なお、1909(明治42)年2月国に対して「点字公認ニ関スル請願」が提出され、あと一歩で採択されるところまで進展しましたが、内閣法制局の「点字は文字にあらず」という判断によって葬り去られました。この請願に高岡清次も加わっています。 

4.市川信夫  1933年(昭和8)-2014年(平成26) 
 新潟県上越市出身。高田瞽女の文化を保存・発信する会代表。児童文学者。新潟大学教育学部に学び、各地の小学校に勤めた後、盲学校・養護学校などで障害児教育に当たりました。高田瞽女研究の第一人者と言われた父、市川信次の指導で瞽女研究をはじめました。退職後は知的障害者通所作業所所長、上越市文化財審議委員などを歴任。坪田譲治氏に師事して学んだ児童文学の分野では、代表作に「雪と雲の歌」や映画化された『ふみ子の海』(理論社)があります。その映画のキャッチコピーは「ほんとうに大切なものは目に見えない」でした。
「児童文学者・高田瞽女研究家、市川信夫さん死去 功績たたえ、急逝を悼む」
http://www.j-times.jp/news.php?seq=9555
「瞽女文化」
http://goze.holy.jp/goze/hennaka2/itikawa.html
「ふみ子の海」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%81%BF%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%B5%B7

5.高田訓矇学校は「日本最初の盲学校」
(点字毎日連載『歴史の手ざわり・もっと!第10回』より)
 明治10年代、東西二校の他に、大阪や石川などで盲啞教育が試みられました。しかし、条件が熟していなかったため、いずれも挫折してしまいました。従って、1891年(明治24)創立の高田盲学校が「3番目の盲学校」と言い習わされてきました。現在(執筆・掲載時点)は、県立上越養護学校内に同新潟盲学校高田分校となっています。
 高田盲学校の歴史は幾つかの際立った特色を持ちます。まず、2006年(平成18)まで、一度も「盲唖学校」に変容することなく、徹頭徹尾「盲学校」として存在し続けた点です。京都も東京も、「盲唖」校であった時期に、高田は視覚障害に特化した学校づくりを初心としました。地元には、聾唖生の受け入れを望む動きもありましたが、それをあえて退けました。この経緯をふまえると、高田は「3番目」でなく、「日本で最初の盲学校」と称えるのが相応しいとさえ言えます。
「点字毎日 2011年10月27日 歴史の手ざわり・もっと」 京都府立盲学校 岸博実
http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-b1-f4%2Fkishi_1_99%2Ffolder%2F557467%2F59%2F38786859%2Fimg_0%3F1321074146&i=1

 これらの方々の足跡・業績をいっそう体系的に掘り起し、顕彰していきたいと念じます。高田盲学校の史料、市川信夫氏の仕事をどう継いでいくか、関係者のご尽力に期待しています。

PS:ささやかなお土産として、「高田盲学校30周年記念」(点字)を墨字に起こして持参いたしました。 

 

【略 歴】
 1972年(昭和47年)   広島大学教育学部卒業
 1974年(昭和49年)~  京都府立盲学校教諭
 2011年(平成23年)~  点字毎日・点字ジャーナルに盲教育史連載 
 2012年(平成24年)~  日本盲教育史研究会事務局長
 2013年(平成25年)~  滋賀大学教育学部非常勤講師
           6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演を担当
 2014年(平成26年)7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で
              教育講座を担当 

【後 記】
 とにかく視覚障害者への教育の歴史に対する岸先生の真摯さ優しさを感じる講演でした。
 一つ一つは知っている積りでしたが、歴史の流れの中で語られた視覚障害者(児)の教育の話は新鮮でした。衝撃でした。最初に述べられた、琵琶法師・按摩師は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作した人たちという認識も新鮮でした。わが国には古くから視覚障害者に対する施策や教育があったこと、明治を機に大きく制度改革が行われたこと、視覚障害者のために点字の開発が大きかったこと、盲・聾 教育の義務化と分離に長い年月を要したこと(最近は逆に統合が進められている)。自己実現を求め続ける『主体』が形成・確立されてきた過程を知るにつれ、公助の範囲を縮小するかのような今日の流れに危惧を覚えます。
 新潟の先達の働きも再認識しました。同時に、貴重な資料の保存も気になりました。
 岸先生には、あいにくの天候の中、京都から新潟(そして上越・高田)までお出で頂いきました。感謝です。岸博美先生の今後益々のご活躍を祈念致します。

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士)) 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「(仮称)障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされ
     
     いかされる新潟市づくり条例検討会に参加して」
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会事務局長)
 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定)
 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「人生いろいろ、コーチングもいろいろ
   ー高次脳機能障害と向き合うこと、ピアノを教えることー」
  立神粧子 (フェリス女学院大学教授)
-----------------------
 参考:新潟ロービジョン研究会2011~2011年2月5日(土)
  『前頭葉機能不全 その先の戦略』立神粧子
   http://andonoburo.net/on/3495
 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)
 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題未定
  藤井 青 (ふじい眼科)

2015年2月8日

 演題:「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
  日時:平成27年02月4(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要約】
1.現在化粧の動向と視覚障害者
 化粧は,顔の容姿を美しく装うだけのものではなく,社会人女性としての「身だしなみ」と言われるまでになっている.現在では1人の成人した女性として社会に参加するには,「身だしなみ」の1つとして化粧することが習慣化されている.
 女性が美しくなることに関する研究や商品開発は止まることを知らず,綺麗な容器に身を包んだ化粧品や美容アイテムが次々と生産されて女性を魅了し続けている.昨今では若者女性の間で,目を大きく魅力的に見せるアイメイクの流行により,マスカラ,付け睫毛,アイライン,カラーコンタクトレンズなどを着用し,華やかで個性ある化粧を施す女性が多くなった.
 今や化粧は社会人女性としての「必須アイテム」となり,「アイデンティティ」の確立に寄与しているとさえいわれている.また化粧の本格的な習慣化は,成人としての社会参入条件であるとの指摘もある.これらの報告から現在社会における化粧は,女性にとって,自身の生き方や社会生活と大きく関連するものであることが指摘できる. 

2.化粧と視覚障害者の現状
 化粧社会と言われるなかで,視覚に障害を有することで自分自身の顔を鏡で見ることが不自由な女性は,化粧をしなくなる傾向がある.その背景には,視覚に障害を有しながらも化粧を試みるが,他者からの低い評価を受けたことで自信を失い,自己肯定感が低くなるなどの心理的な影響によるものが多い.低い評価の例として,「化粧がムラになっている」「チーク(頬紅)やアイブロー(眉毛)が右対称ではない」「口紅がはみ出している」「化粧が濃すぎる」などがあげられている.
 このような低い評価を受けたことで,化粧することに対して不安や恐怖を感じて,化粧をしなくなる傾向にある.また,化粧したくてもできないことでコンプレックスを持つ女性も多い.これらから,視覚に障害を有する女性にとって化粧をしたくてもできないことは,化粧社会の女性の中で疎外感を持つことにつながり,女性性を低下させる要因の1つになっているのではないかと考えた. 

3.視覚障害者に向けた化粧支援
 演者は化粧活動の中で,化粧したくてもできないことでコンプレックスを抱えている視覚障害者に多く出会った.この出会いがきっかけとなり,視覚障害者に化粧の色彩や仕上がりを音声にした情報を提供することに関心をもった.
 化粧品や色彩などの美容情報を口頭で伝えながら化粧施術をすることで,視覚障害者は自身が化粧により綺麗になっていく工程を化粧施術者の音声情報により認識して,化粧を楽しむことができた.また他者から「綺麗」「可愛い」「美しい」など女性特有の称賛を受けることで自信を取戻し,外出支援に繋がると期待された.
 しかし,この活動には限界があった.それは化粧技術者が視覚障害者に化粧を施した直後の場合では綺麗に仕上がった状態であるが,「食事をすると口紅が落ちた」「汗で化粧が崩れた」など化粧にはパーマネント性がないため,1度化粧崩れしてしまうと「化粧直し」という2次的な支援まで活動が行き届かないことであった. 

