2013年9月20日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会
  (共催:新潟ロービジョン研究会)講演要旨 招待講演
「網膜色素変性、治療への最前線」
 山本修一 (千葉大学大学院医学研究院教授 眼科学) 

 2013 年6月23日(日)
 チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間 

【講演要旨】
 網膜色素変性は長らく「不治の病」とされてきたが、この数年で研究が急速に進み、多くの研究が動物実験から実際の患者を対象とした臨床試験に発展し、網膜色素変性の治療が現実のものとなりつつある。 

 網膜色素変性の原因は網膜の視細胞の遺伝子異常であり、この遺伝子がコードするタンパク質の異常が生じる。そして視細胞の変性から細胞死(アポトーシスまたはネクローシス)に至り、最終的には視細胞が消失して完全な網膜変性に至る。このような病気の各段階に応じて治療戦略が考えられている。すなわち、①原因となる遺伝子異常に対する「遺伝子治療」、②視細胞の変性から細胞死に至る過程を抑える「網膜神経保護」、③消滅した網膜視機能を再建する「人工網膜」と、④「網膜の再生および移植」に大別される。このうちの遺伝子治療、網膜神経保護、人工網膜について、実際に臨床試験が行われているものに限って紹介する。 

 遺伝子治療は、網膜色素変性の特殊型であるレーベル先天盲における成功が、世界的に華々しく報じられた。同じRPE65遺伝子異常を持つイヌに対する治療の成功を受けて臨床試験が行われ、RPE65遺伝子を網膜下に注入したすべての患者で視機能の改善が得られた。これは画期的な成果ではあるが、残念ながら直ちにすべての色素変性に応用可能なわけではない。まず原因遺伝子の特定が必要だが、色素変性の遺伝子は多岐に渡り、未だに新しい遺伝子の発見が続いている。また原因遺伝子を特定可能なのは、日本人患者では30%程度と推測されている。さらに原因遺伝子が特定されても、それぞれの遺伝子について治療の安全性や効果の検証が必要となるだろう。 

 神経保護では、米国における毛様体神経栄養因子(CNTF)の臨床試験が進行中であり、視機能の維持、視細胞数の減少抑制が確認されている。ヒトの網膜色素上皮細胞にCNTF遺伝子を導入して持続的にCNTFを産生するように改良し、この細胞を特殊なカプセルに詰めて、カプセルを眼内に埋植する。カプセルに守られた細胞は免疫系の攻撃に晒されることなく、長期にわたってCNTFを眼内に放出し続ける。網膜色素変性のみならず萎縮型加齢黄斑変性も臨床試験の対象となっているが、日本で臨床試験が行われる目途はたっていない。 

 0.15%ウノプロストン(オキュセバR)点眼液による神経保護の試みは、日本オリジナルのものである。本来は緑内障治療薬として開発された薬剤であるが、神経保護効果も併せ持つことが見出され、網膜色素変性を対象に臨床試験が行われた。当初は視機能悪化の抑止が期待されたが、実際には高濃度投与群で網膜感度の上昇がみられ、プラセボ群との間に有意な差が観察された。この結果をもとに、180例を対象とした52週間の第3相臨床試験が開始され、症例のエントリーは順調に進んでいる。 

 人工網膜は、米国で開発されたArgus IIがすでに米国と欧州で医療機器としての承認を受け、実際に患者への移植が行われている。電極が60個と限られているため視力に限界はあるが、先行する欧州からは臨床報告が相次いでいる。ドイツで開発された人工網膜は、1500個の電極あるため解像度に優れ、サイコロの目の数や向かい合った人の表情も判別できると報告されている。日本では大阪大学のグループが、強膜内に埋め込む人工網膜の開発を進めている。 

 これらの治療法は、直ちにすべての患者に適応可能というわけではないが、網膜色素変性の治療はもはや夢物語ではなく、間近に見える明るい希望の光であることは間違いない。

【略歴】
 1983年 千葉大学医学部卒業
 1989年 千葉大学大学院医学研究科修了
 1990年 富山医科薬科大学眼科講師
 1991年 コロンビア大学眼研究所研究員
 1994年 富山医科薬科大学眼科助教授
 1997年 東邦大学佐倉病院眼科助教授
 2001年 東邦大学佐倉病院眼科教授
 2003年 千葉大学大学院医学研究院眼科学教授
 2007年 千葉大学医学部附属病院副病院長併任
 2008年 日本網膜色素変性症協会(JRPS)副会長

2013年9月17日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会
(共催:新潟ロービジョン研究会)
講演要旨 招待講演
「iPS細胞を用いた網膜再生医療」

 高橋 政代(理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター
                          網膜再生医療研究プロジェクト プロジェクトリーダー)

 2013 年6月23日(日)
 チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間

【講演要旨】
 昔から眼は様々な新しい治療が最初に導入される場である。臓器移植としては角膜移植が腎臓移植と並んで始まり、人工レンズは早くから最も成功した人工臓器の一つである。また、網膜色素変性の遺伝子治療も一定の成功を納めている。加齢黄斑変性に抗VEGF剤が効果をあげているが、これは抗体医薬の最初の成功例である。そして、今、iPS細胞を用いた細胞治療も網膜で初めて行われようとしている。 

 2006年にマウス皮膚の線維芽細胞に4つの遺伝子を入れることでシャーレの中で無限に増えて、一方で身体中のあらゆる細胞を作ることができるiPS細胞(人工多能性幹細胞 induced pluripotent stem cells)が発表された。その1年後にはヒトのiPS細胞も作成された。それまでにES細胞(胚性幹細胞Embryonic Stem cells)から作った網膜色素上皮細胞を網膜疾患治療に応用できることを示していた我々は、ES細胞と同じ性質を備え、しかも拒絶反応を回避できるiPS細胞にとびついた。 

 そして6年の臨床への準備を経て、2013年8月に臨床研究に関与する3機関の倫理委員会と厚生労働省の審査で承認を得て世界で初めてのiPS細胞を用いた臨床研究が開始となった。具体的には加齢黄斑変性という網膜色素上皮細胞の老化によって引き起こされる疾患で、網膜の中央部(黄斑)が障害されるため全体の視野は問題ないが、見ようとするところが見えない、視力が低下して字が読めなくなるという疾患である。網膜色素上皮の老化が原因で、網膜の裏側にある脈絡膜から新生血管が発生する。新生血管に対しては効果的な眼球注射薬が存在するが、高価な上に1、2ヶ月毎に治療しなければ再発をするため、治療を続けなくてはならない。そこで、老化し障害された網膜色素上皮を患者本人のiPS細胞から作った正常で若返ったRPEと置き換えることによって、その上の視細胞の層を保護する役目がある。 

 最初の臨床研究では2年間にわたって6名の患者を選び治療後1年間で効果を判定する。移植する細胞シートは様々な検査で安全性が確認されている。未知の予測不可能な危険はゼロとは言えないが、細胞よりも細胞を移植する手術、これは毎週眼科で施行されている手術とほぼ同様のものであるが、その手術の危険の方がはるかに大きいのである。放置すると失明につながるような合併症は、数パーセントで起こる事が知られている。これは、報道などからは伝わらない事実である。 

 また、なかなか伝わらないのは、この細胞治療の効果である。最初の臨床研究はあくまでこの治療の安全性、特に移植する細胞が腫瘍を作らないか、拒絶反応を引き起こさないかを明らかにする研究である。よって、効果のある治療であるかどうかは安全性が確認されてから次の問題である。もちろんある程度の効果は期待して臨床研究を行うが、それでも矯正視力は多くの場合0.1まで回復するのがやっとであろうと予測される。従って、自然と臨床研究に参加していただく方の矯正視力は0.1以下の方に絞られてくる。「再生」という言葉はもとどおりに回復するという意味が本義であるので、網膜の再生というとよく見えるようになるという印象を受けてしまうのは仕方ないことである。しかし、そのような期待で臨床研究に参加すると裏切られる事になり、網膜の再生医療は健全なスタートをきる事ができない。 