4.「ブラインドメイク・プログラム」の開発
 そこで演者は,視覚障害者に化粧施術者によって化粧すること自体を抜本的に見直した.視覚障害者が他者からの施しによって化粧されるのではなく,自分自身で化粧ができる「化粧の自己実現」に意義があると考えた.この考えから,2010年に鏡を見なくてもフルメイクアップができる「ブラインドメイク」の化粧技法を開発した.
 そして,化粧の仕上がりは結果主義や成果主義であることから,化粧工程に工夫とテクニックを組み入れた.化粧の仕上がりを「バランスの取れた自然な仕上がり」に見せることを課題として合理的かつ効率的な化粧技術を追求した.この研究から無駄な動きを省いて合理的かつ効率的に鏡を見なくても化粧することができる「ブラインドメイク・プログラム」.(映像視聴:12分30秒)を完成させた 

5.障害者ではなく,ひとりの女性として
 ブラインドメイクができるようになった視覚障害者の女性は,「自信が持てる」「外出したくなる」「人と話がしたくなる」(心理的有効性),「元気になる」「食欲が増す」(身体的有効性),「周囲の人が親切になった」「声掛けや手引きをしてくれる人が多くなった」(社会的有効性)と述べている.これらから,社会的視点では,視覚障害の女性を“障害者”ではなくひとりの”女性”として認識し,尊重した接し方をしていると考えることができる.また,視覚障害者からの視点では,ひとりの女性として社会的配慮ができるということ,そして社会へ参加する前向きな意思があるという周囲へのアピールになっていると考えることができた.このような取り組みが社会に向けた視覚障害者からの理解を深める1つの活動につながり,彼女たちの声掛けや手引きにつながっていると考えている.

 

追伸 「理美容ニュース」で,昨年,日本美容福祉学会で発表しましたブラインドメイクの研究が取り上げられて,記事になりました.ご一読いただけましたら幸いです.この発表がきっかけで,今年の秋から,美容専門学校のメイク科で,ブラインドメイクを科目に入れていただくことになりました(大阪市中央区)。私のもう一つの役割として,ブラインドメイクを通して,広く社会に視覚障害者を理解してもらうことと考えています.
 http://ribiyo-news.jp/?p=13994

 

【略 歴】
 1995年,中央大学 法学部法律学科 卒業
 2010年,大阪中央理容美容専門学校 卒業
 2012年,日本福祉大学 福祉経営学部 卒業
 2013年,日本福祉大学大学院 社会福祉学研究科 在学中
  日本ケアメイク協会 会長(2010年~2014)
 http://caremake.on.omisenomikata.jp/

【後記】
 大石さんは、理容師の資格を持ち、普段は司法書士として仕事をし、かつ福祉大学大学院で学びながら、目の見えない方のためのメイクを独自の手法で開発し、広めている方です。浪速っ子。講演は、パワーに溢れていました。ユニークでした。有意義でした。楽しかったですし、元気をもらいました。講演を聞きに来た方々を巻き込み、突っ込みをいれての熱演でした。初めから笑いの連続であっという間の90分でした。
 曰く、・女性には化粧が大事。・化粧のコツは、左右対称にするために両手を使う。・筆より指がいい。・メイクの中心は「目」。・目を大きく見せる・睫毛は長く見せることが大事。・褒める、でも悪いとこはしっかり伝えるも大事。・私は綺麗という自信(勘違い)が大事。・キレイニなることで、社会への参加の機会が増える。・いつまでも異性に対するワクワク感、トキメキ感が大事。・環境や周囲の理解が大事。・福祉関係の人にメイクに関心がない人が多い、、、、、、、、、「小じわが気になるんです」というと、よく「そんなの心配ない。私はもっとある」とか言われてしまう。そんなことを言われたら、(あなたはそれでいいのかもしれないけど、私は嫌だ)と思う。。。。。
 実際のところ、視覚障害者にとって先ずは日常の生活ができるようになることが求められ、化粧は次の段階であろうと思います。化粧品の購入にはお金もかかります。しかし視力を失い多くのことを諦めるようになった方々が、(特に女性の場合)「ブラインドメイク」によって、諦めた多くのものを取り戻せるきっかけになるのではないかと強く感じた次第です。
 大石さんの今後の益々の活躍を応援したいと思います。このプロジェクトが発展し、多くの視覚障害者に希望をもたらしてくれることを祈念します。

 

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015 細井順講演会』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと
 
     ~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 http://andonoburo.net/on/3412 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長) 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
                   
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士)) 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会) 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00   注)第1水曜日です
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会) 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定) 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  立神粧子 (フェリス女学院大学) 

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県) 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 (予定)
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)

2015年2月6日

「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)

  日時:平成27年01月14(水)16:30 ~ 18:00 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要旨】
1. 視力を失って
 小学6年の時、網膜色素変性症のため、視力を失いました。6年の初めころまでは野球や自転車に乗ることができるくらいの視力がありましたが、急激に下がっていきました。見えなくなったことは当然ショックでしたし、それと同時に、自分は目の見えないだめな人間なんだ、何もできないだめな人間なんだという気持ちも強く持つようになりました。そしてこのように見えなくなった自分の姿を周りの人に見られたくないという気持ちも強く、近所の人が家に来るとすぐに奥の部屋に隠れたりしていました。 

2. 盲学校入学
 中学から新潟盲学校へ進みました。周囲の生徒、教員、寄宿舎の先生方は視覚障がいというものに慣れており、私自身、見えない状態で生活を送ることに比較的早く順応できるようになりました。視覚障がい者用にアレンジされた野球やバレーボールなどのスポーツ、またギターを始めるなど、楽しい中学生活を送っていました。
 ただ、今では体の一部のようにして使っている白状を持って外を歩くことはとても屈辱的なことでなかなかできませんでした。 

 3. 盲学校の外の世界へのあこがれ
 楽しく過ごしていた中学生活が終わり、高校生になったころから、もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが膨らんできましたが、一方で目の見えない自分には何もできないと自分の気持ちを押さえつけていました。
 そして3年の進路相談の時、担任の先生から「外の世界を見てみないか、例えば一般大学に行ってみるとか」と言われました。当時の私には想像もできない世界であるとすぐに断りました。その後、私もその先生の言葉をじっくりと考え、自分自身も以前から外の世界を見てみたいという気持ちを持っていたので、どんなに失敗したとしても命まで取られることはない、後で後悔するよりもやれることをやった方がいいと思い、思い切って大学進学を決意しました。 

4. 大学進学への挑戦
 1年間視覚障がい者用の大学進学準備課程ある京都府立盲学校で受験勉強をし、そこでボランティアに来てくれていた大学生と交流したり、英語を専攻しようという目標も定まり、とても有意義な時を過ごしました。
 そして何とか目標校であった京都外国語大学英米語学科に入学することができました。入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」とまず念を押されましたがそれは自分が勝手に大学進学を希望したのだから当然のことと思いました。教科書の点訳などは自分でボランティアを探して依頼し、授業に間に合わせるようにしていました。周囲の学生たちとの関係では、お互いに最初はぎこちなく接していましたが、時間が経つにつれ、ごく自然に付き合えるようになりました。 

4. アメリカ留学
 卒業後については、入学当初に出会った先生の影響もあり、アメリカに留学したいという目標を立てていました。そして多くの方のご協力もあり、それを叶えることができました。
 アメリカでは、専攻の英語学を深めるということが一番の目的でしたが、それと同時に、障がい者の受け入れ態勢が進んでいるとも聞いていたので、どのようになっているのかその点にも興味がありました。大学では、スペシャルサービスという機関があり、そこが中心となって障がいのある学生に必要な支援を行うシステムになっていました。そのサポートを受け、障がいのある学生も他の学生と同じようにキャンパスの中で学び、生活をしていました。
 こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていましたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになりました。 

5.日本に帰国し市議会へ
 社会に対する疑問は、それを感じた当事者が、当事者の言葉で周りに伝えていかなければ社会は変わらないと想い、新潟に戻ってから様々な市民活動や障がい者運動に参加するようになりました。その中で、長年にわたって、この日本そして新潟でも、障がい当事者の運動を続け、様々なことを改善してきた実績に触れ、私のそれまでの世界の狭さを思い知らされ、反省させられました。
 私自身、就職の壁に突き当たり、試験や面会の機会すら与えず、視覚障がい者であるということを理由に門前払いする事業所の対応に本当に強い怒りと悔しさを覚えました。そして活動を通じて出会った友人から、やはり政策決定の場に、障がい当事者が参画していく必要があるとの話をもらい、紆余曲折を経て、市議会に立候補することになりました。そして多くの方のご支援とご協力をいただき、現在まで5期20年を務めさせていただいている次第です。 