 報道の短い時間や字数制限の中で伝えられる情報は多くない。報道だけが情報源である場合は、どうしても誤解が大きいようである。重要なことは、複数の情報源をもち、事実をそのままに受け取ってもらう事。我々は、将来の再生医療の発展のためにそれを説明し続けなければならない。また、過剰な期待を抱くのは、その裏側に障害の解消だけが解決策と考え、その他の方向性をまったく模索しないという場合に多い。つまり、疾患の正しい情報を集め障害の現状を理解して甘受する「健全なあきらめ」(九州大学 田嶋教授)(*)が必要である。 

 また将来、網膜の細胞治療(再生治療)が成功したとしても、0.1程度の低視力に留まることが多いため、その状況で補助具などを使い有効に視機能を使える事が治療の効果を十分に引き出すために重要である。すなわち、どの分野でも同様であると考えられるが、再生医療とはリハビリテーション(ロービジョンケア)とセットで完成する治療である。 


(*)「健全なあきらめ」(田嶌誠一 九州大学教授)

    変わるものを変えようとする勇気 
       変わらないものを受け入れる寛容さ 
      そしてその二つを取り違えない叡智

 

【略歴】
 1986(S61)京都大学医学部卒業
 1986(S61)-1987(S62)京都大学付属病院眼科研修医
 1988(S63)-1992(H4)京都大学大学院医学博士課程
 1992(H4)-2001(H13)京都大学医学部眼科助手
 1995(H7)-1996(H8)米国サンディエゴ ソーク研究所研究員
 2001(H13)-2006(H18)京都大学附属病院探索医療センター開発部助教授
 2006(H18)- 理化学研究所 発生再生科学総合研究センター   
                                             網膜再生医療研究チーム チームリーダー
(組織改正による)理化学研究所 発生再生科学総合研究センター   
                                           網膜再生医療研究開発プロジェク リーダー

 

2013年9月14日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会 講演要旨 特別講演
「視覚障害者のこころのケア」
 山田 幸男(新潟県保健衛生センター・信楽園病院内科) 

 日時:平成25年6月22日(土)
 会場:チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間 

【講演要約】                     
1.目が不自由になると一度は死を考える
 目が不自由になるとそれが原因で、少なくとも2人に1人は死ぬことを考えます(文献1)。いや、「目が不自由になると、誰もが一度は死ぬことを考える」といったほうが正しいのかも知れません。パソコンや携帯電話など文字を頻繁に使う現在のような情報社会にあっては、目が不自由になると、仕事や日常生活が難しくなります。

 視覚障害者は生活行動や精神面で大きなハンディキャップを抱えながら、回復の見込みがないままに、また視力の残っている人は全く見えなくなるのではないかと不安を抱(いだ)きながら、生き続けなければなりません。がんなどの病気と違って、視覚障害の終点には“死”がないため、耐え切れなくなると、自分から死を選ぶのだと思います。

2.うつ病などこころに関連する病気が多い
 目の不自由な人には、うつ病をはじめ、すいみん障害、不安障害、パニック障害、過換気症候群など、こころに関連した病気を併発することが少なくありません。なかでも、うつ病は多く、かつ苦痛が大きいので見逃すことができません。最近晴眼の大人のうつ病患者が増え、5人に1人といわれています。目の不自由な人にはさらに多くみられます。

 私たちの調査では、目の不自由な人97名のうち、うつ病の人は23.7%(23名)、うつ状態の人は24.7%(24名)、ほとんど問題なしの人は51.6%(50名)でした(文献2)。この結果から明らかなように、目の不自由な人のほぼ半数はうつ病やうつ状態にあります。とくに女性や糖尿病の人に多いことが注目されます。

 そのみられる時期は、仕事や日常生活動作が困難になった時がもっとも多く、次いで病気の進行したとき、視覚障害の現われた時、見えなくなった時、などです。視覚障害が原因でおこるうつ病は、多くは大うつ病性障害の一つである反応性・症候性うつ病に含まれます。反応性・症候性の場合は、比較的短い期間でなおるともいわれ、私たちは次に述べるパソコン兼喫茶室がきわめて有効と考えています。

3.パソコン教室兼喫茶室はこころのケアにも有効
 私たちが開設して間もなく20年になるパソコン教室兼喫茶室が視覚障害者のこころのケアに役立つかを47名の利用者に聞いたところ、21.3%の人は大いに役立っている、76.6%の人は役立っていると答えていました。とくにこころが和む、元気が出る、などこころのケアに有効と考える人が多く、さらに友達作り、楽しむ場、また情報交換の場としても皆さん利用しています。パソコンの普及を兼ねた喫茶室は視覚障害者の自立に欠かせないため、県内10数か所にパソコン教室兼喫茶室を常設して、リハビリテーションに、またこころのケアの場として利用してもらっています。 

4.障害者は地域で治療を受けることを望んでいる
 多くの障害者、とくに高齢者は、長年住み慣れた地域社会でリハビリを受けたいと思っています。家族に囲まれながら、自分の座を確保しながら、リハビリテーシヨンを受けることを望んでいます。そのため家族と離れてまでして技術を身につけなくてもよいといいます。またリハビリテーションをやるような精神状態ではないことも無関係ではないようです。障害者医療は、本来、地域医療であるといわれています。ほとんどの視覚障害者は、できることなら家族と生活しながら通院でリハビリテーションをやりたいと考えています。

5.燃えつき症候群―家族にもこころのケアは必要
 視覚障害者とその介護にあたる家族は、対人関係や、期待・要求に必死に頑張ろうとする慢性的なストレスのために、身体的に、また精神的に、エネルギーの消耗した状態になりがちです。このような状態を、明るいろうそくが燃え尽きる姿になぞらえて、「燃えつき症候群」、「燃えつき」などといわれていますが、障害者の半数以上、家族の4割弱が経験していまこころのケアは、障害者とともに介助にあたる家族などにも必要です。

文献
1)山田幸男、大石正夫、ほか:中途視覚障害者のリハビリテーション(第6報)視覚障害者の心理・社会的問題、とくに白杖、点字、障害者手帳、自殺意識について。眼紀 52:24-29、2001.
2)山田幸男、大石正夫、ほか:中途視覚障害者のリハビリテーション(第9報)視覚障害者にみられる睡眠障害とうつ病の頻度、特徴。 眼紀 55:192-196、2004。

【略歴】
 1967年(昭和42)3月 新潟大学医学部卒業
          4月 新潟大学医学部附属病院インターン
 1968年(昭和43)4月 新潟大学医学部第一内科入局(内分泌代謝斑)
 1979年(昭和54)5月 社会福祉法人新潟市社会事業協会信楽園病院
 2005年(平成17)4月 公益財団法人新潟県保健衛生センター   

学 会
 日本内科学会認定医、日本糖尿病学会専門医、日本内分泌学会専門医、
 日本ロービジョン学会評議員、日本病態栄養学会評議員 

著 書
・視覚障害者のリハビリテーション(日本メディカルセンター)
・視覚障害者のためのパソコン教室(メディカ出版)
・白杖歩行サポートハンドブック(読書工房)
・目の不自由な人の“こころのケア”(考古堂)
・目の不自由な人の転倒予防(考古堂)、ほか

 

2013年9月11日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会 講演要旨 特別講演
「視覚障がい者はどうして支援機器を使わないのか?」
 林 豊彦(新潟大学・教授 大学院自然科学研究科/工学部福祉人間工学科)  

 日時:平成25年6月22日 午前
 会場:チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間

【講演要約】
1.視覚障がい者は支援機器を活用しているか?
 新潟市障がい者ITサポートセンターを設立した2008年、支援機器の使用状況を把握するためにアンケート調査を実施した。対象者は、身体障がい者手帳、療育手帳、精神障がい者福祉手帳をもつ新潟市民全員である。1500票配布し、有効回答799票をえた。視覚障がい者の内訳は41人(5.1%)であった。調査する支援機器は、代表的ないくつかの機器とし、各機器について「知らない」「聞いたことはある」「知っているが不要」「必要だが未使用」「使用中」のどれかを選んで答えてもらった。本来の調査目的は、使用状況と個人・環境要因との関係を分析することにあったが、結果は驚くべきものであった。 