6.進む法整備
 国連の場で、2006年に障害者の権利条約が採択され、その後、日本でも批准に向け、障がい者団体が国内法の整備を求め、広範な運動を展開してきました。そして2011年に障害者基本法が改正され、障がい者への差別の定義とその禁止が盛り込まれました。そして2013年には障害者差別解消法が制定され、2014年にはついに日本でも障害者権利条約が発効されました。
 私は2008年、国内法の整備と並行して、障害者の権利条約の理念を踏まえ、新潟市として市の実情を踏まえた条例の制定を目指すべきとの提案をし、市長から前向きな答弁がありました。その方針に沿って、現在(仮称)障がいのある人もない人もともに生きる新潟市づくり条例の検討がすすんでおり、来年度中の制定を目指しています。もちろん条例が制定されただけですべてが大きく変わるわけではありませんが、この条例とあわせ、各種施策を充実させながら、また市民から関心を持ってもらい、意識を高めてもらうための啓発活動も粘り強く進めていかなければなりません。
 こうした努力を積み重ねながら、新潟市が真に一人ひとりの存在を尊重し、安心して暮らせるまちであると実感できるように、多くの皆さんと今後とも活動を進めていきたいと思っています。 

【略 歴】
 1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
     新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、
     京都外国語大学英米語学科。
 1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
 1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
 1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
 2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
    現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、
    新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中

  http://www.aokimanabu.com/

 

【後記】
 青木さんとは長いお付き合いです。視覚障害者で市会議員ですから、いろいろな機会にお会いしていました。しかし、ご自身のことをお聞きしたのは今回が初めてでした。感動しました。どんな演説より雄弁でした。
 目が見えなくなったころの少年時代。盲学校での生き生きした生活。京都府立盲学校での受験勉強、京都外国語大学での生活。留学時代のお話、そして市会議員へ。サクセスストーリーではありますが、大いに共感し感動しました。
 幾つかのフレーズが印象に残っていますが、日本の大学での入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」と言われたこと。米国の大学に留学した時、スペシャルサービスという障害者のための支援をするところで、「あなたが学ぶために、私たちにできることは何ですか?どういうサポートが必要ですか?」と言われたとのこと。こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになったといいます。

 青木さんは、1995年に新潟市市会議員となり、現在5期を務めています。今後も新潟市のため、いや日本の障害者のために活躍して欲しいものと祈念しております。

【今後の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室
 『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015 細井順講演会』
 「生きるとは…『いのち』にであうこと
     ~死にゆく人から教わる『いのち』を語る~」
 細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江八幡市)
 http://andonoburo.net/on/3348

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)

 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士))

 

平成27年5月13日(水)16:30~18:00
 第231回(15‐05月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  遁所 直樹 (社会福祉法人 自立生活福祉会)

 

平成27年6月3日(水)16:30~18:00  注)第1水曜日です
 第232回(15‐06月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
   吉野由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)

 

平成27年7月
 第233回(15‐07月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 (予定)

 

平成27年8月5日(水)16:30~18:00
 第234回(15‐08月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  立神粧子 (フェリス女学院大学)

平成27年9月9日(水)16:30~18:00
 第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会
  演題未定
  清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)

 

平成27年10月14日(水)16:30~18:00
 【目の愛護デー記念講演会 2015】 (予定)
 (第236回(15-10)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)

2015年1月10日

 演題:視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~
 講師:小西 明(新潟県立新潟盲学校)
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  日時:平成26年12月10日(水)16:30~18:00 

【講演要旨】
Ⅰ 最近の障害児者をめぐる法整備
 平成26年(2014)2月19日「障害者の権利に関する条約」が発効しました。我が国において障害者等が積極的に社会参加できることや、相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型社会の形成への取り組みが、今後一層進展するものと期待されています。教育においては、こうした共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための様々な施策が推進されています。

 このことは平成18年(2006)国連総会において「障害者の権利に関する条約」が採択されたことにはじまります。我が国は、平成19年(2007)9月に同条約に署名し、6年半後に発効にこぎ着けました。この間、下記のとおり批准に向けて必要な国内法の整備が進められ、障害児者に関わる法制度改革がなされてきました。今後も整備の充実や一層の改善が求められています。
    平成23年(2011) 8月 障害者基本法の改正
   平成24年(2012)10月 障害者虐待防止法
   平成25年(2013) 4月 障害者総合支援法
   平成25年(2013) 4月 障害者雇用促進法の改正
   平成25年(2013) 4月 障害者優先調達推進法
   平成25年(2013) 6月 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律
   平成25年(2013) 9月 学校教育法施行令の一部改正 

Ⅱ トータルサポートセンター
 障害児者に関する教育や福祉等に係る法整備は、この四半世紀に大きく前進しました。遡って盲聾学校の義務制が布かれた戦後間もなくの頃は、まだまだ未整備であったことは周知のことです。今から140年ほど前、明治11年(1878)日本ではじめての盲学校、京都盲唖院の開校から現行法制度に至までの過程で、全国盲学校は教育に留まらず、視覚障害者にとってトータルサポートセンターとしての役割を担ってきました。例えば、三療や音曲などの職業教育、公立点字図書館設置運動、三療以外の職業開拓、視覚障害者のスポーツ振興など、ニーズに応じ積極的に支えてきた歴史があります。法整備が整うまでの長い間、盲学校は教育のみならず福祉・労働・文化・スポーツなど、様々な分野で先導的な役割を果たし、時代の先駆けを担ってきたのです。 

Ⅲ 視覚障害者を支えた組織
 1 御大典記念新潟県立新潟盲学校奨学会
 盲聾学校の義務制が、昭和23年(1948)4月より小学部1年生から学年進行ではじまりました。制度は整ったのですが、実際には家庭の経済的な問題、いわゆる貧困により、盲学校や聾学校に就学したくてもできない未就学が大きな課題でした。そこで、昭和26年6月に「盲学校、聾学校、養護学校への就学奨励に関する法律」が施行されました。教科書などの教材費、給食費、舎食費など就学に関わる費用の一部が国庫や県費から支出されるようになりました。これより以前、このような公的支援がない時代、昭和3年(1928)8月当校では独自の奨学金制度を立ち上げていました。それが御大典(ごたいてん)奨学会です。昭和天皇の皇位継承を記念して、篤志家から寄付を募りこれを基本金として、その利子を貸し与えるというものでした。当校には、奨学会設立趣旨書や定款が残されています。

 2 新潟県盲人協会
 現在の社会福祉法人「新潟県視覚障害者福祉協会」の前身である、「新潟県盲人協会」は、大正9年(1920) 6月19日に、刈羽郡柏崎町の中越盲唖学校で開催された県下盲唖学校出身者による連合有志会で設立されています。 設立時の会長は、新潟盲唖学校教員の高橋幸三郎、副会長は、中越盲唖学校教員の姉崎惣十郎の2人、理事8人の体制でした。事務所を、西堀通3番町にあった新潟盲唖学校内に置き、昭和5年(1930)に新潟盲学校が関屋金鉢山に移転すると、そこに移動しています。会長が新潟盲学校教員であり、事務局を所属学校としていたので、実質は盲学校で運営していたといえます。 事業として、設立当初から、点字雑誌を年4回発行。当時貴重だった点字図書を県内5カ所で巡回文庫として設置(大正15年より点字図書館に統合)。出張講演会の開催。点字の普及や三療など職業に関する座談会の開催など多岐にわたっています。 戦中、戦後の混乱期を経て昭和25年4月、県立第7代校長塚本文雄先生が、初代新潟県盲人福祉協会長として就任されました。会員の福利厚生を図り、視覚障害者相互の共励と親睦、研修に敏腕を発揮されました。

 3 新潟盲学校同窓会
 当校同窓会は、開校5年後の明治45年(1912)3月23日の第1回卒業式で4名の卒業生を送り出した日から始まります。同窓生が少なかったことから発足から、昭和2年(1927)までの15年間は、在校生も含めた組織でした。事務局は母校内とし、母校教員が事務処理を担当しました。この体制は同窓会設立から102年を経過した現在も変わりません。
 昭和10年(1935)からは、同窓会長を校長が兼務することとなり、県立第5代校長樋口嘉雄先生が就任されました。学校は同窓会を支え、あるいは一体となって、同窓生の福利厚生や就労の支援をしていたのです。点字機関誌「舟江の六光」の発行や総会の開催から懇親会、あるいは被災同窓生の募金まで手がけました。また、日常生活に欠かせない白杖、点字盤、点字紙、ゲーム用品、糸通し、醤油差し等々を当校購買部が同窓生に小分けしていました。現在のように宅配便やネット販売など無かった時代ですから、当校が視覚障害者用具の卸や販売部の役割をしていました。 

Ⅳ 就 労
 1 明治維新以後の視覚障害者
 明治4年、それまでの当道座が廃止され、同7年の医制発布により、鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることになりました。更には、明治18年の「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには、試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになりました。江戸時代までの視覚障害者は、当道座により男性は琵琶、琴、三味線等の音楽、鍼灸、あん摩、貸金業等、女性は瞽女等なんらかの仕事に就くことが可能でしたが、それができなくなりました。

  2 盲学校(視覚障害教育)のはじまりは職業教育
  ①<鍼灸、あん摩>  明治18年10月、新潟の鍼按業関口寿昌(としまさ)は、盲人教育と鍼灸師養成は、それまでの徒弟制度ではなく、学校教育によらなければならないとして「盲人教育会」を設立しています。関口の死後、盲人教育会は消滅してしまいましたが、これが当校の前身、新潟盲唖学校設置の母体といえるようです。一方、上越では中頚城郡高田町(上越市)に、明治19年(1886)訓盲談話会が組織され、同21年には、「盲人矯風研技会」に改名し、盲児に鍼按、琴などの指導を始めています。このように、学校設置により教育を行い、手に職(鍼灸・あん摩)をつけさせ、視覚障害者の生活を安定させたいというのが関係者の切なる願いでした。

  ②<音楽> 音楽は、盲学校の職業教育として鍼按とともに早くから取り上げられ重視されてきました。音楽科教育のはじまりは、楽善会訓盲院で明治14年、箏曲をはじめとする邦楽を教授したのが始まりです。次いで、洋楽の指導も始まりました。音楽科の設置は、全国十校ほどありましたが、昭和三十年代、四十年代に閉科し現在では2校となっています。

  ③<理学療法> 昭和三十年代半ば頃から、障害者に対する医学的リハビリテーションの推進策が政府をはじめ重要課題として取り上げられるようになりました。そこで、理学療法士、作業療法士の養成することが急務となりました。昭和39年(1964)4月に、現在の筑波大学附属視覚特別支援学校と大阪府立盲学校の二校に理学療法士養成課程が設置され、後に徳島県立盲学校にも設置されました。卒業生は国家資格を取得後、病院やリハビリテーション施設で活躍しています。

  ④<情報処理> 1990年代からIT機器の飛躍的な進展により、視覚障害者が使いこなせる情報機器やソフトの開発が活発になりました。これを受け平成3年(1991)4月筑波技術短期大学(現:筑波技術大学)に情報処理に関する学科が開設されるとまもなく、平成5年(1993)4月大阪府立盲学校高等部専攻科に情報処理科が設置されました。IT機器が各盲学校に導入され、自立活動の時間を中心に積極的に活用されるようになりました。この頃から情報処理技術の活用により、視覚障害者が一般企業へ就労するようになりました。

  ⑤<その他> 昭和36年度から、当時の文部省では視覚障害者にふさわしい新職業の開拓が始まりました。盲学校及び聾学校の特殊教育職業開拓費として、十学級(一学級十名)六百万円が計上され、盲学校では5校にそれぞれ一学級の新職業科が設置されました。 北海道庁立札幌盲学校(農産物栽培科―椎茸)岩手県立盲学校(養鶏科) 神奈川県立平塚盲学校(電気器具組立科)  大阪府立盲学校(ピアノ調律科) 徳島県立盲学校(養鶏養豚科)

 これらの新職業科の中で、ピアノ調律科以外は短期間で閉鎖され、ピアノ調律科も、後に山形県立山形盲学校にも設置されましたが、大阪府立盲学校ともに、平成に入る頃までに閉鎖されました。

 3 三療(あはき)業団体と盲学校
 三療業者は、視覚障害者、晴眼者を問わず三療に就業している人々が団体を組織し種々の活動しています。代表的な団体は、いずれも公益社団法人である「全日本鍼灸マッサージ師会」「日本鍼灸師会」「日本あん摩マッサージ指圧師会」です。これら三団体の設立や運営に、盲学校理療科教員が深く関わっていた経緯があります。戦後の盲学校理療科教員は生徒の学習指導とともに、卒業後に三療で自立した職業人として仕事が進められるように、法整備から社会への理解啓発まで、多彩な活動を展開しました。現在では、各団体組織が独自に法人運営を行い、教職員が関与することはありません。

 4 三療研修と盲学校
 三療の組織的な研修は盲学校がはじまりです。現在では使用されていませんが、当校は長い間、卒業生の三療研修の場、実習室等が研修会場でした。 歴史を紐解くと、休日に「鍼研究会」とか「スポーツマッサージ研修」 「卒後研修」等が学校開放され開催されていたようです。講師は盲学校理療科教員が担っていました。盲人協会と同様に、盲学校が職業教育(三療)の先頭に立って牽引していたのです。

 5 福祉作業所と盲学校
 平成25年4月1日から「障害者自立支援法」が「障害者総合支援法」へと移行されるとともに、障害者の定義に難病等が追加され、平成26年4月1日から重度訪問介護の対象者の拡大、ケアホームのグループホームへの一元化などが実施されました。福祉サービスは、通所サービス(就労継続支援A・B型、生活介護等)居住サービス(グループホーム等)に再編整備されました。

 振り返って、昭和40~50年代(1970~80)は障害児者の福祉や労働に係る法制度が未整備な段階でした。当時、全国の盲学校では高等部重複障害生徒の進路先が一部の施設に限られ、卒業後の在家解消が大きな課題でした。当時は作業所等の福祉施設が少なく、視覚障害者が入所できる機会に恵まれないケースが多かったのです。そこで、盲学校の保護者・教職員・卒業生が施設建設に立ち上がったのです。地元、新潟市江南区の「のぎくの家」をはじめ、現在では社会福祉法人として大組織となった福井県鯖江市の「光道園」や同千葉県四街道市の「ルミエール」など、当初は盲学校関係者の小さな力の集まりでしたが、次第に地域の理解・支援を得て、現在では安定した施設運営がなされています。 

Ⅴ 文化・スポーツ
  <文化>
 1 点字図書館
 現在の新潟県点字図書館(ふれあいプラザ内)のはじまりは、中越盲唖学校教員であった姉崎氏によるところが大きく、研究者によれば、わが国最初の点字図書館の可能性が高いといわれています。その後、当校内に設置されたり、県立移管後は当校校長が館長を兼務したりするなど盲学校とともに歩んできた歴史があります。
 大正 9年12月 中越盲唖学校教員(現:柏崎市)の姉崎惣十郎氏が自宅で「姉崎文庫」を開設する。
 大正14年10月 「姉崎文庫」新潟県盲人協会に引き継がれる
 昭和20年 4月  点字図書館が新潟県立新潟盲学校盲学校内に移転される
 昭和33年 4月 任意団体盲人福祉協会立の点字図書館が新潟県に委譲され
   同時に、新潟県立新潟盲学校(新潟市金鉢山)隣接地に移転し、塚本校長が点字図書館長を兼務する
 昭和44年 4月   点字図書館が新潟市川岸町一丁目に新設・移転される
 平成 9年 3月   点字図書館、新潟ふれ愛プラザ(亀田町向陽)内に移転
                           ~ 以下略 ~ 

 2 点字にいがた
 点字にいがたは、新潟県施策の広報を目的に、昭和44年(1969)第1号が発行されて以後、本年夏号で第253号となりました。現在は、編集・印刷を新潟県視覚障害者福祉協会が担当していますが、点字印刷が普及していなかった昭和の時代は、当校で点字印刷され配付されていました。亜鉛板を二つ折りにし製版機で点字を打ちます。折られた亜鉛板の間に点字紙を挟み点字印刷機と呼ばれる2つのローラーの間を通すと点字が打ち出される仕組みです。 その後、広報は「県民だより」となり、平成4年(1992)には点字版とともに音声版の「ボイスにいがた」も発行されるようになりました。当校は毎号「教育の窓」欄に新潟盲学校の様子や児童生徒の作文などを掲載しています。