 視覚障がい者の自立支援および就労・就業支援に必要な拡大読書器、Wiondows拡大鏡、ピンディスプレイ、スクリーンリーダー、光学式文字読み取り装置装置に対して、「知らない」と答えた割合は、それぞれ79.5%、85.5%、94.4%、94.4%、91.5%で、「使用中」の割合は、拡大読書器の5.1%が最高であった。このように、新潟市の視覚障がい者は、ほとんど支援機器を知らなかった。そのような現状では、潜在的なニーズはあるが、現実的なニーズは少なく、いくらサポートセンターを設置しも利用者は来てくれないことになる。

2.支援技術とその背景
 支援技術とは、TIDE(1991)の定義によれば、「機能的な制約を補い、自立生活を助け、かつ高齢者・障がい者が能力を発揮できるようにする技術」である。すなわち、能力を発揮するための環境要因のひとつである。私は医用生体工学が専門であったため、この分野に入ったとき、取りあえずアメリカのある学会・機器展示会に参加してみた。驚いたことは、日本では見たことも聞いたこともない多くの機器が展示されているばかりか、実際に使っている障がい者も参加していたことである。どうしてアメリカでは使われているに、日本では使われていないのだろうか?それが私の素朴な疑問であった。 

 その理由はすぐにわかった。日本とアメリカの法律の違いであった。アメリカでは、1990年に障がい者の差別を禁止したADA法(障がいをもつアメリカ人法)が制定され、1997年には障がい児が能力に応じて教育を受ける権利を保証する個別障害児教育法が改訂されていた。つまり、障がい者が支援機器を就学・就労に活用できる法的環境が整えられていた。そのための公的な予算措置もあった。支援機器の専門家が職業として存在し、その利用を支援するNPOも存在していた。 

3.新潟市障がい者ITサポートセンター
 嘆いているだけではしかたないので、地域の関連期間・団体・組織と連携してセンターの運営体制を整え、2009年度から実質的な支援を開始した。いまだ地域ニーズが少ないことを考慮して、事業戦略は「障がい者が必ず関係する病院と学校に対して積極的に営業活動を行い、介入する」こととした。具体的には、出前の講演会・講習会・研修会を頻繁に開催した。それが功を奏し、4月は支援件数が13件しかなかったものが、1年後には月平均50件を越えるようになった。平成24年度は、全支援件数が721件(月平均60件)、講座・研修会の開催が41件であった。支援員がひとりしかいなセンターとしては、画期的な数字ではないかと思う。 

 当センターの支援ポリシーは、単独では支援しないで、コメディカルや教師など他分野の専門家といっしょに支援することである。すなわち、障がい者がほんとうに必要としている環境を、医療・福祉・教育の専門家と恊働で整備することである。「我々ができる支援をする」のではなく、「障がい者個人にとって最適な環境を作る」ことが必要だからである。平成24年度に連携した機関・組織・団体は52におよぶ。 

4.支援体制の問題と解決策
 上記の実績にもかかわらず、我々が支援してきた障がい者は、必要としている人のごく一部にすぎない。それは当センターの支援体制そのものに問題があるからである。つまり、支援員がひとりしかいない状態では、直接的な支援をいま以上に増やすことは不可能に近い。しかし、支援技術者という職業が存在しない日本では、支援技術者の増加も困難である。

 その解決策としてひとつ考えられることは、当センターの社会的機能を、職業として成り立っている専門家に分散させることである。つまり、コメディカルと教師の一部を支援技術の専門家として育成することである。各学校・病院に、そのような専門家がひとりいれば、簡単な問題はそこで解決でき、それによって支援できる人を増やすことができる。サポートセンターは、その上部組織として、難しいケースの支援、機器情報の提供、機器の貸し出し、教育・研修などを行えばよい。そのために今年度、コメディカルを対象とした教育カリキュラムを作り、試行的に教育も行ってみた。来年度からは、新潟県作業療法士会と協力して教育を始める予定である。牛歩の歩みではあるが、前には進んでいると思う。

【略歴】
 1977 新潟大学工学部・電子工学科卒業
 1979 新潟大学大学院・工学研究科修士課程修了
     新潟大学・助手 歯学部
 1986 歯学博士 (新潟大学)
 1987 新潟大学・講師 歯学部附属病院
 1989 工学博士 (東京工業大学)
 1991 新潟大学・助教授 工学部情報工学科
 1996 Johns Hopkins大学・客員研究員
 1998 新潟大学・教授 工学部福祉人間工学科
 2008 新潟市障がい者ITサポートセンター長(兼任)

 

2013年7月15日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会 総括
 大会長 安藤伸朗 (済生会新潟第二病院) 

 2013年6月に新潟で、第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会を開催し、無事に終了致しました。大会の参加者数が予想を超えて多数であったこと、大会中特に混乱なく終了できたこと、参加者の評判が概ね好評であったこと等々、先ずは一安心しております。今大会は、「おもてなし」をキーワードに準備して参りました。
 プログラムは、一年かけて実行委員会で練り上げたものです。テーマを、「『見えない』を『見える』にする『心・技・体』」としました。

【特別講演】
 心:「視覚障害者に対するこころのケア」
   山田 幸男(信楽園病院/NPO法人障害者自立支援センターオアシス)
 http://andonoburo.net/on/2148

 技:「視覚障がい者はどうして支援機器を使わないのか?」
      林 豊彦(新潟大学教授 工学部福祉人間工学科)
 http://andonoburo.net/on/2144

【招待講演】市民公開講座 (共催 新潟ロービジョン研究会2013)
 体:「iPS細胞を用いた網膜再生医療」
    高橋 政代 (理化学研究所)
 http://andonoburo.net/on/2155 

   「網膜色素変性、治療への最前線」
    山本 修一 (千葉大学眼科教授)
 http://andonoburo.net/on/2163

【一般講演】
 81演題が集まりました。全ての抄録を抄録作成支援委員会で吟味して頂き、80%以上の抄録に再提出を求めましたが、演題提出者は皆、快く再提出して下さいました。抄録作成支援委員会の皆様の丁寧なお仕事に敬意を表します。
 自由演題(5題)  ※発表者のみ掲載
 1.震災半年後以降に多数が亡くなられていた視覚障害者
   加藤 俊和(全国視覚障害者情報提供施設協会)
 2.わが国における盲ろう者の実態についての調査-身体障害者手帳の交付状況をもとに
      前田 晃秀(東京都盲ろう者支援センター・筑波大学人間総合科学研究科)
 3.盲ろう者のより安全な単独歩行を実現するために行った盲導犬貸与の事例報告
   益野 健平(公益財団法人 日本盲導犬協会)
 4.中間型アウトリーチ支援の実践可能性
   西脇 友紀(国立障害者リハビリテーションセンター病院)
 5.視覚障害者に対する化粧療法の可能性-社会復帰に有効にはたらいた一例
   松下 惠(ケアメイク*リハビリテーション協会)  

 特集演題「スマートサイト」(4題)  ※発表者のみ掲載
 1.仙台・宮城版スマートサイトの仕組みと経過
   佐渡 一成(さど眼科)
 2.北海道地域におけるスマートサイトモデルの展開
   永井 春彦(勤医協札幌病院眼科)
 3.岡山県版リーフレット「かけはし」の報告
   守本 典子(岡山大学眼科・岡山県視覚障害を考える会)
 4.アメリカ合衆国の視覚障害リハビリテーション施設における「スマートサイト」活用の現状調査
   伊東 良輔(社会福祉法人北九州市福祉事業団) 