 3 全国盲学生短歌コンクール
 コンクールは、岐阜盲学校高等部生徒会の主催で実施され、平成26年度で第58回を迎えます。目的は、短歌を通じて豊かな感性を育て、同じ境遇におかれた盲学生相互の心の交流を図ることです。全国盲学校の児童生徒からたくさんの応募があります。新潟県視覚障害者福祉協会では、例年秋に視覚障害者文化祭が開催され、その場で俳句・短歌の表彰がおこなわれています。今年で64回を迎えますが、伝統を築いたのは全国盲学校の教育です。当校も例外ではなく、戦前から俳句・短歌の指導に力を入れ、盛んに詠まれました。昭和30年代の当校「PTAだより」にも生徒や職員の作品が掲載されています。

  <スポーツ>
 4 グランドソフトボール(盲人野球)
 盲学校でおこなわれる野球、現在のグランドソフトボールのルーツについては、よく分かっていません。伝えられているところによると、昭和の初め頃(1926頃)今から約90年前、すでに各地の盲学校の体育の時間や放課後に行われていたようです。ただし、当時野球は、今のようにしっかりルールがあるものでなく「投げて、転がす」単純な遊びに近い野球だったようです。その後、改良され現在のルールに近いものとなりましたが、第二次大戦で中断します。戦後、盲学校生の間にも野球熱が高まり、昭和26年(1951)7月点字毎日創刊30周年を記念して、第1回全国盲学校野球大会が大阪府立盲学校グランドで開催されました。昭和42年から平成8年まで中断されましたが平成9年から再開され、平成18年度第21回の新潟大会を数えるまでになり、ルールも整備されました。こうして盲学校を中心として行われていた盲人野球は、盲学校の生徒だけでなく、卒業生にも浸透し、国体後に開催される全国障害者スポーツ大会の正式種目となり、各地において社会人チームが結成され、地区大会が開催されるようになりました。このように盲学校が築き上げてきた伝統を、これからも継承してほしいものです。

 5 柔 道
 わが国発祥の柔道や相撲は、盲学校では大正時代から遊びとして取り入れられていました。競技としては、昭和30年代から盲学校で指導されてからです。戦後、中学校で武道が授業で取り上げられるようになり盛んになりました。当校でも昭和30年代から課外活動として「柔道部」が創部され、北信越盲学校柔道大会で幾度も優勝しています。現在は、中高等部の体育授業で柔道の指導がおこなわれていますが、残念なことに北信越盲学校柔道大会は出場者減少により平成17年度で中断しています。盲学校での柔道経験をもとに、日本視覚障害者柔道連盟が主催する全国大会が毎年開催され、国際大会ではパラリンピックの競技種目となっています。視覚障害者柔道の特色は、競技規則で試合開始時(再開時含)に、対戦者同士が向かい合い、片手を相手の柔道着の袖、もう片手を反対側の襟をつかんでいることと、主審の始めの合図があるまで動くことが許されないことです。

 6 盲学校から始まった競技
 盲学校で考案され、改良された運動競技はたくさんありますが、紙面の都合で一部を紹介します。
(1)フロアバレーボール(盲人バレーボール) 北信越地区盲学校大会有
(2)サウンドテーブルテニス(盲人卓球)      北信越地区盲学校大会有
(3)全国盲学校通信陸上競技大会(単独・音源走、幅跳び、投てき競技)
(4)マラソン  日本盲人マラソン協会による各地の開催
(5)その他 現在、一部の盲学校でおこなわれているスポーツ
   ゴールボール、ブラインドサッカー、ブラインドテニス、スキー

【略 歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
 1995年 新潟県立高田盲学校教頭
 1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
 2002年 新潟県立高田盲学校校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校校長 

@新潟県立新潟盲学校
 http://www.niigatamou.nein.ed.jp/index.html

 

【後記】
 今回は、新潟県立新潟盲学校の小西明校長先生に、新潟盲学校が視覚障害児者の教育を担うと共に、福祉、労働、文化の牽引役として果たしてきた内容を時系列で紹介し、今後の盲学校(視覚特別支援学校)の在り方を展望して頂きました。膨大な資料を基に時間いっぱいの講演でした。長い歴史の中で盲学校の果たしてきたお仕事を拝聴し、まさに盲学校が我が国の視覚リハビリテーションの一翼を担ってきたのだということを理解しました。 

 小西先生は、前回平成24年1月は新潟盲学校の学校要覧をもとに、在籍者数、教職員数、眼疾患、教育内容、学校行事等について概観して下さいました。
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 参考 報告 第191回(12‐01月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
 演題:「新潟盲学校の百年 ~学校要覧にみる変遷~」
 講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
  日時:平成24年1月11日(水)16:30 ~ 18:00
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
 http://andonoburo.net/on/3324

 

2014年12月5日

演題:「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
講師:岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程2年) 
 日時:平成26年11月5日(水)16:30 ~ 18:00 
 場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要約】
 私は1999年6月、小学校3年生の時に1型糖尿病を発症し、以来15年間毎日インスリン注射をしています。1型糖尿病とは、体内からインスリンというホルモンが分泌されなくなり、エネルギーが作られなくなる病気です。そのため、食事の前などに注射をして自分でインスリンを補う必要があります。このインスリンの調整が非常に難しい病気ですが、発症当時の主治医が「インスリン注射をしていれば、なんでもできるよ」と言う言葉をくれました。その言葉通り、病気とうまく付き合いながらバスケ、スキー、マラソンと様々なことに挑戦してきました。そして、病気になったおかげでたくさんの仲間ができました。特に同じ病気の仲間は大切な存在です。 

 新潟小児糖尿病キャンプという、1型糖尿病の子供が集まるキャンプに参加した時、そこでできた友達が「私は給食の前に教室で注射をしているよ」と話してくれました。それまで人前で注射をすることができず、自分の病気を友達に話すなんて考えられなかった私にとっては、衝撃的でした。この話を家に帰って両親に話し、両親が学校にも伝えてくれたおかげで、私も教室で注射をすることになりました。クラスの友達に自分の病気を話した後、友達から言われたのは、「話してくれてありがとう」という感謝の言葉でした。自分が協力をお願いしたのに感謝されるとは思いませんでした。驚いたのと同時に嬉しかったです。それが、私が最初に病気を人に話したときでした。このおかげで友人や両親の温かさに気付くことができました。 

 大学では、アルバイトに旅に、新しい世界を知ることが楽しくなっていきました。そんな時、世界一過酷と言われる砂漠マラソンに挑戦するという先輩の話を聞きました。アタカマ砂漠は南米のチリにあり、平均標高2000m、世界で最も乾燥している地域、昼夜の気温差は40度という環境。そんなところを、食料など自分の荷物は自分で背負い、テント泊をしながら7日間かけて250km走るのがアタカマ砂漠マラソンです。これを聞いた瞬間、「面白そう!」と思い、挑戦を決めました。 

 挑戦を決めてから本番まで、様々な準備と対策を講じました。あのときはがむしゃらでしたが、今考えると「人に話す」「自分にできることをやる」ということを繰り返していました。 

 特に私は1型糖尿病を持っているため、病気のない人よりも多くの準備をしました。具体的には、インスリンの保冷、血糖値変動の細かい観察、食べ物の準備です。インスリンの保冷はアウトドアメーカーの方に相談してタンブラーを用いる保冷方法を考えてもらい、それを薬科大学の教授に相談して温度変化を検証してもらいました。血糖値変動の細かい観察は、新潟大学病院の小児科の先生に相談して、CGMという機械を借りました。これは、5分おきに血糖値を自動で測る装置です。走っているときや、夜中の血糖値の変動も観察できます。これによって走った日の血糖値の変動とそれに対するインスリン量の調整の対策をとりました。食事については、砂漠マラソン経験者や同じ病気のランナーからアドバイスをもらってそれを参考にしました。 

 繰り返しになりますが、こうして挑戦を決めてから本番を迎えるまでは、とにかく「人に話す」「自分にできることをやる」という、小さなことを繰り返しやり、一つ一つ解決しながら進んで行きました。 

 そうして迎えた本番も、小さな1歩の積み重ね、30cm足を前に出すことの繰り返しでした。過酷なマラソンなだけに体験したこともない巨大な足のまめや、重たい荷物を背負うことで生じた肩の痛みとの戦いでもありました。しかし、辛いことだけではなく心が震えるような感動もたくさんありました。目の前に広がる景色は、今まで見たことがないものばかりで、どこまでも続く山脈に巨大な砂丘に突き抜けるような青い空。そして同じゴールを目指す世界中のランナーとの交流も楽しかったし、多くの勇気をもらったおかげで前に進むことができました。諦めず、ただひたすら一歩一歩足を前に出す。その繰り返しで、250kmを完走することができました。 

 このマラソンから学んだこと、それは自分を信じることの大切さと大変さです。人から何を言われても、自分を信じ、ポジティブに考えることで、強い気持ちを持つことができました。しかし、ひとりでは決してこれを続けることができず、応援してくれる人多くの人の支えによって頑張ることができました。自分は1人じゃないということがどれだけ心強いことか、実感しました。 

 「ちょっと言ってみよう」、と人に話して、協力してもらう。「ちょっとやってみよう」、とできそうなことから始めてみる。全て小さな一歩の積み重ねでした。そして何よりも、「病気という難が有ることは、私にとって有難いことだ」と気付き、何事にも感謝の気持ちを持とうと思うようになりました。

 【略 歴】
 1990年 長野県生まれ 新潟県妙高市育ち
 1999年 1型糖尿病発症
 2009年 新潟県立高田高校卒業
 2013年 アタカマ砂漠マラソン(Atacama Crossing 2013)完走
      新潟大学卒業
 2014年現在 新潟大学大学院修士課程2年 

[参 考]
社会人になったら、もっといっぱいレースに出たい!
 http://runport.jp/runner_okada-998.html
アタカマ・マラソン ムービー
 https://www.facebook.com/video.php?v=678209355558261&set=vb.409871089058757&type=2&theater
糖尿病でも何でもできるっていうのは本当にそうだと思います Ⅰ型ひろば
 http://www.dm-town.com/iddmpark/voice6.html 

【後 記】
 メモを取る手が忙しい講演、キーワード満載でした。
  逆境が機会である。ネガティブにとらえるのではなく、ポジティブに置き換えると、自分自身の大きな力となってくる。
  出来ない理由もたくさんある。出来る理由もたくさんあるはず。
  ちょっと言ってみよう。ちょっとやってみよう。
  非日常の中でも、やっていることは日常の繰り返し。
  走れない時は歩け、歩けない時は笑え。
  難が有ることは、有難いこと。
  いつも感謝の気持ちを忘れずに。。。。。 

 いつも感じることがあります。何かを成し遂げる人は元気(覇気)がある。周りの人も明るくする。岡田さんを見ていると正にそのような人だなと思います。もちろん彼女の人生はこれで終わりでなく、これからなのですが。
 来年は、いよいよ社会人。岡田果純さんの今後の活躍を祈念しております。 

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【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長) 

平成27年1月14日(水)16:30~18:00
 第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員) 

平成27年2月4日(水)16:30~18:00
 第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 大石華法(日本ケアメイク協会) 

平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室(予定)
 『済生会新潟第二病院眼科「細井順講演会」』
 演題:生きるとは…「いのち」にであうこと
     ~死にゆく人から教わる「いのち」を語る~
 講師:細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江市) 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長) 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
  ―『慢性眼科患者』の経験から私が学んだこと」
 阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員(社会福祉士))

 

2014年11月12日

 演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 講師:若倉雅登 (井上眼科病院;名誉院長)
  日時:平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

【講演要約】
 眼の病気と言えば、ドライアイや白内障、緑内障、加齢黄斑変性など、メディアなどで聞きなれた眼の疾患を思い起こす人が多い。だが、眼科の領域は実は非常に広い。神経眼科、心療眼科を専門として40年近く診療を続けてきた中で、快適な視覚を得るためには、眼球と脳、とりわけ高次脳機能との精緻な共同作業が必要なことを学んだ。しかも、左右眼のバランスは、その機能を発揮する上で非常に大切で、逆にアンバランスは眼精疲労の原因になるだけでなく、日常視、日常生活に甚だしい支障をもたらし、時には心の問題も惹き起こす。 

 眼はものを見る器官だから、一般人も眼科医も「目」といえば「視力」のことばかり考える。だが神経眼科のフィルターを通してみると、左右眼の視力がいかに良好であっても、見ることに不都合が起こる可能性のある病態が沢山あり、多くが見落とされてきたことに気付く。 

 快適な日常視とは、必ずしも視力や視野だけでは語れないものである。 眼科で測定する視力や、視野は非常に理想的な環境で測っており、日常生活で使っている視機能、つまり実効視機能を反映しているとは限らないことに思いを致すべきである。 

 たとえば、「かすむ・ぼやける」といえば、一般の眼科医は眼球そのものに存在する病気を考えるが、私の視点だと、調節・輻輳、両眼視機能など高次脳機能の障害が頭に浮かぶ。「しょぼしょぼする」「眼が痛い」と言えば、普通はまず角膜や結膜、涙器などの疾患を考えるが、私は神経薬物(とくに睡眠導入剤や安定剤として多用されるベンゾジアゼピン系の薬物)の副作用や、「眼瞼痙攣」という開瞼が自在にしにくく眼は正常でもうまく使えず、それだけでなく眼や眼周囲にまぶしさや不快感が出現する脳の神経回路の故障が原因となる病気が隠れていないかと気になる。 ちなみに、この眼瞼痙攣という疾患は決して珍しいものでないが、大抵ドライアイと誤診されている。 

 両眼で見るとものがふたつに見える「複視」には、脳内病変や、眼球を動かす脳神経や筋肉の病気を考え、多くの眼科医は脳外科などに送って脳の画像診断を試みるが、もしその患者が、日本人に多い強度近視で、かつ「遠方のものが二つに見える」のであれば、私たちのグループが見つけた「眼窩窮屈病」(Kohmoto et al:Clin.Ophthalmol5.5-11.2011,若倉:臨床眼科 67:1458-63,2013)の存在を考えるべきである。このように少し見方を変ずれば、視力検査などでは気付かない原因の視覚の不都合が、我々の周囲に少なからず潜んでいる。 

 さて、医師が求める医療と患者が求める医療は、同じように見えて必ずしも同じではない。医師は病を医学的に考えて治療する。医師にとって患者の自覚症状は、診断するための手がかりではあるが、患者が一番治してほしいのは日常生活に支障をきたす自覚症状であることを忘れやすい(拙著:三流になった日本の医療PHP研究所、2009)。 

 私は臨床に携わった約40年の間に、教科書の記載として残るだろう疾患や病態を見つけてきた。難しいことではなく、なぜ、これまで医師が気付かなかったのだろうと思うようなことばかりだ。副腎ステロイドによる中心性漿液性網脈絡症、睡眠導入剤による眼瞼痙攣の発症、眼瞼痙攣の軽症例への認識、眼窩窮屈病の存在、レーベル遺伝性視神経症では対光反射が良好であり、中心耳側(もしくは耳上側)の感度低下からはじまる臨床像の特徴を見出したことなどである。 

 いろいろな眼や脳の病態のために、見え方の左右差が大きすぎたり、治療をしても代償できない複視に、積極的に単眼視を導入することで、患者の辛い日々を半分程度は改善させられることにも気づいた。 見え方の左右差や複視は「耳鳴り」ならぬ「目鳴り」を発生させ、日常視が苦しく、ひいては日常生活に大きな苦痛を与えるからである。これは、これまでなぜか、どの眼科医も関心を示さず、実行されてこなかったことである。 

 臨床現場における私のスタンスは、①常識や教科書にとらわれず常に患者の愁訴や所見から学ぶ、②患者の実感に思いを致しながら、相手の話を傾聴し、③視力視野にとらわれず実生活での視機能(見え方や眼の使い心地)を重視するというものである。そして、④判らないことは判らないと正直にいうものの、自分はこう考えるという「見立て」も必ず添えて、患者さんとともに、治療や対策を考える。 そのことで、今日の医学では十分治せない疾患や病態に対しても「医師は患者の最大の味方」であることを少しでも実現させたいとの気持ちで、やっている。「見立て」とは随分と古めかしい言葉だが、患者医師関係をしっかり築いてゆくには必要なことである。 

 少しだけ自慢するのを許していただけるなら、そういう私の虚心坦懐に、目線を低くして患者の訴えに耳を傾ける姿勢でこそ、上記のような成果を得ることができたのだと思う。 

 今、ロービジョンという概念の中には、視力低下や視野の異常は存在するが、本日私が挙げたような両眼視や中枢性視覚障害は入ってこない。患者の立場でみると、後者のような病態も視力視野の異常をきたす疾患と同等か、それ以上に生活の質を落としている。 私はそういうものをも含めて「Visual handicap」という概念を導入したいと提案する。Visual handicapを伴う方々の眼科的、精神的ケアこそ「眼の愛護」と呼びたいのである。 

 