 ポスター演題(72題)
  7項目に分類しました~歩行・移動(16題)、読み(7題)、スマートサイト・連携(7題)、視覚障害教育(7題)、支援(20題)、支援機器・ITサポート(9題)、視機能・眼光学・他(6題)
 http://andonoburo.net/on/1901

【シンポジウム】
 「視覚障害者の就労支援」 
  司会:星野 恵美子 (新潟医療福祉大学)
   小島 紀代子(NPO障害者自立支援センターオアシス)、清水 晃(新潟県上越市)、今野 靖(新潟公共職業安定所)、 工藤 正一(NPO法人タートル)
 ttp://andonoburo.net/on/2263

【特別企画】
1)「歩行訓練の将来」 
   司会:山田 幸男(NPO障害者自立支援センターオアシス)
   清水 美知子(歩行訓練士;埼玉県)、松永 秀夫 (新潟県視覚障害者福祉協会)
 http://andonoburo.net/on/2010
2)「視覚障害者とスマートフォン」
   渡辺 哲也 (新潟大学工学部 福祉人間工学科)
 http://andonoburo.net/on/2218 
3)「盲学校での中途視覚障害者支援」 
   司会:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
   話題提供:中村 信弘(秋田県立盲学校 校長)、情報提供:田邊 佳実
 http://andonoburo.net/on/2227

【ランチョンセミナー】今回試みとして、学会が主催して行いました。
 「ここまで進化している!眼科の検査と治療の最前線」 
  長谷部 日 (新潟大学医学部講師;眼科)
 http://andonoburo.net/on/2193 
 「医療のなかでのロービジョンケアの役割」
  新井 千賀子 (視能訓練士:杏林大学)
 http://andonoburo.net/on/2197
 「『生きる』を変える,携帯端末と視覚リハ事情」
  三宅 琢(Gift Hands) 氏間 和仁(広島大学)
 http://andonoburo.net/on/2166

【関連企画】
 「歩行訓練士情報交換会」「視能訓練士講習会」「地域ブロックの会」を開催しました。毎回お馴染みの「盲導犬体験コーナー」も好評でした。

 「視能訓練士講習会」(視能訓練士のみ対象) 
  私はこうやっている-ロービジョンケア症例報告会-
    司会:石井 雅子(新潟医療福祉大学医療技術学部)
 1)就学前後のロービジョンケア 小笹 一枝(浅ノ川総合病院)
 2)盲学校での学齢期ロービジョンケア 田中 敦子(秋田盲学校/秋田大学)
 3)高齢者のロービジョンケア 昆 美保(岩手医科大学) 

【福祉機器展示】 (一般開放)
 福祉機器展示会場は、これまでになく多くの方が訪問し活気がありました。
 機器展示企業&団体 (申し込み順)~ ケージーエス株式会社, 東海光学株式会社, 有限会社アットイーズ, 株式会社新潟眼鏡院, 日本テレソフト, 株式会社インサイト,(株) タイムズコーポレーション, シナノケンシ株式会社, (株)ケイメイ, アイネット株式会社,(株)西澤電機計器製作所, Gift Hands, 三菱電機株式会社 (京都製作所営業部),(株)エッシェンバッハ光学ジャパン, パナソニック株式会社・AVCネットワークス社, 日本盲導犬協会, 有限会社読書工房, ケアメイクリハビリテーション協会 

【懇親会】
 越後瞽女唄の披露や、利き酒コーナーを用意し、200名を超える方々が参加され盛況でした。
 http://andonoburo.net/on/2029

【後援】
 日本ロービジョン学会、日本視能訓練士協会、新潟大学工学部、新潟県、新潟市、新潟県眼科医会、新潟県視覚障害者福祉協会 

【登録なしで参加できるプログラム】
 1.機器展示 
 2.盲導犬体験コーナー
 3.『招待講演』共催「新潟ロービジョン研究会2013」市民公開講座 
  1)「iPS細胞を用いた網膜再生医療」 高橋 政代 (理化学研究所)
  2)「網膜色素変性、治療への最前線」 山本 修一 (千葉大学眼科教授)

【その他】
 参加登録者数は400名を超えました(例年は200名、前年の所沢で300名)。どの会場もほぼ満員の状態でした。座長の先生には時間厳守で臨んで頂き、大きく時間がずれることなく進行できました。

 最終日の招待講演は、どなたでも聴講できる市民公開講座として開催し、また直前にユーストリームを介してのネット配信も決まりました。講演会場(300名)・TV中継会場(100名)、および全国でのネット聴講(400名)での参加者を合計すると、800名超と過去最大規模となりました。

 ただ参加者数が予想を超えたため御迷惑もお掛けしてしまいました。会場が狭く立ち見が出たため講演途中でイスを搬入したり、最終日には講演会場を倍の広さに変更したり、何度も予定の変更を余儀なくさせられました。ランチョンセミナーではお弁当が足りなくなったり、懇親会も想定外の200名を超える方々が参加され、食べ物が不足がちでした。ただこうした状況も、実行委員およびスタッフの機転を利かせた献身的な活躍で、何とか乗り切ることが出来ました。そして参加された皆さまの熱心な討論が繰り広げられ、盛り上がった、有意義な大会になったのではないかと思っております。

 本大会の成功を握る5つの鍵として、以下の5点を掲げておりました。1)多くの方の参加、2)質の高い実りある議論、3)新潟をアピール、4)収支を赤字にしない、5)発表を原著に。幸いにも、このすべてを全うできそうです。特に最後の点に関しては、招待講演(2題)・特別講演(2題)・ランチョンセミナー(4題)・シンポジウム(1題)・特別企画(2題)の計11題を、総説および報告として、「視覚リハビリテーション研究」に掲載致します。ご期待下さい。

 何回も準備委員会を開催し苦労もありましたが、笑顔で当日を迎えることが出来、笑顔で無事に大会を終えることが出来たことですべてが報われたと思います。

 末筆になりましたが、終始丁寧にご指導頂いた視覚障害リハビリテーション協会、毎月実行委員会で遅くまで討議して頂いた実行委員、アルバイトとして協力頂いた医師(研修医含め)・新潟大学工学部・医学部・新潟医療福祉大学の学生、延べ50名の誘導ボランティアの皆さま、新潟市からの手話通訳の方々、労務提供して頂いた方々、ご寄付を頂いた団体や企業の方々、後援・支援を頂いた方々の全ての皆様に、厚く御礼申し上げます。

 第23回大会は、2014年7月19日(土)20日(日)、会場は同志社大学です。今度は京都でお会いしましょう。
 http://www.jarvi.org/guests/info/info20140719.html

======================================
第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会
 大 会 期 間 :2013年6月22日(土)~6月23日(日)
 プレカンファレンス:6月21日(金)
 大 会 会 場 :
   チサンホテル&コンファレンスセンター新潟(4階) 越後の間
   新潟大学駅南キャンパスときめいと(2階)

【参加者・機器展示・後援・発表等の状況】
 参加者人数 403名 (会員208名、非会員162名、学生33名)
 懇親会参加者 235名 (会員・非会員・学生220名、招待者15名)
 機器展出展 18企業・団体 (機器展入場者数は未計数なるも大いに賑わう)
 後援団体 7
 協賛企業・団体 16
 発表(一般演題)81題 (一般口演9題、ポスター72題)
 発表(企画講演等)15題 (特別講演2題、招待講演2題、シンポジウム1題、特別企画3題、ランチョンセミナー4題、関連企画3題)
 取材 4件

【主催】視覚障害リハビリテーション協会 

【主管】第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会実行委員会 

【事務局】第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会実行委員会事務局
  〒950-2181 新潟市西区五十嵐2の町8050番地
  新潟大学 工学部 福祉人間工学科 渡辺研究室内 

【実行委員会】
 大   会   長:安藤 伸朗(済生会新潟第二病院 眼科)
 大会実行委員長:渡辺 哲也(新潟大学工学部福祉人間工学科)
 大会実行副委員長:松永 秀夫(新潟県視覚障害者福祉協会)
 委       員:
  伊佐 清   (トプコンメディカル新潟)
  石井 雅子 (新潟医療福祉大学医療技術学部) 
  小島 紀代子(NPO法人障害者自立支援センターオアシス)
  小西 明  (新潟県立新潟盲学校)
  中野 真範 (株式会社 新潟眼鏡院)
  張替 涼子 (新潟大学医学部 眼科)
  星野 恵美子(新潟医療福祉大学社会福祉学部)
  山口 俊光 (新潟市障がい者ITサポートセンター)
  山田 幸男 (信楽園病院内科 新潟県保健衛生センター)
                 (以上、あいうえお順)
 http://andonoburo.net/off/1624

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『視覚障害リハビリテーション協会』 とは?