【略歴】 若倉雅登(わかくらまさと) (2014年4月現在)
 1976年3月 北里大医学部卒
 1980年3月 同 大学院博士課程終了
 1986年2月 グラスゴー大学シニア研究員
 1991年1月 北里大医学部助教授
 1999年1月 医)済安堂 井上眼科病院 副院長
 2002年1月 医)済安堂 井上眼科病院 院長
 2012年4月 医)済安堂 井上眼科病院 名誉院長
 ほかに現在:北里大学医学部客員教授、東京大学医学部非常勤講師
 日本神経眼科学会理事長、日本眼科学会評議員など


 

【後記】
毎年、10月の勉強会は「眼の愛護デー」に関したお話を眼科医にお願いしています。今回も素晴らしい講演を拝聴できました。
目の病気というと視力ばかりが話題となりますが、視力が良くても不自由を感じているものも少なくありません。そうした不自由をお聞きすることは簡単なことではありません。また理解できない訴えを聞き続けることは、実は結構しんどいことです。
「医学では十分治せない疾患や病態に対しても『医師は患者の最大の味方』であることを少しでも実現させたい」との言葉には重みを感じます。今回の勉強会で、一番勉強になったのは誰でもない、実は私ではなかったかと思っています。

 

【次回以降の済生会新潟第二病院眼科 勉強会 & 研究会】
平成26年12月10日(水)16:30~18:00
 第226回(14‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 ~盲学校が果たした役割~」
 小西 明(新潟県立新潟盲学校 校長) 


平成27年1月14日(水)16:30~18:00
 第227回(15‐01月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障がい者としての歩み~自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
 青木 学(新潟市市会議員)
 

平成27年2月4日(水)16:30~18:00
 第228回(15‐02月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の化粧技法について~ブラインドメイク・プログラム~」
 大石華法(日本ケアメイク協会)
 

平成27年2月28日(土)15時開場 15:30~17:00
 会場:済生会新潟第二病院 10階会議室(予定)
 『済生会新潟第二病院眼科「細井順講演会」』
演題:生きるとは…「いのち」にであうこと~死にゆく人から教わる「いのち」を語る~
講師:細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;滋賀県近江市)
 

平成27年3月11日(水)16:30~18:00
 第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
 岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長)
 

平成27年4月8日(水)16:30~18:00
 第230回(15‐04月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
 演題未定
 阿部直子(アイサポート仙台)

2014年10月10日

済生会新潟第二病院眼科勉強会は、毎年10月は眼科の先生をお招きして、「目の愛護デー記念講演」を開催しています。

目の愛護デーの起源が記されている『明治天皇聖徳記念碑』(新潟市)
http://andonoburo.net/off/1790

 

「目の愛護デー記念講演会 2013」
  (第212回(13‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
   演題:「眼科医として私だからできること」
   講師:西田 朋美 
     (国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部 眼科医長)
    日時:2013年(平成25年)10月9日(水)16:30 ~ 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
  http://andonoburo.net/on/2600

 

 「目の愛護デー記念講演会 2012」
  (第200回(12‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
   演題:「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」  
   講師: 岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
    日時:2012年(平成24年)10月10日(水)17:00 ~ 18:30 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
  http://andonoburo.net/on/2595

 

 「目の愛護デー記念講演会 2010」
  (第174回(10‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
   演題:「今昔白内障治療物語」
   講師:藤井 青 (新潟県眼科医会会長、前新潟市民病院眼科部長)
    日時:平成22年8月11日(水)16:30~18:00  
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  http://andonoburo.net/on/2589

 

 
 「目の愛護デー記念講演会2009(公開講座)明日の眼科を考える新潟フォーラム」 
  特別講演
   1)「人工の眼は可能か?」 
       仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター病院) 
   2)「網膜色素変性とiPS細胞」
      高橋 政代 (理化学研究所)
  シンポジウム「明日の眼科を考える」
    司会: 西田 朋美 (国立障害者リハビリセンター病院) 
        安藤 伸朗 (済生会新潟第二病院)
    シンポジスト
        田中 正四 (新潟県胎内市;患者)
        清水 美知子 (埼玉県;歩行訓練士)
        川瀬 和秀 (岐阜大学;眼科医)
    コメンテーター
        高橋 政代 (理化学研究所)
        仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター眼科) 
     日時;2009年(平成21年)11月21日(土)14時30分~18時00分
     場所;済生会新潟第二病院 10階会議室
     主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2577

 

 

 「済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2008(細井順 講演会)」 
  (第144回(08‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
   演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
   講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
    日時:2008年(平成20年)2月23日(土) 午後4時~5時半
    場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2573

 

 「目の愛護デー記念講演会(市民公開講座)2007」
  特別講演 
   「見えているからといって安心できない眼の病気」
     櫻井真彦(埼玉医科大学総合医療センター教授;眼科) 
  シンポジウム 
   「患者として思うこと 看護師として思うこと」
     稲垣吉彦(患者;有限会社アットイーズ 取締役社長、千葉県)
     荒川和子(看護師;医療法人社団済安堂 井上眼科病院、東京)
   日時:平成19年11月11日(日) 10時~12時半
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
   主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2556

 

 

 「目の愛護デー記念講演会(市民公開講座)2006」
  「失明の体験と現在の私」 
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
  「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」 
    西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
    日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
    場所:済生会新潟第二病院10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2552

 

 

 「目の愛護デー記念講演会(市民公開講座)2005」 
  「40歳からの眼の健康」 
    安藤伸朗 (済生会新潟第二病院眼科)
  「ホスピスで生きる人たち」 
    細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
    期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
    場所:済生会新潟第二病院10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2548

 

 

 「目の愛護デー記念講演会 2004」
   演題:『眼の話』 
   講師:藤井 青 (新潟医療専門学校教授;前新潟市民病院眼科部長)
    期日:2004年10月13日(水) 17時~18時
    場所:済生会新潟第二病院 10階 会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2535

 

 

 「目の愛護デー記念講演会 2003」
  (第89回済生会新潟第二病院眼科勉強会)
   演題:「なんでだろう目の病気(あなたの疑問に答えます)」
   講師:今井済夫(長野県眼科医会理事、長野県上田市)
    日時:2003年10月8日(水) 18:30~19:30
    場所:済生会新潟第二病院 玄関ホール
    主催:済生会新潟第二病院眼科

 

 「目の愛護デー記念講演会 2002」
   演題:「失明予防のためにー緑内障を中心にしてー」
   講師: 岩田和雄 (新潟大学医学部名誉教授 眼科学)
    日時: 平成14年10月10日(木) 17:00~18:30
    場所: 済生会新潟第二病院 10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科

2014年10月9日

 演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
 講師:若倉雅登 (井上眼科病院;名誉院長)
  日時:平成26年10月8日(水)17:00 ~ 18:30 
  場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 

毎年10月の勉強会は、眼科の先生をお招きして、「目の愛護デー記念講演」を開催しています。今回は若倉雅登先生(井上眼科病院 名誉院長)に講演して頂きました。
(本速報版は、私の講演のメモを基に作成したものです。後日、若倉先生に講演要約を執筆して頂き報告する予定です)

 【講演要旨】
 「目の愛護デー」が近くなると、「目を大切に」「視力を大切に」といった標語が目につくようになる。眼球の構造やそこに生じる、ドライアイや白内障や、緑内障など、聞きなれた眼の疾患を思い起こす人も多いだろう。眼科の領域は実は非常に広い。神経眼科、心療眼科を専門として40年近く診療を続けてきている中で、快適な視覚を得るためには、眼球と脳の精緻な共同作業が必要なことを学んできた。しかも、左右眼のバランスは、その機能を発揮する上で非常に大切で、逆にアンバランスは眼精疲労の原因になるだけでなく、日常視、日常生活に甚だしい支障をもたらし、高度な場合には心の問題も惹き起こす。ここには左右眼それぞれの視力がいかに良好でも起きる可能性のある問題が存在し、「目」というと、「視力」のことばかり考える眼科医や、一般人にとっては大きな落とし穴となる。このような例は、決して珍しいことではなく、不都合の原因として気付いてないだけのことが多い。 

 視力・視野に異常がある場合は、視覚障害者として法律に基づいて、保護・ケアされるが、左右眼のアンバランスや高次脳機能障害などは、多くの場合周囲の人には理解されない。眼科医が理解してあげなければならない。 