 視覚障害日常生活訓練研究会(1972年)、日本視覚障害歩行訓練士協会(1977年)、日本視覚障害リハビリテーション協会(1987年)、ロービジョン研究会(1988年)が統合して、1992年2月15日に設立されました。
  本会は、視覚障害者に対する、福祉・教育・職業・医療等の分野におけるリハビリテーションに関心をもつ者の相互の学際的交流を図り、理解を深めるととも に、指導技術の向上を図る活動を通して、視覚障害者のリハビリテーションの発展・普及に寄与することを目的としています。様々な業種の方が、専門の枠を乗 り越えて討論できるのが魅力です。 

 視覚障害リハビリテーション協会
 http://www.jarvi.org/

2013年6月26日

平成25年6月21日(金)午後から23日(日)13時半まで、チサンホテル新潟と新潟大学駅南キャンパス「ときめいと」で視覚リハ大会を行いました。

過去最大の一般演題数(81演題)、抄録作成支援委員会による全抄録の査読、想定外と言ってもいいほどの参加者数(500名超)、過去最大数の総会出席者数(100名超)、過去最大数の懇親会出席者数(200名超)、大会が行ったランチョンセミナー(2会場共に150名超)、招待講演を市民公開講座として誰でも参加できたこと+TV中継にて別会場で視聴+ユーストリームを介して全国への配信(講演会場350名+TV中継会場100名+ネット配信視聴400名 合計850名)。

会場が狭くて立ち見が出たり、ランチョンセミナーのお弁当が足りなかったり、懇親会では食べるものがすぐになくなってしまったりと最後まで皆様にはご迷惑をお掛けしてしまいました。

至らぬことの多い大会長でしたが、これをカバーして下さった実行委員の皆様やバイトや労務提供の皆様、そして何よりも大会参加者のご協力により、無事に終了できましたことを感謝致します。

 

  第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会
                 大会長 安藤伸朗

 

【主催】
  視覚障害リハビリテーション協会 

【主管】
  第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会実行委員会 

【事務局】
  第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会実行委員会事務局
   〒950-2181 新潟市西区五十嵐2の町8050番地
   新潟大学 工学部 福祉人間工学科 渡辺研究室内
  E-mail : jarvi2013info@eng.niigata-u.ac.jp
  FAX:025-262-7198 

【実行委員会】
 大   会   長:安藤 伸朗(済生会新潟第二病院 眼科)
 実行委員長 :渡辺 哲也(新潟大学工学部福祉人間工学科)
 副 委 員 長: 松永 秀夫(新潟県視覚障害者福祉協会)
 委       員:伊佐 清   (トプコンメディカル新潟)
          石井 雅子 (新潟医療福祉大学医療技術学部) 
          小島 紀代子(NPO法人障害者自立支援センターオアシス)
          小西 明  (新潟県立新潟盲学校)
          中野 真範 (株式会社 新潟眼鏡院)
          張替 涼子 (新潟大学医学部 眼科)
          星野 恵美子(新潟医療福祉大学社会福祉学部)
          山口 俊光 (新潟市障がい者ITサポートセンター)
          山田 幸男 (信楽園病院内科 新潟県保健衛生センター)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『視覚障害リハビリテーション協会』 とは?

 視覚障害日常生活訓練研究会(1972年)、日本視覚障害歩行訓練士協会(1977年)、日本視覚障害リハビリテーション協会(1987年)、ロービジョン研究会(1988年)が統合して、1992年2月15日に設立されました。  

  本会は、視覚障害者に対する、福祉・教育・職業・医療等の分野におけるリハビリテーションに関心をもつ者の相互の学際的交流を図り、理解を深めるととも に、指導技術の向上を図る活動を通して、視覚障害者のリハビリテーションの発展・普及に寄与することを目的としています。様々な業種の方が、専門の枠を乗 り越えて討論できるのが魅力です。

 視覚障害リハビリテーション協会
 http://www.jarvi.org/

2013年6月11日

第22回視覚障害リハビリテーション研究発表大会 講演要旨  
【シンポジウム】 『視覚障がい者の就労支援』   
 星野 恵美子 (司会:新潟医療福祉大学)    
 小島 紀代子 (NPO障害者自立支援センターオアシス)   
 清水 晃 (新潟県上越市)
 今野 靖 (新潟公共職業安定所)
 工藤 正一 (NPO法人タートル)

 平成25年6月23日(日)  
 チサンホテル&カンファレンスセンター新潟 越後の間

【講演要旨】  
 障がい者にも、健常者にも、就労(働くこと)は、その経済面での保障や社会的、自尊感情のために重要である。就労支援においては、その障害特有の解決を要する課題がある。今回のシンポジウムでは、視覚障がい者が働く現状と課題を明らかにしその支援策等について検討し、今後に生かすことが今回のシンポの目的であった。 実践・体験豊かなシンポジストに恵まれたおかげで、実り大きいシンポとなった。就労支援の成功の鍵としては、当事者の相談をして、心を支えつつ職業能力を高め、各種の専門家が適切に連携して問題解決を図ることが効果的である。

 以下に各領域のシンポジストの発言を振り返る。
1.視覚障害者を取り巻く現状と課題 相談支援する立場から
  小島 紀代子 (NPO障害者自立支援センターオアシス)  
 NPO法人オアシスでは調理、歩行、化粧等の日常生活訓練や、パソコン、拡大読書器の使用や福祉制度の紹介を行う。また、多くの方の相談に当たり、グループセラピーを通して心のケアに力を注いでいる。 相談事例の調査報告から、中途障害によるシニア層で離職の理由は、文字の読み書きの困難や夕方からの歩行が難しく、残業や仕事ができないと思い退職。また若い世代では、運転が困難になり仕事に支障、世間の目が重圧になり白杖が持てない、盲学校という選択肢を断念する。いずれの世代でも離職後相談に訪れるため、打つ手が限定される傾向にある。一方、就労した人は早くに助けを求め、辛い時に相談し、就労に必要な各種技能を訓練し取得したり、多様な専門職とのチーム医療に支えられて就労にこぎつける。

2.当事者の立場で     
 清水 晃 (上越市役所勤務)  
 仕事を持つ意味は人生にとって大事な自分自身の存在を守るための仕事の選択がある。再就職へ向けてのアクションとしては、サポート体制の構築や就労支援制度に関する情報を整理し、自己分析作業が大切である。まとめとして、病状悪化に伴い、様々な苦労をしたが、現在は自身のサポート体制が整っているため、将来的な不安は少ない。今後、さらなる病状悪化が予想されるが、連携を図りながら、就労継続や自己能力開発に努めていきたい

3.ハローワーク新潟における視覚障がい者の就労支援   
 今野 靖 (新潟公共職業安定所)
 職業リハビリテーションの目的は、求職者が職業を通じて、社会人として生活できるように支援する。就職準備から職場定着までのチーム支援によるサポートが重要である。 視覚障がい者(応募者側から)の採用・就労継続のポイントとしては、   (1)正確な自己分析(能力・キャリア・障がい特性)に基づく応募先の選択、 (2)就職活動ノウハウを基本とした効果的な実践(自己PR,アピール)、 (3)本人のニーズと適性に合った紹介と企業への面接・採用の働き掛け、(4)通勤面、職場内での職業生活のクリア及び職務遂行能力の確保、 (5)助成金・支援メニュー、支援機器等を活用した課題・問題解決が重要である。

4.「視覚障害者の就労支援と今後の課題」   
 工藤 正一 (NPO法人タートル)  
 中途で視覚障害者となっても、いかにすれば、働き続けられるか。  事例からみた就労成功の条件とは、①障害の受容と前向きな姿勢 ②ロービジョンケアを踏まえた関係者との連携、③PC操作技術の習得と歩行訓練による通勤の安全、④職場の理解・協力、⑤各種支援制度の活用である。また、職場復帰や雇用継続の判断には産業医の意見が重要で、産業医が眼科医と連携し保有視機能の状態と配慮事項等の情報の共有することで、適切な支援・雇用管理が可能となる。また、雇用継続のためには、・障害受容と心のケア、生活面と職業面の問題の解決、受障初期の眼科医療からの連携が必要である。  
 今後の課題として、視覚障害があっても働き続けられるように、①在職者訓練等、職業訓練機会の保障、②視覚障害者に対応できるジョブコーチの養成、③歩行訓練と職業訓練の人材の養成及び障害者支援体制の整備として、④ロービジョンケアと産業医との連携、⑤視覚障害の正しい理解と合理的配慮の検討が望まれる。

 

2012年10月26日

報告:【目の愛護デー記念講演会 2012】 岩田和雄名誉教授
(第200回(12‐10月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会)
  演題 「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」 

  講師 岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
    日時:平成24年10月10日(水)16:30 ~ 18:00
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

【講演要旨】
 私が医学生だった60数年前、眼科の有名な教科書の扉に「眼は心の窓、美貌の中心」と書いあった。現在では更に、脳の窓、全身病の窓、加齢の窓、情報受容の最大センターとなろう。若しも自分が失明したらと考えれば、眼の愛護デーの意義は自ずと明快であろう。 

 誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にある。明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。 

 当時、トラコーマの酷い蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、医学部付属病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。以上、ルーツに関するあらましを理解することで、眼の愛護にかんする認識を改めていただきたい。 

 現在、山中教授のiPS細胞でノーベル賞受賞に湧いているが、一朝一夕に出来上がったものではないし、越えなければならないいくつかの頑強な壁が眼の前に立ちはだかっている。 

 私は、眼科医としての60年間、現在の大変な進歩にいたる艱難辛苦の過程をつぶさに体験してきた。例えば、白内障の手術と眼内レンズ移植は現在では日帰りでも可能な安全で信頼できる手術となり、日常大量の手術がなされているが、それはこの20-30年のことで、それまでは、牛の歩みよりまだ遅い幼稚きわまりない手術で、術者も患者さんも決死の覚悟に近い心情で手術に臨んだものである。絶対安静1週間以上で、ストレスで寿命を縮めた人も多く、しかも、術後は分厚い重い粗悪なメガネが必要であった。 

 現在、医学の急速な発展で、治療法の進歩も著しい。それにより難病も治癒できる部分が増えて、有難いことである。これにいたるまでの人類のたゆまぬ努力に感謝せねばなるまい。しかし、いまだ完璧なものはなく、失明にいたるリスクが津波の如くやってくる。果てることのない一層の研究と努力が要請される。 

 尚、 物が見えるために不可欠な、見えた途端に影像を消し去る不思議な機構や、病気との関連、光凝固療法の発展の苦心、角膜移植、iPS細胞から網膜移植の可能性が近いこと、宇宙飛行士に発生した珍しい眼症状、網膜疾患で失明した人にカメラの影像を網膜内に設置した電極に送り、電気信号を脳の中枢に送り、0.005 まで視力が可能となったこと等などについても解説した。 

 「眼の愛護デー」を契機に、日常気づかずにいる「見る」ことの大切さを改めて認識し、そのために大変な努力をしているヒトの視機能の生理と病態、失ったものを取り戻そうとする人類の努力に思いを致していただきたい。 

【岩田和雄先生 ご略歴】
  昭和28年新潟大学医学部眼科に入局
  昭和36-38年 ドイツのボン大学眼科に留学(フンボルト奨学生)
  昭和47年 新潟大学 眼科学 教授
  平成 5年 定年退職、新潟大学 名誉教授

 専門:緑内障学(病因、病態、診断、治療)
   国際緑内障学会理事、日本緑内障学会名誉会員、日本眼科学会名誉会員、
   
日本感染症学会名誉会員、日本神経眼科学会名誉会員など 

  旧日本サルコイドーシス学会理事、旧新潟眼球銀行理事長
  新潟日報文化賞、日本眼科学会特別貢献賞、日本眼科学会評議委員会賞
  須田記念賞、日本神経眼科学会石川メダル、日本臨床眼科学会会長賞
  環境保全功労賞(環境庁)
 叙勲 瑞宝中綬章 

【後記】
 平成8年6月に開始した済生会新潟第二病院眼科勉強会も200回になりました。この日はたまたま10月10日「目の愛護デー」。当初からこの200回目の勉強会は恩師である岩田先生にお話して頂こうと決めておりました。 

 講演は図や写真がふんだんで、多くの方に判りやすいものでした。「目の愛護デー」が新潟に由来するものであること、そして「トラホーム」、「近視治療」、「老眼治療」、「白内障手術」、「見えることの不思議 固視微動」、「光凝固」、「角膜移植」、「加齢黄斑症」、「人工網膜」、「宇宙飛行士の眼」、、、幅広い話題に感動しました。 

 「見る」ために、眼球は絶えず動いて(固視微動)新しい刺激を脳に送ることにより、視覚を得ているとう途方もない努力を不断に行っています(誰も意識していませんが)。そして眼疾患の治療のため、何世紀にもわたり、多くの先達が大変な努力をして今日の眼科学を発展させてきたことに思いを馳せることのできる講演でした。 

 岩田先生は、私が眼科医を目指して新潟大学眼科に入局させて頂いた時の教授です。大学の医局では教授のことを「おやじ」と言います(現在では言わなくなりましたが)。「おやじ」には叶いません。私が生まれた年に眼科医としてスタートし、これまで60年毎日、現役で眼科学の研鑽と研究に邁進しておられます。 

 4年前に傘寿をお迎えになりましたが、これからもますます元気で、多くのことを教えて頂きたいものと思います。 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー  

PS:『目の愛護デーの由来』 

1)新潟大学眼科HPより
 
新潟の医学史と教室創立以前の眼科事情 〜目の愛護デーは新潟発?
 
http://www.med.niigata-u.ac.jp/oph/about_us1.html 

 官立新潟医学専門学校の前身である新潟医学校が開設されたのは明治12年である。しかしそれよりも更に以前から新潟県内の各所で医学校、医学館が設立されていた。「新潟大学医学部百年史」によれば、安永5年(1776年)に新発田藩に医学館が設立され、その後江戸時代後期には長岡、佐渡、高田にも医学校が設立されたということである。明治2年には越後府病院が設立されたが、これは当時新潟の行政中心だった水原町(現阿賀野市)にあった。病院頭取は竹山屯(たむろ)氏であった。しかし翌年には行政庁が現在の新潟市に移転となり、府病院は廃止されてしまう。 

 明治6年に私立新潟病院が現在の新潟市医学町に開設され、ここで医学教育も始まった。前述の竹山屯は明治8年に新潟病院副医長兼医学校助教に任命された。明治9年に新潟病院は県に移管された。 

 明治11年9月、明治天皇は北陸御巡幸の折、越後に眼疾患者が多いのに気付かれ9月18日にその治療及び予防のためにと御手元金千円を下賜された。県当局は民間から寄付9千円を集め、加えて合計1万円とし、この利子を眼病対策に当てることになった。翌明治12年2月に新潟病院内に眼科講習所が開設された。差し当たって竹山屯が講師となり、県下の医師を集めて眼科講習会を開いたところ受講者延べ151人に及んだという。これらの医師に各地区の眼病治療及び予防活動を依頼した。このように本県における眼病の治療および予防の活動は、教室の創設以前からかなり活発なものがある。 