 視覚情報は、眼球から視路を経て視覚中枢の後頭葉へ、その後は2通りの経路を経て前頭葉に行く。一つは、空間視として頭頂視覚路(whereどこ)、もう一つは、物体視として側頭視覚路(whatなに)。こうしたシステムを用いて「見る」→「笑う」の反応となる。「見る」ためには、眼は眼球運動により絶えずスキャンしている。「見たいもの」を」見つけると、注目attention⇒調節、、、瞳孔も反応して連動する。こうした分野を学問するのが神経眼科。 

 医師が求める医療と患者が求める医療は、必ずしも同じではない。医者は病を医学的に考えて治療する。患者の自覚症状は、診断するための大事な部分ではあるが治すべきは医学的に捉えられている病気、。患者が治して欲しいのは困っているもの(自覚症状)[三流になった日本の医療(2009、PHP研究所)]。 

 一般の眼科では、視力・眼圧や視野の異常を呈する「病気」を治すが、神経眼科・心療眼科では、眼球と脳の共同作業の異常を診る。愁訴が非常に大事なものとなる。「かすむ・ぼける」調節・輻輳、両眼視機能。高次脳機能障害。「複視」核上・核間・核下、外眼筋、機械的(眼窩腫瘍・甲状腺障害・眼窩吹きぬけ骨折)これらの他に「眼窩窮屈病」(強度近視眼;固定内斜視に至る前の段階;Kohmoto:Cli.Ophthalmol5.5-11.2011若倉:臨床眼科2013)(注1)。「眼瞼けいれん」(1911)女性に多い。運動障害・感覚過敏・精神症状。ボツリヌス毒素で著明に改善。睡眠導入剤、特にベンゾジアゼピン(BZ)(注2)が原因となること多し。海外ではBZの長期連用を禁じているが、日本では野放し。睡眠導入剤常用者は、認知症になる確率が1.5~3.5多いことも報告されている(Billioti de Gage S BMJ2012)(注3)。「中枢性羞明」(注4)PET-CTで診断可能。 

 臨床現場におけるスタンス~①常識にとらわれず常に学ぶ、②患者さん目線で、③相手の話を聞く傾聴、④視力視野にとらわれず実生活での視力を重視、⑤判らないことは判らないというが、見立ても添える、⑥患者さんの立場で考える。 

 ロービジョンという概念の中に両眼視や中枢性視覚障害も含めた、「Visual handicap」という概念を導入したい。Visual handicapを伴う方々の精神的ケアを眼の愛護と呼びたい。 
 

注1:「窮屈病」
http://www.painnavi.com/eye011.html 

注2:ベンゾジアゼピン系睡眠薬
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~yakujou/memo/bz_suimin.html 

注3:睡眠導入剤常用者は、1.5~3.5倍認知症になり易い
Benzodiazepine use and risk of dementia: prospective population based study.
Billioti de Gage S, Bégaud B, Bazin F, Verdoux H, Dartigues JF, Pérès K, Kurth T, Pariente A.
BMJ. 2012 Sep 27;345:e6231. doi: 10.1136/bmj.e6231.
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23045258

注4:中枢性羞明
・本態性眼瞼痙攣:視床の活動亢進,上丘の活動抑制、・三叉神経痛、・片頭痛、・脳圧亢進・外傷そのたの頭蓋内病変、・同名半盲(後頭葉損傷)
http://www.med.teikyo-u.ac.jp/~ortho/med/pat/patho2-12.html

 

若倉雅登先生の著書
 目は快適でなくてはいけない(2005、人間と歴史社)
 目力の秘密(2008、同社)
 三流になった日本の医療(2009、PHP研究所)
 目の異常、そのとき(2010,人間と歴史社)
 健康は眼にきけ(2011, 春秋社)
 小説「高津川、日本初の女性眼科医右田アサ」(2012,青志社)
 絶望からはじまる患者力: 視覚障害を超えて(2013, 春秋社0)

@若倉先生のご尊父は、文芸評論家「進藤純孝」本名:若倉雅郎(まさお)。
https://kotobank.jp/word/%E9%80%B2%E8%97%A4%E7%B4%94%E5%AD%9D-1083177

 

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 【過去の済生会新潟第二病院眼科主催の「目の愛護デー講演会」】

 「目の愛護デー記念講演会 2013」
  (第212回(13‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
   演題:「眼科医として私だからできること」
   講師:西田 朋美 
     (国立障害者リハビリテーションセンター病院第二診療部 眼科医長)
    日時:2013年(平成25年)10月9日(水)16:30 ~ 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
  http://andonoburo.net/on/2600

 

 「目の愛護デー記念講演会 2012」
  (第200回(12‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
   演題:「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」  
   講師: 岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
    日時:2012年(平成24年)10月10日(水)17:00 ~ 18:30 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来 
  http://andonoburo.net/on/2595

 

 「目の愛護デー記念講演会 2010」
  (第174回(10‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
   演題:「今昔白内障治療物語」
   講師:藤井 青 (新潟県眼科医会会長、前新潟市民病院眼科部長)
    日時:平成22年8月11日(水)16:30~18:00  
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
  http://andonoburo.net/on/2589

 

 
 「目の愛護デー記念講演会2009(公開講座)明日の眼科を考える新潟フォーラム」 
  特別講演
   1)「人工の眼は可能か?」 
       仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター病院) 
   2)「網膜色素変性とiPS細胞」
      高橋 政代 (理化学研究所)
  シンポジウム「明日の眼科を考える」
    司会: 西田 朋美 (国立障害者リハビリセンター病院) 
        安藤 伸朗 (済生会新潟第二病院)
    シンポジスト
        田中 正四 (新潟県胎内市;患者)
        清水 美知子 (埼玉県;歩行訓練士)
        川瀬 和秀 (岐阜大学;眼科医)
    コメンテーター
        高橋 政代 (理化学研究所)
        仲泊 聡 (国立障害者リハビリセンター眼科) 
     日時;2009年(平成21年)11月21日(土) 14時30分 ~ 18時00分
     場所;済生会新潟第二病院 10階会議室
     主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2577

 

 

 「済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2008(細井順 講演会)」 
  (第144回(08‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会)
 
  演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
   講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
    日時:2008年(平成20年)2月23日(土) 午後4時~5時半
    場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2573
 

 

 「目の愛護デー記念講演会(市民公開講座)2007」
  特別講演 
   「見えているからといって安心できない眼の病気」
     櫻井真彦(埼玉医科大学総合医療センター教授;眼科) 
  シンポジウム 
   「患者として思うこと 看護師として思うこと」
     稲垣吉彦(患者;有限会社アットイーズ 取締役社長、千葉県)
     荒川和子(看護師;医療法人社団済安堂 井上眼科病院、東京)
   日時:平成19年11月11日(日) 10時~12時半
   場所:済生会新潟第二病院 10階会議室
   主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2556

 

 

 「目の愛護デー記念講演会(市民公開講座)2006」
  「失明の体験と現在の私」 
    西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
  「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」 
    西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院) 
    日時:平成18年11月11日(土) 16:00~18:00 
    場所:済生会新潟第二病院10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2552

 

 

 「目の愛護デー記念講演会(市民公開講座)2005」 
  「40歳からの眼の健康」 
    安藤伸朗 (済生会新潟第二病院眼科)
  「ホスピスで生きる人たち」 
    細井順 (財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長)
    期日:平成17年11月26日(土) 15時~17時
    場所:済生会新潟第二病院10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2548

 

 

 「目の愛護デー記念講演会 2004」
   演題:『眼の話』 
   講師:藤井 青 (新潟医療専門学校教授;前新潟市民病院眼科部長)
    期日:2004年10月13日(水) 17時~18時
    場所:済生会新潟第二病院 10階 会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科
  http://andonoburo.net/on/2535

 

 

 「目の愛護デー記念講演会 2003」
  (第89回済生会新潟第二病院眼科勉強会)
   演題:「なんでだろう目の病気(あなたの疑問に答えます)」
   講師:今井済夫(長野県眼科医会理事、長野県上田市)
    日時:2003年10月8日(水) 18:30~19:30
    場所:済生会新潟第二病院 玄関ホール
    主催:済生会新潟第二病院眼科

 

 「目の愛護デー記念講演会 2002」
   演題:「失明予防のためにー緑内障を中心にしてー」
   講師: 岩田和雄 (新潟大学医学部名誉教授 眼科学)
    日時: 平成14年10月10日(木) 17:00~18:30
    場所: 済生会新潟第二病院 10階会議室
    主催:済生会新潟第二病院眼科