 因みに「眼の記念日」はこの日を記念して毎年9月18日と定められ、昭和14年以来毎年日本全国で無料眼疾検診、視力保存に関する講演会、講習会等の記念行事が行われてきた。しかし終戦による諸事の混乱と同時に、いつしか立ち消え状態になってしまった。その後復活して戦前と同様の行事が続けられているが、期日は現在は10月10日に変更され、目の愛護デーとして定着している。 

 明治12年7月に新潟病院は新潟医学校となり、病院はその附属施設となった。竹山屯は初代医学校長に任命された。明治30年には同院に眼科の診察室と手術室が開設され、明治43年の医学専門学校の創立と教室の開設へと繋がっていくのである。 

 ところでこのエピソードの要所要所に登場する竹山屯は黎明期の新潟眼科医療のキーマンと言えるだろう。明治11年明治天皇の北陸巡幸で眼病対策にご下賜金を賜った際も、目の悪い者が非常に多い事に気付かれたことを天皇に問われた竹山が「その原因を当時として非凡な卓見をもってこれに奏上した」(竹山病院HPより引用)のがきっかけとなったという。さらに竹山は明治12年に「眼科提要」を出版し、この書は多くの医学校で眼科の教科書として使用された。幕末期に長崎に留学し医学を学んだ竹山は初代新潟医学校の校長となるが、明治18年に医学校を辞任し開業する。そして新潟市の中心部に竹山病院を設立し、ここに産婦人科部長として迎えられたが荻野久作博士である。荻野博士は後に排卵と妊娠についての研究で大きな業績を残した(一般には「オギノ式」で有名であり、現在も医学部近くにある「オギノ通り」が荻野博士の業績を讃えている)。竹山病院に眼科がつくられなかったのは残念であるが、竹山屯の多大なる貢献が現在の新潟の医学そして眼科医療の礎を築き、その後の発展をもたらしたことは言うまでもないだろう。

*竹山病院(新潟市)HP
http://www.takeyama-hsp.com/about_outline.html 

============================ 

2)京都盲唖院・盲学校・視覚障害者の歴史(見えない戦争と平和)
「目の愛護デー」由来史料・『陸路廼記』
 
http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/39536253.html 

 10月10日は、「目の愛護デー」です。1010を横に倒すと眉と目の形に見えることから、中央盲人福祉協会が1931(昭和6)年に「視力保存デー」として制定したことに由来します(戦力としての視力の保存と言う意味合いがあったようです)。 

 それに先立って、「目の記念日」行事が取り組まれたことがあります。日付は、9月18日でした。「明治11年9月18日に明治天皇が新潟巡行の折り、沿道に目の病気の人(その時代は主にトラコーマ)が多いのを憂慮し、眼疾患の治療と予防に尽くすようにと金一封を奉納」それを受けて、眼の記念日が生まれたと伝え聞いてきました。そのように書かれた文章もあります。 

 これをめぐる史料を探していました。やっと、一つ有力な出典を知ることができました。明治11年の巡行に随行したという近藤芳樹による『陸路廼記(くぬかちのき・くぬがぢのき』に、最も古い時期かと思われる記述がありました。写真は、そのことを記した小山荘太郎(京都府立盲学校長)氏の文章を載せた『京都教育』誌の一部です。『陸路廼記』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに登載されています。その73コマ目からが、当該の記述になっています。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994422 

============================ 

3)千葉県眼科医会  「目の愛護デー」の由来について
 
http://www.mmjp.or.jp/chiba-oph/bukai.htm 

 失明予防を目的として、昭和6年7月中央盲人福祉協会の提唱により、全国盲人保護、失明防止大会が催されたのがきっかけとなって、10月10日を「視力保存デー」として、失明予防に関する運動を行うことが当時の内務相大会議室で決定された。以来10月10日を「視力保存デー」として、中央盲人福祉協会主催、内務省・文部省の後援で毎年全国的に実施することになった。 

 ところが、昭和13年から日本眼科医会の申し出により、明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際、新潟県下に眼病が多いのを御心痛になり、予防と治療のため御内幣金を御下賜されたのを記念して9月18日を「目の記念日」と改め、中央盲人福祉協会、日本眼科医会、日本トラホーム予防協会の共同主唱で昭和19年まで行ってきた。 

 戦時中一時中止していたのを昭和22年中央盲人福祉協会がこの運動を復活して、再び10月10日を「目の愛護デー」と改め、昭和25年、改名された日本眼衛生協会と共に厚生省と共催となり、日本眼科医会も協力して毎年標語を募りポスターなどを作成し10月10日をピークとして目の保健衛生に関する事業を行っている。

2011年12月4日

『報告:シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」2011』 

 2011年12月に、第17回日本糖尿病眼学会総会(会長~安藤伸朗;2011年12月2日~4日:東京国際フォーラム)を主催しました。
 この学会は、糖尿病の眼の合併症に対して、眼科医・内科医・医療スタッフが討論するという学術的な学会でありますが、患者さんに寄り添うことを目的に下記シンポジウムを行いました。ここで改めてその内容を紹介致します。 

「TEAM 2011」3学会合同スリーサム
第17回日本糖尿病眼学会
シンポジウム 「患者さん・家族が語る、病の重さ」
 日時:2011年12月3日16:30~18:00
 会場:東京国際フォーラム ホールB7-1)
オーガナイザー:
 安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
 大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター
      東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)

【オーガナイザーの言葉】
 私たち医師は、データに基づいたEBM中心の医療を実践していますが、患者の心のうちをどこまで理解して診療しているのか、疑問に思うことがしばしばあります。
 医者と患者の接点は病気であり、病院(医院)では医者も患者も病を治そうと思っています。しかし患者にとって病気は、幾つもある気掛かりなことの一部であり、他に沢山の悩みも抱えています。時に経済的なこと、時に対人関係、時に会社や学校のことであったりします。

 病気を治す主役は患者で、医師はサポーターであると言われます。その意味では患者と医者は対等ですが、本当にそうでしょうか?英語で患者は「patient」ですが、「patient」という単語には「耐える」、「辛抱する」という意味がありま、「be patient」とは、「耐えなさい」、「辛抱しなさい」ということです。患者patientとは、洋の東西を問わず、耐えることを強いられた存在なのかもしれません。

 病院hospitalが、患者にとって安らぐことのできる場、ホスピタリティーを感ずることのできる場となるためには、何よりも医療従事者が、患者の気持ちを理解する(理解しようとする)ことが大切ではないかと考えます。 

 本シンポジウムでは、患者さん・ご家族に、病との闘い方・付き合い方、そして本音をご自身の言葉で語って頂きました。登場するシンポジストは、ご自身あるいは家族が病と闘っている3名の現役医師と1名の大学教員(教授)です。ご自身の物語を客観的に述べることができる方々でした。
 患者・家族の声に耳を傾け、想いを共有し、現場の医療を見つめ直す機会に出来ればと思います。 


【パネリストの講演要約】
  S-1 1型糖尿病とともに歩んだ34年
    南 昌江 (南昌江内科クリニック)
  http://andonoburo.net/on/4165
  S-2 母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
   小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
  http://andonoburo.net/on/4171
  S-3 ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
   西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
  http://andonoburo.net/on/4203
  S-4 夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
   立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)
  http://andonoburo.net/on/4206
 

2011年12月3日

  もう4年も前のことですが、第17回日本糖尿病眼学会総会を主催しました(会長~安藤伸朗;2011年12月2日~4日:東京国際フォーラム)。
 本来、糖尿病の眼の合併症に対して、眼科医・内科医・医療スタッフが討論するという学術的な学会でありますが、あえて下記シンポジウムを行いました。ここで改めてその内容を紹介致します。

シンポジウム「患者さん・家族が語る、病の重さ」
12月3日16:30~18:00:東京国際フォーラム ホールB7-1)
 オーガナイザー:
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター、
        
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)

 S-1  1型糖尿病とともに歩んだ34年
     南 昌江 (南昌江内科クリニック)
 S-2  母を生きる 未熟児網膜症の我が子とともに
     小川 弓子(福岡市立肢体不自由児施設あゆみ学園園長;小児科医)
 S-3  ベーチェット病による中途視覚障害の親を通して学んだこと
     西田 朋美 (国立障害者リハビリテーションセンター;眼科医)
 S-4  夫と登る、高次脳機能障害というエベレスト
     立神 粧子 (フェリス女学院大学音楽学部・大学院 音楽研究科)

報告(その1)オーガナイザーの言葉、南先生講演要約
------------------------------------
【オーガナイザーの言葉】
  安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
  大森 安恵(海老名総合病院・糖尿病センター、
        
東京女子医大名誉教授、元東京女子医大糖尿病センター長)

 私たち医師は、データに基づいたEBM中心の医療を実践していますが、患者の心のうちをどこまで理解して診療しているのか、疑問に思うことがしばしばあります。
 医者と患者の接点は病気であり、病院(医院)では医者も患者も病を治そうと思っています。しかし患者にとって病気は、幾つもある気掛かりなことの一部であり、他に沢山の悩みも抱えています。時に経済的なこと、時に対人関係、時に会社や学校のことであったりします。 

 病気を治す主役は患者で、医師はサポーターであると言われます。その意味では患者と医者は対等ですが、本当にそうでしょうか?英語で患者は「patient」ですが、「patient」という単語には「耐える」、「辛抱する」という意味がありま、「be patient」とは、「耐えなさい」、「辛抱しなさい」ということです。患者patientとは、洋の東西を問わず、耐えることを強いられた存在なのかもしれません。

 病院hospitalが、患者にとって安らぐことのできる場、ホスピタリティーを感ずることのできる場となるためには、何よりも医療従事者が、患者の気持ちを理解する(理解しようとする)ことが大切ではないかと考えます。 

 本シンポジウムでは、患者さん・ご家族に、病との闘い方・付き合い方、そして本音をご自身の言葉で語って頂きました。登場するシンポジストは、ご自身あるいは家族が病と闘っている3名の現役医師と1名の大学教員(教授)です。ご自身の物語を客観的に述べることができる方々でした。
 患者・家族の声に耳を傾け、想いを共有し、現場の医療を見つめ直す機会に出来ればと思います。 

------------------------------------
S-1. 1型糖尿病とともに歩んだ34年
    南 昌江 (南 昌江内科クリニック)

【講演要旨】
 私は34年前の夏に1型糖尿病を発症しました。当初は親子とも落胆し将来を悲観しましたが、その後尊敬する医師との出会いによって人生が変わってきました。 

 16歳で小児糖尿病サマーキャンプに参加しました。本心は参加したくなかったのですが、主治医から半ば強制的に参加させられました。そこで、病気に甘えていた私たちに、ボランティアのヘルパーから、「糖尿病があるからといって社会では決して甘く見てくれない。これから糖尿病を抱えて生きていくなかで沢山の壁にぶつかるだろう。その壁を乗り越えられる強さを持ちなさい。」と話をされました。これまで病気を理由にいろいろなことから逃げていた自分に気がつき、その頃から病気とともに生きていく覚悟が出来、将来は「医師になって糖尿病をもつ人の役に立ちたい」と思うようになりました。 

 医師になって念願の東京女子医大糖尿病センター、平田幸正教授の下で医師の第1歩を踏み出しました。医師になったばかりの私に、平田先生は「あなたは貴重な経験をしている。同じ病気の子供たちのためにも、是非自分の経験を本に綴ってみてはどうかね?」というお話をいただきました。しかし研修医時代は不規則な生活が続き、糖尿病のコントロールも良くない状態で、こんな自分が糖尿病の患者さんを見る資格はないのではないかと内科医をあきらめかけた時もありました。医師になって3年目、今度は肝炎を患いました。糖尿病になって、一生懸命に頑張ってきたのにどうしてまたこんなに辛い思いをしなくてはいけないのだろうと、本当に辛い時期でした。3か月の休養をいただきましたが、その時に、ふと、以前平田先生からいただいたお話を思い出し、「こんな状態の自分でも、少しずつ自分の体験を綴ってみることはできるのではないだろうか」と思い、その後福岡に帰って勤務医を続けながら、私の経験が糖尿病の子供たちに勇気と希望を与えることができればと思い、「わたし糖尿病なの」を出版しました。 

 1998年に糖尿病専門クリニックを開業し、多くの糖尿病患者さんと接しています。診療の傍ら、講演や糖尿病の啓発活動を行っています。2002年に初めてホノルルマラソン(フルマラソン)を完走することができました。その時の感動は、今でも忘れられません。30kmを過ぎると本当に辛かったですが、最後のゴールを前にした時には、これまで生きて来て、辛かったことが走馬灯のように思い出され、一気に消えていきました。出会ったすべての方々への感謝と、本当に生きてきて良かった、という思いを天国の父に伝えたくて、涙を流しながらのゴールでした。 

 それまでは、合併症の危険性など自分の10年先の将来に自信がなかったのです。「将来、目が見えなくなるかもしれない、透析になるかもしれない。」という糖尿病の合併症の心配がどこかで自分を臆病にしていました。フルマラソンを完走できたことで、自分の体力・精神力に自信がつきました。この体験をきっかけに、(大きな借金をして)新たにクリニックを新築し、自分が長年理想としてきた糖尿病の診療をしています。 

 そして、“No Limit”をモットーに、“糖尿病があっても何でもできる”ことを一人でも多くの患者さんに理解して体験して頂きたいと思い、“TEAM DIABETES JAPAN”を結成し、毎年患者さんや医療関係者と一緒に参加しています。今年も無事に10回目のホノルルマラソン(2011年12月11日)を完走することができました。 

 自分の人生を振り返った時に、生き方や考え方を教えてくれたのは両親です。 父からは、高校生の頃に  「お前はハンディを持っているのだからその分、人の2倍も3倍も努力しなさい。」  「嫁には行けないだろうから、一人で生きていくために資格を取りなさい。」  「病気があると金がかかる。自分の医療費は自分で払えるように経済力を持ちなさい。」 と病気がある私にあえて厳しく育てられました。 

 私が大学受験で国立大学医学部に失敗して、浪人させてほしいと父にお願いした時には、「人より人生が短いのだから、1年でも無駄にするな。私立大学に合格したのだからそこで勉強して少しでも早く良い医者になりなさい。」と言われました。小さな電気屋を営んでいた我が家の家計では私立の医学部は到底難しかったと思いますが、両親は私のために必死で働いて卒業させてもらいました。それまで父には反抗していましたが、その時に父の愛情を深く感じました。そんな父が、2001年に癌で亡くなる前に、「もうお前は一人で生きていけるな。お母さんのことは頼んだよ。」と逝ってしまいました。 

 病気を持つ私に、強く生きていきなさいと育ててくれた父、いつでも「ありがたい、幸せ。」と感謝の言葉が口癖の母、そしてこれまで私が出会った方々や医学から受けた恩恵に感謝し、一日一日を大切に「糖尿病を持つ人生」を明るく楽しく自然に、いつまでも夢を持って走り続けていきたいと思っています。
 最後に、私にとって1型糖尿病とは? “素敵な試練”でしょうか? 

【略 歴】
 1988年 福岡大学医学部 卒業
      東京女子医科大学付属病院内科 入局
      同 糖尿病センターにて研修
 1991年 九州大学第2内科糖尿病研究室 所属
 1992年 九州厚生年金病院内科 勤務
 1993年 福岡赤十字病院内科 勤務
 1998年 「南昌江内科クリニック」開業(福岡市中央区平尾)
 2004年 福岡市南区平和に移転
     現在に至る